第15話 喜悦
翌日の日曜日も、布団に籠もりっきりであった。
雨音が屋根を叩く。――どうでもいい。
一切の関心を示さず、暗い、己の温もりのみが支配する、布団の中に閉じ籠もった。
あたかも、天照大神の岩戸隠れ――。
朝の暖かさも、昼の暑さも、夜の寒さも知らず、ただ独り
出征の準備すら、やる気が起きぬ。
電報も月曜に打てばいい。大家や親への連絡もしなければならないが、気力は沈潜するばかり。
――無気力、ただ力が入らない。
まるで屍であると、自嘲する気にもなれなかった。
僅かに窓から夕日が差し込む頃、布団から顔だけ出して、壁に掛かっている暦を見た。
翌日には動こう。
そう思いながらも、身体は動く気配を見せず、また眠りについた。
驚くほどに、よく眠った。
日頃の疲れか、現実の喧噪の反動か、極度の逃避か。
このままでは寝過ごして、また怠惰な時を過ごす。そう案じていた月曜の朝、会社勤め『サラリーマン』の悲しい性か、いつも通り身体が勝手に起きた。
薄ぼんやりとした朝日が、窓から差し込む。
のそりと起き上がり、朝餉の支度をした。
支度と言っても、硬いパンを切り、取って置きのバターを塗るだけ。
元気よく
九時を回る頃、玄関を叩く音がした。
ガシャガシャと硝子戸が叩かれている――。
耳障りな音が、家中に響き渡る。叩く音は、何処か急いているようでもある。
磨り硝子の向こうに人影――。
惚けた頭のまま、玄関を開けた。そこには、自分に臨時召集令状を渡してきた、あの兵事係の男が立っていた。
「
開口一番の謝罪である。
何のことか分からず当惑していると、男は続け様に、謝罪の理由を述べた。
「実は、名簿の選定が違っておりまして……」
理由は頗る単純――。
管区の連隊本部で作成された、召集対象者の名簿に記載ミスがあり、間違って召集令状が発行されたらしい。
一昨日手渡した後、名簿との照合でミスに気づき、今日は撤回と謝罪に来たという。
しかし――、そんなことがあるだろうか。
召集の手違い。聞いたことはある。
ただその場合、即日解除ではなく、何かしら理由をつけられて、そのまま召集されるか、数日以上かかって解除されるという話だ。
――
喉から出かかる言葉を、慌てて口先を縛り上げて飲み込む。
追及しても意味はない。
意味あることは、召集が解除された一点に尽きる。
――安堵、安堵、死なずに済む!
甲斐に会えなくなることもない。
その事実だけで、
自分でも分かる、破顔してしまっている。
しかし、兵事係の男はこちらの表情など、見ていない。
結局、名簿の何をどう間違ったかは教えられず、兵事係の男は重ねて謝罪すると、縮こまるように帰って行った。
――男が帰って、玄関を静寂が包む。
悪い静寂ではない。
望外の
僅か数分前までの自失の体が、打って変わって、その場で踊り出したいくらいに、気持ちが高揚した。
そわそわと家の中を歩き回る。籠もっていた分、身体が自然と動く。
――そうだ、甲斐に報告に行こう。
苦しみの反動を、抑えられない。
ネクタイなんて要らない、ワイシャツだけで十分だ。
髭を剃るのも忘れ、急げ、急げ!
玄関の鍵も掛けずに、飛び出した。
生きていることの喜び。まだ甲斐に会えるという喜びに、自然と駆け足になった。
家から十分の距離だが、あっという間である。
角を曲がれば、そこは望月書店――。
まだ朝である。ついこの間、傷心し、酷く情けない姿を晒したのも、この朝である。
あの時のような醜態は晒せない。
急いで店に入ろうとした時である。
すぐ玄関先で、書店から出てきた人と、肩がぶつかった。
「あっ……、すみません」
ハンチング帽を目深に被った、背広姿の男だった。男は不機嫌そうに、帽子をぐいっと上げて一瞥した。
ハンサムな青年である。
ほんの一瞬、目が合った。
「……失礼します」
すぐに帽子のつばを下げ、カツカツと足音を立てて、書店から離れていった。
高揚した気分が、物理的衝撃を以て切断された。
数瞬の思考停止の後、程なくして我に返り、慌てて書店に入った。
「甲斐さん!」
自然と覇気がこもり、大声で叫んでしまった。
甲斐は、――いた。
だが、瞼に飛び込んできた甲斐の姿に、一抹の違和感を禁じ得なかった。
甲斐は、いつものカウンターの位置で、ハンカチを目元に当てていた。
視線が合い――、咄嗟にハンカチをしまった。
「新井さん……! どうされたんですか」
濡れた声を隠すように、僅かに押し殺している。
――どうされたんですか?
