第16話 守るべき者
「……初めて聞くなァ、そんな理由」
「僕だって、初めてですよ」
社長に召集解除の旨を報告した際の感想がこれである。
業務時間途中にひょっこり現れた私に、社長が驚きの第一声をあげる。
解除の旨で、吃驚の第二声。
理由を聞いて、愕然の第三声。
俄然首を傾げ、開いた口が塞がらない有様である。
徴兵検査は甲乙丙に格付けされ、甲種は身体が頑強で体格標準。問題なければ即入営である。
平時の折は抽選が多かったため、私と渡辺は辛くも兵役から逃れられていた訳だ。
乙は健康である者だが、丙は体格も健康も優れない者と烙印を押され、即時入営はほぼない。
私は丙種のように『対象外』という訳でもなく、甲種合格しておきながら、一度は抽選で外れ、そして二回目は記載ミスで兵役を回避したのだ。
社長が信じられないのも無理はない。自分ですら信じられないのだから。
「よほどの運の持ち主だったのか、君は」
明け透けに評されたが、複雑な心境であった。
ともあれ、無事に会社に復帰出来るということで、頭を下げて自分の机に戻る。
それから、同僚に質問攻めを受ける。
そして皆口々に言うのである。
「なんて運が良いんだ」
――良いのは運か、縁か。
大まかな答えを知るのは、私だけで良い。
肩を竦ませ、話はお開きとした。
ただ、隣の渡辺だけは、いつものように愚痴愚痴と食い下がってきた。
「お前は良いよなァ。そういう
「悪運とは何だよ。僕は一つも悪いことはしてないぞ」
「あぁ? 麗しの未亡人に、手ェ出そうとしてるんだろ?」
――何も言えなくなった。
「手じゃないよ。気があるだけだ」
その答えに、このハンサム髭面野郎は嫌らしくにやける。
「そういうのをな、屁理屈っつーんだヨ。ま、俺にはどうでも良いことだが、手だけ付けて捨てるなんざ、人間の屑だからな。手掛けたなら、ちゃんと養えよ」
本当に口の減らない奴である。
「解った、解ったから」
ふて腐れてみせると、渡辺も時機を見計らったのか、へいへいと言いながら小便に仕事部屋を出ていった。
――万事が、いつもの調子である。
布団の中で悶々と蠢いていたのは、一体いつのことだったか。
職場の椅子に落ち着いて座るのも、随分と久々に感じる。
その時、脇机の上に、無造作に置かれていた新聞に眼が止まった。
――あの記事ではない、現実の新聞だ。
誰が置いたか解らないが、現実への復帰を兼ねるように、広げて一読した。
一面は、戦勝記事のみ。いつもの具合である。
その片隅に、上海にて日本人職員が、何者かに襲われて死亡したという記事があった。
【南滿州鐵道株式會社の
人は死ぬ時は死ぬ。
戦地でなくても、兵士に取られていなくても。
この男も、随分と不運なものだ。
あの満鉄に属していながら、出張先で襲われて死ぬのだから。
もし、素直に応召を受けていたら――。
深呼吸の末、考えるのをやめた。深く考えても、誰も喜ばない。甲斐も喜ばない。
たとえそこに、真実のようなものがあったとしても、誰も喜ばぬ真実なんていらぬ。
淡々と仕事に没頭し、帰りにまた望月書店に寄れば良いのだ。それが、私の幸福なのだから。
――あっという間に夕方になった。
本来誰かに引き継ぐはずであった業務を、自分の手に戻しただけである。難しいことはない。
勤務時間が終われば、従前のように職場を後にする。
いつもの道を、いつものように帰る。
また書店に寄って、話の一つでも聞きながら、謎に頭を悩ませながら、本か新聞を買うんだ。
これこそ、喜ばしい日常への回帰。
角を曲がれば、書店が見える。
自然と笑みが零れる。どんな話をしようか、想像を膨らませていたが、書店に近づく程に、その喜びが反転し、急速に収縮していった。
遠目に見える、書店の入り口の看板。走って近づいていくと、望月書店の入り口は雨戸が閉められ、木の板に赤字で「本日臨時休店」と記された看板が、寂しげにぶら下げられていた。
「臨時休店?」
何かあったのだろうか――。
昨日の今日で、立て続けに事が起こりすぎた。日常への回帰は、この赤字で簡単に遮られた。
甲斐は無事だろうか――。膨張する不安が、振り子のように振れる。
数日前、僅かに芽生えた違和感が、強烈に胸を締め付けた。
甲斐は、サトウに何を伝えたのか。
どうして、自分は今、ここにいられるのか。
何故、
いや、もっと辿れば、秘密の開示こそが、全ての始まりではないか。
猜疑心の蠢きが身体を擽り、心の赴くままに、身体は望月商店の勝手口へと向かっていた。
初めて歩く、甲斐の私的空間。
人一人が通れる生け垣の間を抜け、庭を横目に、扉へ。
勝手口に、鍵は掛かっていない。
「甲斐さん……、いますか?」
慎重に、確認するが誰何はない。
甲斐さん――、甲斐さん――。
夕暮れだというのに、食事の準備はされていない。匂いもしない。
何かがおかしい――。
すぐ隣が居間で、その向こうがカウンターだ。
居間に繋がる硝子戸を開けると、甲斐は、――いた。
――居間で俯せになっている。
白いブラウスは相変わらずで、まさしく不意に倒れたようだった。
「か、甲斐さんッ!」
すぐにしゃがみ込んで、甲斐の背中を揺らした。
だが、すぐには目覚めない。
肩を持ち、俯せから仰向けに、抱き寄せた。
――呼吸は、ある。――生きてゐる。
だが、あの時と同じだ。
はだけたブラウスから
「甲斐さん! しっかりしてください!」
意識を失った、未亡人を、両手で抱える。
紅が、香りが、人肌の柔らかさが、誘惑する。
