科学的考察の及ばぬ秘密ノ誘惑

第9話 契り

　――奇妙な共同生活。

　院長との相談の上で決まった事が二つ。

　一つ、院長が警察、役場、知人等への確認をしてくれる。

　一つ、奇妙珍妙なる病状なれば静養の下、時折来院すること。

　では、長田は何処で静養し得るか？

　一時の決断理由が長期的な結論に転じた。一体いつまで続くことになるか分からない。それでも、この長田という殿方が疫病神でもない限り、生活に大支障が出ない限り否定する必要はない。

　突然訪れた非日常。それを欲していたのは、私自身。

　庇護者として、女として。

　記憶を無くした長田は病人であり、拠り所のない棄民（きみん）であり、純朴な一人の男だった。両親を亡くした寂しさは、確実に異なる存在を欲していた。それでも私の好きにして良い訳じゃない。長田の苦労が偲ばれる。

　記憶喪失――。

　全てを忘れていたならば、いっそ気が楽だったかもしれない。

　しかし長田の記憶喪失は中途半端であった。名前も分かる、日付も分かる、にもかかわらず『己の由来』が皆目思い出せない。

　恐らくその苦しみは長田しか分からない。だからこそ、その苦痛を少しでも軽くしてあげること。それこそが生活の基礎になった。

　最初の一週間は「おままごと」のようだった。事あるごとに昔話や子どもの頃の話、よく食べたものは何かなど、細かく細かく聞いていった。しかし、そのいずれも結果に繋がらない。

　確かな知性を感じる口振り。

　字も読める。難読漢字も問題ない。

　歴史や出来事も学校で習うことは一通り――、いや、世間一般の常識よりもかなり詳しく知っているくらいだ。けれどここ数年の事については全くと言って良いほど「分からぬ」と答えが来た。

　この方法では結果は出ない。早々に切り替えるしかなかった。

　次の試みは、家事の分担である。

　――炊事、洗濯、掃除。

　日常の中に記憶の手がかりを探した。

　当たり前ではあろうが、殿方である長田の腕前は一人前ではなかった。洗濯一つ取っても、強く洗いすぎると繊維が傷つき解れやすくなる。傷めば傷むほど裁縫で補修しなければならないから、雪達磨式に仕事が増えていくばかりだ。

　朝餉（あさげ）・夕餉（ゆうげ）も同様で、湯の加減、火の調整、調味料の匙加減（さじかげん）に至るまで慣れない人間が料理をすると、それはそれはこの世のものではない恐ろしい仕上がりになる。

　これらの懸念が現実にならないよう手取り足取り、一から料理や洗濯について教えていった。

　長田は不器用ではなかったが、慣れるまではそれ相応の時間が掛かった。その過程は平坦ではなかったが、彼は不平不満をひとつも零さず、従順に教えを身につけていった。

「甲斐さんは、本当に物知りですねぇ」

　一ヶ月程度経った時の、彼の呑気な感想である。

　ツナサンドから次は西洋うどん（マカロニ）へ挑戦する。

　めきめきと料理の腕が磨かれ、家事の労働量が目に見えて軽くなっていった。彼と色々な料理を食べたかったし、彼に食べて欲しかった。

　――過去がないことは苦しいことだ。

　それでも新しい知識や経験で上書きできれば、それが長田にとっての『幸福』になるかもしれない。だから忙しい合間を縫って色々なことを教えた。

「長田さんの飲み込みも良いですよ」

「教え方が上手いんですよ」

「いえいえ」

　随分と惚気（のろけ）た会話も当たり前になった。

　独りではない生活。

　家に充満する懐かしさ。

　異性との同棲という気恥ずかしさ。

　久しく肌にしていなかった長閑（のどか）な陽気が心に燦々（さんさん）と指しこむこの感覚は、得難く失いたくないもの。

　この間にも院長と幾度か診て貰い進捗を伺った。

　――回答は冴えない。

　警察、役場で長田らしき人物の失踪について調べて貰ったが、結果は梨の礫（つぶて）。近隣の知人にも該当はなく、名無しの権兵衛である。

　期待はしていなかった。

　胸（・）に（・）文（・）字（・）が（・）浮（・）か（・）び（・）上（・）が（・）る（・）男（・）性（・）など、そこら中にいる訳ではない。もしかしたら永遠に見つからないかもしれない。

