第14話 応召
「どうした、幽霊みたいな顔しやがって」
翌日――。
出社早々、渡辺に声を掛けられた。どうやら私はどんよりと暗い顔をしていたらしい。だが、いつものように愚痴を言う気は起きない。
「例の女に取り憑かれたか?」
冗談も冗談に聞こえない。こいつの愚痴や冗談は少なからず清濁併せ呑む、日常という碇である。しかしそれすら今は虚しい。
「……まず、報告しなきゃいけないんだ」
力無く立ち上がり社長室へ向かう。後ろから渡辺の心配とも、悪態ともつかぬ言葉が掛けられるが私の心には届かない。
社長に『召集』が来たことを説明した。いつも厚顔な社長が複雑な表情で労った。
掛ける言葉は決まり文句。
「お国のために、
これ以上、職場から社員がいなくなると、まともに生産や販売が回らなくなるのは社員全員が分かっている。町工場が大きくなった程度の会社なのだ。既に会社から幾人か出征し、戦地からまだ帰ってきていない同僚もいた。
気をつけて――。
お国のことだから仕方ないという諦め、それでも社員に無事に帰ってきて欲しいという本心。入り混じる感情をそれとなく察した。
「今日は報告だけで良い。家に帰って休め。ご両親に電報も必要だろう。火曜まで出てこなくて良いから、出征の準備だけはしておけ」
――後で壮行会を開いてやる。
初めて優しい言葉をかけられた気がする。しかし、その労いの言葉も心底までは届かない。社長室から戻り、憮然としていた渡辺にも一応伝えたが、社長同様神妙な顔である。
「……お前にも遂に来たか。まぁ、お互い
何処か遠くを見ながら渡辺は髭を撫でる。
「もう戦時だから抽選もない。明日は我が身だ。だから下手な言葉はかけんぞ。……気をつけてな」
神妙な髭面は柄にも無く煙草を一本差し出てきた。
「……いいよ、別に」
「いいや、吸っておけ。外地でいつ吸えるか分かったもんじゃないからな」
これでも優しさなのだろう。
胸中不動のままとはいえ、悪友のお情けに対して僅かばかりの感謝が芽生えた。その場で一本だけ貰い感謝の言を残すと、社長の言葉に甘えて早退させてもらった。
――世間様で言うところの土曜の朝である。
今日は気色悪いほど全てが静かだ。街並みや風景はいつもと変わらない。車も、自転車も、歩く人も、――何も変わらない。それなのに全て遠い世界の存在のようだ。眩しい太陽も秋風も、全てが自分から遠く訳隔てられた所にある。
非常時も、戦争も、仕事も。全てモノクロームの向こう側である。
――いや、一つだけ
今の私に残された、唯一の息づいた世界。
伝えなければならない。だが、どう伝えれば良い?
どんな言葉で、どういう気持ちで?
――あぁ、脚が重い。
こんなに『脚』という物体が重いと感じたことはない。中学時代の行軍百キロが、嘘のようだ。脚も太陽も何もかもが疎ましい。こんなに目の前が暗いのに、どうしてそんなに照らすんだ。
照らすは鏡――。
映し出されるのは嫌になる現実――。
その影は地面を滑り、自分の姿をさらけ出す――。
今更、考えても詮無きことか。
書店は今日も開いていた。
こんなに日の高い内に来るのは初めてである。だが新鮮さを感じ取る余裕はない。中を覗き込むと、甲斐の姿は見えなかった。
挨拶もせず、ふらふらと店内に入った。覚束ない足取りで奥まで歩き、ちょうどカウンター横に以前座った椅子があったので、倒れるように腰掛けた。
その音に反応するように、奥から物音が聞こえた。
どうやら甲斐が私に気づいたようだ。甲斐は暖簾を潜りながらいつも通り「こんにちは」と声をかけてきた。
「珍しいですね、こんな時間に……」
その声に反応することなく項垂れる。
言葉が出ない――。
重苦しい溜め息が、一つ、深く。
甲斐は慌ててカウンターから回って目の前にしゃがみ込んだ。
「新井さん……、大丈夫ですか。お顔の色が優れないようですが……」
露骨に
虚脱し、項垂れる男を見て、何か異常な事態が起きていると悟ったのだろう。ただ何によってか、それは己の口から伝えなければならない。
「甲斐さん……」
声調は底なし沼の泥濘に沈んでいくように、低い。
――近々召集される。
召集されるのは二週間後。
入隊検査の後、問題がなければ即入営となる。
人にもよるが――、
貧しい農村部や下層労働者からすれば、平時の軍隊は快適な上に
しかし、現在は『非常時』であり『戦時』である。
長男だろうと、ある程度身体に問題があろうと、問答無用で入隊となる。即前線へ送られる。その恐怖が眼前に迫る――。
ただ、自分から試す気は起きなかった。
試したところで、徴兵担当官である医者のお心一つで決まる。どれだけ自分を傷つけようと、取られる時は取られるのだ。
――これからしなければならないことは多い。