こちらの台詞だ。
だが、それでもこっちの報告の方が先だった。
「大変なことがあったんです」
声色が軽くなる。一度途絶した喜びが、再び顔や声から滲み出た。
「実は、――召集が解除されたんですよ!」
その報告に、甲斐は驚きの声を上げる。
しかし、目元は紅く、明らかに泣き声を隠している。大きな声は出ない。
「解除……ですか? どうして?」
「それが、帳簿のミスらしく、僕は間違って選ばれたらしいんです」
――真相は、分からない。
手違いがあっても、事実上即日解除などあるものだろうか。
「……そんなことが。でも……本当に、良かった」
甲斐は目を瞑り、安堵の息をついた。
心の底から安心しているように、そして喜んでくれているように、確かに見える。
――寧ろ、だからこそ、
「もしかして、甲斐さんが何か……」
言葉を続けようとしたが、甲斐は微笑みながらも、取り付く島もなく言葉を遮った。
「……いいえ。私には出来ませんよ。そんなこと、出来る訳ないじゃないですか」
――当たり前だ。
甲斐は、ただの書店の女店主である。
徴兵という国の制度を、皇軍を維持するこの重要な制度を、違法合法問わず、一人でどうにか出来る道理は、全くない。
それでも――、そうとしか思えない。
守ると言われ、召集解除なのだ。
理は分からないが、答えはあるのだろう。
ただ、甲斐は答えない。だから、これ以上聞かないことにした。
「そう、ですよね。……はは、でも良かった、これでまたここに通える」
ぼろっと、本音が出た。
「……そう、ですね」
しかし、甲斐は何処か寂しげな微笑みを、静かに浮かべていた。
それは――、いつか感じた違和感。
もう遠い昔のように感じる、噂と現実の
――代わる代わる訪れる、いい歳した男達。
――皆消えていく。
私の報告は終わった。万事解決した。
次は、甲斐の番だ。
「甲斐さん、どうして……泣いていたんですか。さっきの人は――」
軒先でぶつかった男――。ハンチング帽の青年。
時間的にどう見ても、あの男が店にいた時に、
甲斐が、僅かに厭がる顔をした。
――
既視感。ズレ。
未亡人の噂、
そうすると、今度は――。
甲斐は軽く首を振る。
「……ただの常連さんですよ。サトウさんのお付きらしいです。サトウさんの欲しがる書籍の予約や、取り寄せで偶に来るんですよ。詳しい人となりは、私も知りませんが。泣いていたのは欠伸ですよ、まだ朝ですから」
そう言って、再び甲斐は微笑んだ。
――そうだろうか。
しかし、これ以上理由は聞けない。
サトウが何者かは分からないが、もし、甲斐が働きかけ、自分の召集を阻止してくれたのなら――。
私は、命を救ってもらったのだ。
多大な恩義――。その恩義ある人が厭がることを、どうして聞けようか。
「そうですか、……なら良いんです」
無理矢理に笑って見せた。
これが今できる思い遣り。
甲斐も察したのだろう。僅かに愁いが晴れた。
「……新井さんが召集されなくて、本当に良かったです。いなくなったら、私も辛くなります」
疑念は、その言葉で簡単に吹き飛んだ。
――そう、これでいい。これでいいんだ。
甲斐は、いつもの甲斐である。
秘密を開示してくれた時と、何一つ変わらない。
だから、私も変わらずに、ここに来よう。
いつか記事の謎が解け、甲斐の苦しみがなくなるその日まで――。
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