第2話 雨宿り

「新井よぉー、お前に早く嫁さんが見つかるといいなぁ」

 憎い同僚の言である。

 ニタニタしながら揶揄からかってくる。それは私が独り身の典型のような生活をしていたことへの当てつけなのだ。

「独り身で悪かったな。僕はこのままでいいんだよ」

「何処かのカフェーでも何でも良いから、飛び込めば見つかると思うけどなぁ」

 ――そんなに簡単に出会いなんてある訳がない。

 秋本番、恐る恐る冷え込みが忍び寄ってくるこの頃、仕事の帰り際いつもの帰路である。

 正確に言えばいつも、ではない。

 だいたい仕事帰りは、直帰三割、食堂からの居酒屋という道程七割であり、今日は直帰のそれである。

 この二択しかない帰路を揶揄われたのだ。

 この渡辺という、澄ました顔の髭面ひげづら同僚は、帰路が途中まで同じなので、以前まではよく居酒屋に一緒に行ったりしたものだった。花街はなまちにも一緒に行ったこともある。

 しかし――。

「それじゃ、俺は帰って嫁さんに晩酌でもしてもらうか」

 新婚なのである。

 一々言葉にしなくても溢れ出る幸福感に当てられ、辟易するしかないのだ。

「へーへー、精々お幸せに」

 憎たらしい笑顔を残し、渡辺はネクタイを緩めながら足取り軽く踊るように帰って行く。その後ろ姿を見送りながら、私は腹に据えかねる忌み言葉を抱えながら、帰路を急ぐ。

 何もかもとは言わないが嫌になった。

 渡辺ではない。言われたことでもない。自分が独り身であることでもない。

 ――変わらない自分への嫌悪である。

 私の会社は、を売っている。

 町工場で作られた安いラヂオだ。低周波トランスに工夫をしているため、価格の割には音質が良いことが売りだ。しかし、年々音質が悪化しているようにしか思えず、以前それを口にしたら、社長にしこたま叱られたので、それ以来口にしていなかった。

 ラヂオの需要は頗る高い。

 それは売っている側であるからよく分かる。詳しい数字は分からなくとも、二、三軒に一軒にくらいの割合でラヂオがある。『貰い聴き』を含めたら、実数以上の人がラヂオを聞いているのだろう。

 欧米では、スーパーヘテロダイン方式の採用や、オールウェーブ受信も可能なラヂオが当たり前になっているらしい。一方、我が国では『国策型』と名前は勇ましいが、いわゆる俗語としての『並四』であり、感度はそれほどでもなく安いことが売りなのである。勿論海外放送も受信できないし、さらに粗悪品も当たり前のように流通している。

 戦時徴用による物資不足と技術不足の二重苦に、安く売って中抜きしたいという資本家論理が働く三重苦である。

 つい二年ほど前まで、会社がすぐに潰れることはないだろう、それどころか安定成長を続けていくと思っていた。しかし、世相は無風を許さなかったのだ。

 ――売れ行きは良い。

 しかし何処製かも分からぬシャシーキットとスピーカーを買い入れ、程々の意匠を凝らしたケースやキャビネットを被せただけの『見た目だけ立派な国産ラヂオ』を売っているだけでは、あまりに心許ない。

 かといって、新技術や海外へ販路を求めることも出来ない。

 そもそも国全体共通の規格もないし、技術もない。

 挙げ句、腕のいい技術者を徴兵で持っていかれた時などは、会社存続の危機であった。

 なんて、この日本には存在しないのだ。

 会社がいつどうなるか分からない。それどころか世相の荒波に呑まれてしまったら、すぐにでも路頭に迷う。

 いや、田舎の実家を頼れば生活は出来る。

 地主の次男坊の強みである。都会から帰ったら、鼻つまみ者になるかも知れないが飢えて死ぬより遥かにマシ。逃げ帰れる場所があるだけ救われている。

 ――そうやって、すぐ低きに流れようとする。

 そういう所も嫌になった。

 下を向いて歩いてばかりだったせいか、肩も気も重い。深呼吸一つに天を見上げた。眼前に広がる秋空は、灰色で埋め尽くされている。

 ところどころ黒く渦巻き、今にも重い雲の底から雨が降ってきそうだ。ただでさえ気が重いのに、見上げただけでもっと気分が悪くなった。

 しかし、その時、ツンとした臭いが鼻腔を刺激し、私の意識は強制的に切り替えられた。

「また煙か」

 住宅街、道すがらの一角を、白い煙が揺蕩うように中空を漂っていた。

 私の住んでいる借家は、職場から三キロメートル程離れていたため、一時間近く歩いて通勤していた。

 その道中、大体決まって夕方であるが、煙が道に溢れ出している。最初はどこからの煙か分からなかったが、すぐに見当はついた。

 何度も目の前を通っているのに一度も入ったことのない、くたびれた書店。その裏庭から煙が立ち上り、辺りには焚き火独特の、焼けた臭いが漂っていることを発見した。直帰する時しか知らないが、たまに刺さる刺激は、何となく覚えていた。

