第13話 サトウ
「――おや、先客でしたか」
不意に玄関から聞こえた男の声。
振り返ると壮年の男が一人、玄関の敷居をちょうど跨いだところだった。白熱球のぼんやりとした明かりが、男を背後の闇から浮き彫りにする。
身長五尺五寸――くらいか。
灰色の中折れ帽。髪の毛が額から出ていないので坊主か短髪なのだろう。意匠は凝らされていないものの、傍目に分かるしっかりとした作りのネクタイ、そしてカーキ色のスーツを着こなしていた。白手袋に丸眼鏡。張り出した眉、目つきがやけに鋭く見えた。
男はネクタイを緩めながら「ご無沙汰しております、甲斐さん」と挨拶しながら近づいてきた。
「……あら、サトウさんじゃないですか」
甲斐はその男を前から知っている口振りであった。夜はまだ更けてはいないが、日が沈んでから訪れる客がいるのは、この一週間で初めてであった。
「本日は何かお探しですか」
「……あぁ、いえいえ。ちょっと道すがら、寄っただけですので」
男はチラリと私を見やり、甲斐と話し始めた。
「この間の新聞は、ありがとうございました。ちょうど読みたかった記事だったので」
いえいえ、と甲斐は頭を下げつつ「恐縮です」と謙遜した。
「いつもお買い上げ戴き、ありがとうございます」
いつも買い上げている、――常連だろう。常連ならこの時間に来てもおかしくはない、か。
「ところで……」
サトウは再びに視線を移した。サトウが常連であるなら私は新参である。挨拶を促されているのだろう。
「どうも、新井和仁と申します」
サトウは表情を変えずにサトウです、とだけ挨拶した。
「この書店で若い殿方がこんな時間に買い物とは、随分と
あまりに
「こんな時間に来店された、サトウさんもそれは同じでしょう」
苦笑いしながら皮肉で返してやった。対してサトウの顔は
「新井さんはお仕事の手前、この店に寄れる時間がこういう時間になってしまうのです」
サトウは
「まぁ――、『非常時』やら『戦時』ですからな。なかなか働きづめで忙しいでしょうが、本の一冊でも買って行くべきですな。これから色々と統制が厳しくなるでしょうし」
中々の無愛想である。何が悲しくて、初見の男にここまで突き放されなければならないのか。私には皆目見当が付かなかった。
「甲斐さん、それではまた来ます」
「サトウさんもお大事に」
甲斐の一言に、サトウは初めて笑顔を見せた。中折れ帽を軽く上げ、サトウは店を後にした。
――帽子の中は坊主であった。
「今の人は、……常連さんかい」
「そうです」
甲斐はきっぱりと告げた。
「懇意にしてもらっているのですが、……まぁ、私以外にはああいった調子ですのでお気になさらず」
別に気にしてはいないのだが、気持ちいいものではない。常連ということは、何年か通っている客なのだろうか。
――『あの店に通った男は、代わる代わる立ち現れては、消えていくんだよ』
突然、脳裏を『あの噂』が過ぎる。しかし常連ということは、消えていないのだ。だからあの噂とも違う。そもそもあの噂は――。
「……新井さん、もうこんな時間です」
サトウを見送り茫然としていた私に、甲斐が声を掛ける。
時計の針を見ると既に十九時に近づいていた。この店の閉店時間は本来十八時である。今まで何かと閉店時間を上回って話し込んでいたのだから、十分な営業妨害行為である。
「すみませんでした。こんな時間まで」
「……いいえ。こちらこそ、ありがとうございます」
――
その言葉に胸中が揺れ動く。
まだ機会はある。甲斐の不安が消えるまで何度でも来てやるんだ。
「これ、一つ買います」
今日は新聞ではなく目に付いた本を選んだ。巷で話題のユーモア小説、一冊一円十銭。
「サトウさんの脅しが利いたんですかね」
したり顔の甲斐に口を
「たまには、こういうものを買っても良いでしょう」
「えぇ、そうですね」
――二人してははは、と笑った。
甲斐と笑い合えた後は、決まって浮ついた足取りで帰る。それが幸せの
こんな幸せが続けば良い。
甲斐とずっと笑い合っていたい。
心の底から願ってやまない。
――しかし。
希望は帰宅と同時に無残に打ち砕かれた。
日は落ち天を闇が覆う。惚気た気分で我が一軒家の玄関へ。
そこに、――男。玄関先に屯する、帽子を被ったワイシャツ姿の見知らぬ男。その腕章には「
「
正視に耐えぬ現実に、息を呑む暇も無い。背中に何万匹もの毛虫が這い上がるような
――人の命は
――命は
赤い赤い召集令状であった。
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