　――それでも良かった。

　見つからないならずっと一緒に彼と居られる。それがどれだけの『幸福』か量ることなんて出来ない。

　ただ、もし――、長田もそ（・）れ（・）を（・）望（・）ん（・）で（・）い（・）る（・）の（・）な（・）ら（・）。

　口にしないまでの秘めたる願い。

　そっと優しく胸の奥に仕舞いながら、非日常に彩られた日常を過ごしていくのだ。

　――それから一ヶ月があっという間に過ぎた。

　胸に文字が浮かぶこともなく、彼は頗（すこぶ）る健康である。

　院長の勧めで酒を飲むことも許された。記憶を取り戻す契機になることを考えたようだが、彼は酒で人が変わることもなく、ただ少しほろ酔い加減の上機嫌になるばかりであった。

　院長からは「何かあったら」と念を押されている。

　しかしその気配は微塵もない。気鬱は欠片も心底に落ちてこない。季節も春本番を迎え、暖かい日差しの中で平穏に包まれた生活が続いていた。

　――世相は相変わらず忙しい。

　帝都東京に住まうあらゆる人、いや、日本全国、外地人に至るまで震撼したあの大事件から、今度は国中が阿部定（あべさだ）事件で持ちきりになる。

　そんな中だった。

　変化は突然訪れた。

「甲斐さん、僕にも仕事を任せてくれないか」

　ある日のこと、彼がふと切り出した。

「あの……、家事ではなくて？」

「うん。家事も一通り熟せるようになったし、僕もこの本屋の仕事も手伝いたいんだ。駄目かい？」

　その想いは純粋。否定する必要は微塵もない。

　だが、それは出来ない。

　『ご近所付き合い』の故である。

　既に長田という存在は近所の知る所となっていた。院長の配慮もあり、病気の人間を介助しているという事で表層上の取り成しは上手く行っていた。

　――親戚か知り合いかは分からないが、病人の世話をしている。

　それでも人の噂は壁を知らず。尾鰭（おひれ）が付くのもやむを得なかった。名目はどうあれ、名称、素（・）性（・）不（・）詳（・）の（・）男（・）と（・）同（・）棲（・）し（・）て（・）い（・）る（・）という厳然たる事実は変わらないのだ。

　それは謂われのない憶測を呼ぶ。

　時流は阿部定事件が倦むほどに報じられているのだ。何が何でも長田に店番や取次で外に出させる訳にはいかなかった。

　それでもなお、長田の意も酌み取りたい。

　結果、折衷策。

　家事を終えて店が閉まった後に、新聞や書籍の整理、管理帳簿との照合などの作業をお願いする。これなら人目に触れず、仕事も手伝って貰える。

　一石二鳥の妙案と思い、早速閉店後に手伝いをお願いした。

　――その夜のことだった。

　外は雨が強く、雨戸を閉めた。

　雨粒がざぁざぁと波打つ。

　棚に並ぶ書籍や在庫帳簿との照合の合間、長田は新聞の一面を見下ろしていた。

　記事に叫ぶ「阿部定の行方」――。

　紅燈（こうとう）街の怪奇殺人。血文字の女。

　男の下腹部を切断し逃亡。銀座は大混乱。

　情痴（じょうち）生活の爛（ただ）れた果ての惨死体――。

「……そういう事件は長田さん、目に毒ですよ」

　心配そうに声を掛ける。

　長田はハッと気づいたように私を見つめる。

「す……すみません。あまりに仰々しく書かれていますので……」

　その通りだ。

　あまりに扇情的（センセーシヨナル）なのだ。

　事件の詳細など口にするのも憚（はばか）られたので、砂を噛むようにたった一言で説明した。

「ただの痴情の縺（もつ）れですよ」

　珍しく、感情が胸の底から湧き上がった。

「みんな騒いで馬鹿みたいですよ。情婦や妾（めかけ）との痴情、猟奇的なそれだって、他人がどうのこうの言って良いものじゃありません」

　食傷に嫌気が上乗せされた。

「それに、……あんな大事になった二・二六事件からまだ三ヶ月しか経ってないのに、次は痴情の報道で騒ぐなんて、もう滅茶苦茶ですよ」

「……二（・）・（・）二（・）六（・）事（・）件（・）？」

　突然、素っ頓狂な声で長田が呟いた。

　思わず惚け顔で彼を見つめてしまった。

　まさか――、知らない？

　確かにこの一月、長田はそんなに新聞を読まなかった。ここ数年の記憶が飛んでいるせいか、最近の情勢に興味がないようだった。

　だからと言って、全く知らないはずはない。事件はちらほらと分散して新聞に載っていた。起きてから二月を経た頃には確実に『二・二六事件』の名で呼ばれていたのも記憶している。もしかしたら、その名称と事件が一致していないのではないか。