 ――いいさ、私の心も煙に巻かれて先が見えないんだ。

 慰めにもならない慰め言葉。先に進もうとするとポツポツ、ピタピタと冷たい雨粒が地面を、私を突然に打ち始めた。

 ――降ってきやがった。

 見る見る間に、地面に黒い丸が広がり始め、にわかに雨の匂いが沸き立つ。

 ――勘弁してくれ、今日は蝙蝠傘こうもりがさはないんだ。

 一日中曇りであることはラヂオで知っていた。しかし雨が降るとは聞いていない。いや、当たるも予報、当たらぬも予報であるから一々責めてもいられない。

 雨に打たれるのは大の苦手であった。

 百歩譲って夏は良い、濡れても大病にならない。ただ秋冬と春先は別だ。

 傘などなければもう地獄だ、八寒地獄だ。仕事用の革鞄はあるが、大雨に打たれでもしたら、たまったものではない。

 天より落ちる悪意ある雨粒から逃れるべく、急ぎ足で良さそうな軒先を探すが、体の良い軒先が中々ない。

 まずい――。

 そう思った時、煙の臭いが鼻についたのを思い出した。

 確か次の角を曲がった先に例のくたびれた本屋はある。本屋なら雨宿りに入っても問題はないだろう。そう思いながら足早に店に向かった。

 角を曲がる。すぐに見えてきた。

 ――望月書店。

 白地看板に掠れた黒文字。やけに店名が新鮮に映る。両隣が畑や空き地で軒が少しばかり出ている。店の入り口は曇ったガラス戸で、わずかに開いていた。

 遠巻きには開店しているかどうかも分からない。よしんば閉店だったとしても、これくらいの軒先があれば、人一人くらいは余裕で雨を凌げるだろう。

 息も絶え絶えに軒先に飛び込んだ。

「雨は嫌だ」

 一息ついた開口一番、天への呪詛じゅそが漏れた。

 憎々しく見上げると無慈悲に雨が降ってくる。しかも先程より勢いを増している。

 煙と雨に巻かれ、傘一つなく、開いているかどうかわからない本屋の前で私は何をしているのか。

 渡辺の件といい、雨といい、もはや呪われているのではないか。

 改めて何もかもが嫌になり、いっそのことずぶ濡れになって風邪でも引いてやろうかと思ったその時。不意に、後ろのガラス戸がカタカタと音を立てた。


「……あら、雨宿りですか?」

 若い女である。

 やや赤毛のウェーブがかった長髪。服は白いワイシャツを着ていた。透き通るような肌、やや幼げな瞳と端麗な顔立ち、そして唇の薄い紅が、強く印象に残った。

 爺さんや婆さんが店をやっていると勝手に思い込んでいた。

 ところが現れたのは若い女である。脳髄は女の姿をカラーフィルムで焼き付けつつも、その存在を理解出来ずにぼうとしてしまったのである。

「あの……」

 女はキョトンとした表情で、私を覗いている。

「す、すみません、雨宿りでぼーっとしていたもんで……」

 あまりのしどろもどろさに、随分と恥ずかしくなった。

 女は微笑み、ガラス戸を開けていく。店の奥から暖かい空気と紙の匂い、そして煙の臭いが幽かに漂ってきた。

「肌寒いというのは、嫌でございますね」

 雨音は徐々に強くなってきているのに、女の声は艶やかにはっきりと聞こえる。

「あ、秋や冬の雨は大嫌いなんですよ。なのに今日は傘を忘れてしまって……」

 私の上擦る声を聞き流すように、女はガラス戸を半分程度に開け終えると、「軒先で寒いのを我慢するより、どうぞ、中にお入りください」と微笑みながら言った。

 ――押し殺すように呼吸を整えつつ、敷居を跨いだ。

 中は薄暗く、大まかな広さもよく分からない。すたすたと女が奥に行き、電気のスイッチを入れて初めて間取りが分かった。

 中は奥行き二十数尺程度、大体十坪くらいの広さで、大きめの本棚が中央に鎮座し、対面である壁際の棚は日付と番号が沢山振られている。掃除が行き届いているのか、全体的にこざっぱりとした様子で、埃を被っているようなものは一つも見当たらなかった。