地方に住む親への電報、会社の引き継ぎ、借家の引き払い。本籍地も移さなくては。
――いや、そんな
甲斐に会えなくなる――。
甲斐を残して、謎を残して、大陸に征くのだ。
輸送船に揺られてゲロを吐き、見果てぬ地平線まで行軍を続ける。見渡す限りの麦畑、緑色の山々、赤土と砂埃。そして
対岸の火事が対岸でなくなる。
自ら対岸に行こうというのだから、これほど愚かしいこともない。
南京陥落、武漢陥落――そんな大戦果を上げつつも戦争は終わらない。ずっとずーっと続く泥濘の中、慣れない軍隊生活に苦しみ続けるのだ。そして、愛くるしい
大陸の何処で戦おうと生き残るか死ぬかも分からない。
何年戦争が続くかも分からない。
それどころか、もし、
会えないのは数年か、一生か。
怒りの声も嘆きの声も出ない。ただ独り、泣いていたかった。
「連れて行かないでくれ……。頼む……」
誰に宛てる訳でもない、空虚な言葉。
焦心する甲斐が視界の端に見える。どんな言葉を掛けて良いのか、懊悩しているのだろう。
「新井さん……」
――沈黙。
恐ろしく長い、沈黙。
秋風が爽やかに吹き、窓から暖かい日の光が壁の本棚や新聞を照らしている。あまりにも静かな、安らかな平穏な中で、ただただ息の詰まる沈黙がじっと横たわっている。
何処まで続く沈黙か分からぬまま深く息を吐いた、その時だった。
「――お邪魔します」
突然、玄関の方から声が聞こえた。
聞いたことのある声だった。ぼんやりと顔を上げ、甲斐は
「おや、また会いましたね」
店を訪れたのはサトウだった。
――心底どうでも良い人物である。
常連客が来たところで、元気に振る舞う気力など何処にもない。それに
「……何かありましたか」
近づきながら甲斐に問う。
甲斐は、しばらく何も答えなかった。
名誉ある出征です――、と答えるのが正しい国民の姿。
しかし、甲斐は悩んでくれた。
項垂れていても、僅かに心に明かりが差した。
力無く甲斐を見上げる。
懊悩――。
眉間に皺を寄せて苦しんでいる。
私はどうして、彼女を悩ませているのだろう――?
徴兵された悲運か。彼女を独り残してしまうからか。嗚呼、どれか分からない。募る罪悪感に苦虫を噛み潰したようになる。
しかし、甲斐の懊悩は短かった。
「サトウさん、……お話があります」
甲斐は意を決したかのような、強い口調で言った。
「なんでしょうか」
サトウは相変わらず口角水平のままである。その問いに対して答える前に、甲斐はこちらを
「新井さん……。申し訳ありませんが、今日はお引き取り願いますか」
――思いがけない言葉。
凜として通る声である。
思わず甲斐を見つめた。甲斐は瞬時、逡巡したように見えたが、短く目を瞑り、迷いを振り切るように言葉を続けた。
「ごめんなさい……。でもまた近々に来てください。必ず。必ず来てください」
その言葉に敵意や
ただ、何故追い出されなければならないのか、皆目見当が付かなかった。
甲斐は、力無くだれていた私の手を力強く握りしめ、強引に引っ張って立ち上がるよう催促した。
――
それは力強く、粗暴な温もり。
まるで操り人形のように手を引かれて立ち上がると、甲斐がするりと背中に回り、強く押して退店を促した。訳が分からず混乱していると、甲斐が耳元で呟いた。
「……
――艶やかな、吐息のような
為す術なく追い出される。
店の外で振り返ると、店の奥で何か話をしている。それだけは分かったが、立ち聞きする気も起きなかった。
――一体、なんであろうか。
甲斐があれだけ強引な態度を取ることなど、未だかつてなかった。あんな振る舞い自体がいつもの甲斐とは違う。甲斐らしくない。
囁かれた『守る』という言葉。
何を? 何から私を守るのだ?
誰が? 我が私を守るのだ?
嗚呼、思考が緩慢になっている。駄目だ。やけにはっきり記憶に残る甲斐の言葉だが、それが何のことを意味するのか考えることはやめた。
――
取り敢えず、床に着きたい。
まだ朝である。日はまだこれから高くなるという時であるのに、さっさと
もう、どうでもいい。
借家に着くと、朝から敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。重力に任せて力無く、全身を委ねる。そこは誰の温もりもない。己の輻射熱が、僅かに感じられるばかりである。
――考えるのも疲れた。
今日はもう布団から出ないで、泥のように眠ろう。一時でも良いから、この
神さまでもいるのだろうか。睡魔は願いに応えるように、すぐにやってきた。
意識が深く沈潜していく中、耳元に残る彼女の囁きだけが心を
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