こんな時に――。
己の不明を恥じるばかり。それでも、甲斐を呼び続けた。
数回名前を呼んだところで、甲斐の意識が戻る。
「私は……、どうして……、新井、さん?」
「良かった……、大丈夫ですか」
程なくして、甲斐は今の状況を察する。
甲斐は自力で上体を起こし、私は甲斐の肩から手を離した。私の安堵の溜め息と共に、甲斐の表情が曇る。
「……ご迷惑を、お掛けしてしまったのですね」
「勝手に上がってしまったのは、申し訳ありません。何度かノックして読んだのですが、鍵も掛かっていなかったので――」
それでも、勝手に侵入して良いものか。
自問をしながら、それでも甲斐の具合が心配になった。
「どこか、具合が悪いんですか」
甲斐は力無く微笑んだ。
「最近、ちょっと宜しくないんですよ」
目も焦点が合っていない。それは何処か遠くを見る、眼。
声も幽かに遠くなる。
「この、記事なのですが、……浮かび上がる度に、気が遠くなるんですよ」
それは、秘密を開示した時と、同じ。
あの時も、甲斐は意識を失っていた。
「昔はそこまででもなかったのですが、……今は、この通りです」
「……どうして、なんでしょうか」
甲斐の話を聞く限り、長田は気を失っていない。最初こそそうだが、以降の話は聞かない。
だが、甲斐は私が見た二回とも、意識を喪失している。
「……分かりません、でも」
思うところはある、らしい。
「最近、思うのです。……長田さんが消え、ただこの記事を綴る日が続いていく。それも、気を失うくらい」
私は、もう――。
儚く、呟く。
「甲斐さん……」
「この苦しみが、ずっと続くのでしょうか。私は、独りで、彼の帰りを待っているべきなのでしょうか」
独り――。独りにはさせない。
甲斐が私を救ってくれたのだ。独りになるのは嫌だ。会えなくなるのも嫌だ。だから――。
「僕が、支えます」
息を呑み、肩が張る。
「具合が悪いなら、僕がお店を手伝います。家事が難しいなら、僕は料理が下手だけど、手伝えることなら何でもします」
顔が紅潮するのが分かる。恥ずかしいことを言っている。
――それでも、もう止まらない。
「恩着せがましいと思われても、仕方ありません。でも、……
「長田さん、それは」
「いいえ。――僕は貴女が好きなんです」
甲斐が、儚げな瞳で、見つめる。
口が滑ったのではない。言いたかったことなのだ。
勢いに任せて、本当の事を言っているのだ。
「貴女を独りぼっちになんて、絶対させません。貴女が苦しんでいる所なんて見たくない。貴女の苦しみが、少しでも減るなら、何だってしてやります。出来ることなら」
――
口にした、その言葉。
強烈な既視感が、脳髄に刺さる。
それは、甲斐の発した言葉。長田に向けた、愛情。
そして、長田はどうなった?
甲斐はどうなった?
「新井さん――」
甲斐が、涙ぐんでいる。
「いいんです、もう。お気持ちだけで、私は……」
甲斐の言葉と既視感に、興奮は急速に冷めていった。
言い過ぎた、か。
「すみません、出過ぎた言葉でした。でも、これは僕の本心なんです」
――好きだということ。
甲斐は、再び私を見つめる。
虚ろな瞳は既になく、色が付いた瞳があるばかり。
静かな落涙。
「本当、真っ直ぐな人ね、新井さん……。でも、貴方に会えて、本当に良かった……」
甲斐が、徐に立ち上がり、歩み出す。
「僕も、です。だから、無理はしないでください。何時だって、呼んでください」
少し進んだ所で、甲斐は振り返る。
――
憑き物も何もかもが落とされた、後悔などない、笑顔。
「ええ、お呼び致します。貴方に、会いたくなったら」
――その時に、また会えば良い。
立ち上がった甲斐の様子を見るに、問題はなさそうだ。ふらつきも、意識の混濁もない。
だから、今は、もう大丈夫だろう。
「お邪魔しましたね」
素気ないように、私も立ち上がり、勝手口へ向かう。
「……いいえ、本当に、ありがとうございました」
勝手口から外に出て、道路に出たところで、甲斐に相対した。
「もし具合が良くなって気が向いたら、僕の借家に来てください。独り身の家ですけど、何か作りますよ」
きっと碌な物は作れないだろうが。
「……ふふ」
「可笑しかったですか?」
「いいえ。なんでもありません」
甲斐のささやかな笑顔に、私は十分救われたのだ。
「新井さん――」
――また、来てください。
「勿論来ます」
――たとえ、どんなことがあっても。
新しい約束。
お互い笑顔で、力強く、交わしあった。
手を
少し歩いて振り返ると、甲斐はまだ見送っている。私が見えなくなるまで、だろう。
具合が良くないのに――。
肩を竦めて、また歩き出した、その時。
十分に遠く、聞こえるはずがない、――声。
しかし、耳元で、はっきりと聞こえた気がした。
――
突然、
鳥肌が立ち、胸が重くなる。
――何故、謝ったのだ?
告白という粗相か、不覚か、咎か。
それとも――。
不穏に覚えた憂いを、そのまま天に流すように空を見上げた。
日は没し、闇が全天を覆わんと、じわりじわりと迫る。日に日に夜の帳が早く降りるようになった。
幾度も通ったこの道なのに、ざわざわとした胸の揺らめきに、気が重くなる。
――それでも、またここに来るのだ。
新しい約束を守るため。思い人に会うため。
この想い、冷めぬよう、また近いうちに――。
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