第6話 ズレ
十六時の仕事上がり。
向かう先はただ一つ。昨日の今日であるが我慢は出来ない。忠告も無視だ。
――私が
端麗な容姿、
夕映えを浴びる街並みに、電信柱の影がひっそりと伸びる。乾いた砂埃が漂う中、店の近くまで来ると幽かに焚き火の匂いが鼻腔を擽った。それほど煙も匂いも濃くはない。すでに焚き火は終わっているのだろう。ということは必ず店にいる。
夕闇忍び寄る薄暮の店内を覗くと、――甲斐はいた。
どうやらカウンターで伏せっているようだ。眠っているのだろうか?
「甲斐さん……?」
誰何に応えはない。
恐る恐る近づいていくと、動く気配もない。脳裏を走る予感に急ぎ足となる。
――ただ眠っているだけであった。
呼吸で身体が動いている。やや顔が赤く見えるが、微かに寝息も聞こえる。入相迫る夕映えを傘に、彼女は腕枕一つ夢の世界にいる。
その時。
胸中奥底から、まるで分からぬ感情がぞわぞわと湧き上がってきた。
突然鼓動が早まる。
いつも笑う甲斐の顔がこんなに近くにある。色がついた唇、透き通った肌、赤みがかった長髪、幽かに漏れる吐息、夕映えのブラウス。無防備な、あまりに無防備な思い人の寝姿。
魔――。
意識せず、甲斐の肩に手が近づく。
甲斐の肩に手が触れたところで幸いにして我に返った。
「何をしているんだ……」
小声で激しく自責した。そういうことではないのだ。私が求めているものは。
一瞬の大葛藤の末、甲斐に声を掛けた。
「甲斐さん、起きてください」
甲斐は突っ伏した状態から、寝ぼけているように上体をゆっくり起こした。
しかし――。
甲斐のブラウスは第三ボタンまで開かれ、胸元が大きくはだけていた。甲斐の両乳房の間が正面に広がる。
そこに、そこにである。
「
甲斐の胸元にはまるで、いや、まさしく新聞記事が、彫り物のように描かれていた。大見出し、写真、段落全て、よく見る新聞の体裁である。
しかし、
「ん……」
天上を仰ぎ見る姿勢から、甲斐が意識を取り戻す。瞳に光が宿る時に、そこに写るのは茫然と紅潮している私だ。
「あ、新井……さん?」
間もなく、理性がこの現実をさらけ出す。甲斐は胸元を一瞥して、叫んだ。
――悲鳴。
甲高い女の悲鳴。
「か、甲斐さん、これは、違うんです」
何が違うのか。
誰がどう見ても、これは
「す、すみません、寝ていたので起こそう声を掛けたら……」
精一杯の言い逃れに必死になる。
ここで文字通り手を出したと思われたら、全てが、
甲斐は口を
「……違うんです。そうではないのです」
震える声。聞き漏らすまいと息を止める。
「……見て、しまわれたのですか」
胸を、だろうか。
いや違う。
乳房ではない。あの記事が、いや、何故それが胸にあるのか――だ。
静かに首肯する。
「そう、ですか……」
――甲斐は再び黙った。
こんな甲斐は初めて見た。
目を瞑り、俯いて、唇を噛みしめていた。眉間には皺が寄り、誰がどう見てもその姿は煩悶のそれである。だから口を開くべきか悩んだ。
自然と渡辺との会話が、脳裏を過った。
――結婚式も葬式もない未亡人。
――姿が全く見えない亡き夫。
――入れ替わり立ち替わる男達。
不穏な言葉の津波に、不快感が加速度的に膨張していく。胸元の文字など「俯せで寝ていたらインクが写っちゃった」と笑顔で返して欲しかった。
だがそんな希望とは裏腹に、甲斐の沈黙は――重い。
しがみつくように、心を離さない違和感。
――自分は何を見てしまったのだろう。
それを問うとこの関係を壊してしまう、そんな恐れが心を焦がす。それでも沈黙には耐えられない。
「甲斐さん……、それは」
俯いていた甲斐が静かに顔を上げる。微かに涙が浮かぶ瞳。色が付いた頬。きつく締まった口元。
――その瞳の奥に何があるのか。
とんでもない何かが、
「新井さんが、……広言されないことをお約束していただけるなら……」
――ズレが、遂に顔を覗かせようとしている。
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