　私は深く考えることなく、説明し始めた。

「……陸軍の青年将校達が、帝都で叛乱を起こした事件ですよ。今年の二月に起きて、岡田首相はなんとか難を逃れましたけれど、他の重臣方は何人か殺されてしまって……」

　――その後、岡（・）田（・）首（・）相（・）は（・）辞（・）職（・）。

　――広（・）田（・）弘（・）毅（・）氏（・）に（・）大（・）命（・）降（・）下（・）。

　――それはあ（・）の（・）胸（・）の（・）――。

　言葉が、いや、あの記事が脳裏で叫んでいた。血の気が引き胸が締め付けられる。

　いや、それよりも大変な事が起きた。

　――長田の様子がおかしい。

　眼は虚ろに中空を泳ぎ、口は力無く開く。身体が微かに震え、胸を押さえてその場に力無く蹲る。

「うぅ……！」

　呻き、大きく呻きその場に崩れる。

「お、長田さん！」

　異常な様態に思わず叫び駆け寄った。

「……違う！　違うッ！」

　突然彼が叫んだ。

「……首相が違う！　首相は、首（・）相（・）は（・）町（・）田（・）忠（・）治（・）じ（・）ゃ（・）な（・）い（・）か（・）！」

　屋根を強く打ち付ける雨音だけが、嫌に耳に染みる。

　腰を抜かした長田は胸を押さえたまま、震えが止まらない様子だ。思わずしゃがみ込み、肩に手を掛けて寄り添った。

「あぁ！　あ、熱い！」

　長田は苦しそうに浴衣の胸をはだける。

　そこには記事が。人智を超えた怪しく明滅するあの記事が、彼の胸上に浮かび上がる。

「こ、これは……」

　絶句するしかない。

　あの時と同じだ。どす黒く、生きているかのように僅かに歪みながら、のたうち回りながら浮かび上がる――！

「――ああ！　い、嫌だ！　嫌だ！」

　強く目を閉じながら縋（すが）るように抱きついてきた。

　いや、しがみ付いているといった方が良い。私の腕が痛みを訴えるほど強い力で、彼は怯えている。そして顔を私の胸に埋めながら、――叫ぶ。

「どうにかなりそうなんだ……！　いや、まただ！」

　震えも叫喚も止まらない。

「もう嫌だ！　い、痛い……！　苦しいんだ……！　こんな役（・）目（・）は嫌だ！」

　あまりに悲痛な叫び。

　初めて目にする惑乱する長田の姿。

　何に苦しんでいるのかは厳密には分からない。だが、無くした記憶に由来していることはすぐに分かった。

　だからこそどうすることも出来ない。彼は泣きじゃくる子どものように抱きついている。その様子を見かねて、私は決断した。

「長田さん……」

　長田の顔を両手でぐいっと持ち上げた。

　眼は涙に溢れ、目元は赤く腫れていた。私の瞳を怯えた子犬のように、じっと見つめていた。

　――有無を言わせず接吻した。

　雨音が騒がしく店を包み込む。

　白熱球の古ぼけた明かりが、ぼんやりとした影を床に落としていた。

　すぐに長田の震えが止まった。

　それから長田をあやすように強く抱きしめた。

　この人を守らないといけない――。

　理不尽な苦しみ、断ち切れぬ痛みに藻掻く哀れな男。この二ヶ月、一番近くに居て一番自分に優しくしてくれた男を、どうして愛せずにいられるか。

　目を瞑れば、彼との生活が目眩（めくるめ）く浮かんでは消えていく。突然現れた記憶喪失の男、慣れない家事との苦闘、健気な想い。その記憶だけで十分であった。

　――そのまま激情に身を委ねた。

　私は長田を求め、長田は私を求めた。

　人肌が恋しくないと言えば嘘になる。

　初めて感じる温もりと痛み。

　どういう理由であれ――嬉しかった。

　純血を失っても、後悔は一片もなかった。

　どんな誹（そし）りを受けても構わない。

　ざんざん降りの雨が、さめざめと泣いていた――。