 女は、――定位置なのだろう、入り口から見える一番奥のカウンターに腰かけた。

 呼吸が本調子でない。顔が紅潮しているのが自分でも分かる。薄暗い照明に感謝しつつ、慎重な足取りでカウンターに向かった。


「……ありがとう、ございます」

 ――率直な気持ちだった。女は再び、クスリと笑った。

「いいんですよ、困ったときはお互い様ですから」

 艶めかしく照らされる女の紅と白のせいで、感謝の気持ちが揺らいでしまう。慌てて店を見廻しながら話題を変えた。

「ここは本屋……、ですよね?」

「それ以外に見えますか?」

 はにかんでいても、女の目は笑っていない。

「す、すみません」

「ふふ、ごめんなさい。怒ってませんよ。でも、――半分当たりで半分外れです」

 女の戯れに安堵しつつも『半分外れ』が気になった。視線を店内に泳がすと、女はすかさず「半分はでございます」と答えた。

 古新聞屋――、随分と聞き慣れない言葉である。塵紙回収ならばそう名乗るであろうしが多分違うのだろう。

 店に置かれているもの。――半分は本で、半分は新聞だ。

 書店に定番の雑誌はなく、中央の棚には一昔前の円本から最近の文庫本まで、手堅い内容の書籍が取り揃えられていた。

 壁側は、よく見ると新聞で埋め尽くされている。全国的に有名な新聞もあれば、よく知らない週刊新聞、地方新聞から英字新聞まである。

 そのどれもが日付、或いは記事の概要が書かれた紙が乗せられており、一見すると何かの保管庫のようにも見える。

「……これは、凄いですね」

 女は少し上機嫌に説明する。

「あぁ、外国の新聞と言っても我が国で発刊された英字新聞ですよ。他にも、上海の英字週刊新聞や、稀に欧州の新聞が入ってくるくらいですね」

 図書館でもないのによくこんなに揃えたものだ。

 壁に並んだ新聞達を見ながら、半ばとぼけてしまった口からは上擦うわずった問いがぼろりと零れる。

「外国の新聞なんて、読めるんですか?」

 口にした瞬間、私はハッとなって女を見やった。

「英語は喋れはしませんけれど、読むだけなら出来ますよ。稀に入ってくる仏蘭西やら独逸語といった新聞は、辞書を使わないと覚束ないですけど」

「す、すみません、……失礼でしたね」

「いいえ、お気になさらず」

 肩をすくめた女に三度こうべを垂れるしかなかった。幸いにして女は飄々ひょうひょうとしている。その様子に胸をなで下ろしつつ、慎重に言葉を選んだ。

「こんなに揃えてるなんて凄いですよ。新しく出来た、ウチの近所の図書館でも、こんなに置いてないですよ」

 この書店の新聞の品揃えを褒めようと、最近近くに出来た公立図書館を例に出してみた。煉瓦造りのこざっぱりとした公立図書館である。詳しく比較は出来ないが、その図書館と比べても、ここの新聞の種類は多く見えたのだ。

 その言葉に、女の眉が僅かに動く。

「あれ……、もしかしてご近所ですか?」

 その図書館を、女も知っていた。

「え、ええ。そうですね、歩いて十分くらい、かな」

「……すぐそこじゃないですか」

 驚き半分、呆れ半分なのだろう。だがその高々十分のところで、雨に降られたのだ。幸福を当てつけられ、煙に巻かれ、雨に打たれ、ここに来たのだ。

 まだ屋根から雨音が聞こえる。玄関の方を覗くと、薄暗い曇り空から雨粒が注ぐ。勢いは弱まったようだが、それでも傘なし出歩くなんて考えられない。

 折角温かい店内で緊張しつつも休めているのだ。このまま外に出るのは死んでも嫌だった。

 女はおもむろに立ち上がると玄関へ歩き出した。女の所作はきびきびとしており、私は覚束ない足取りで後を追った。外を見遣ると、雨が王冠をそこら中に作り出している。

 ――雨はまだ止まぬ。

 このまま店にいるのも何かよろしくない。いや、本心よろしいのではあるが、よろしくないのである。に私は言葉を選べず、視線を空に向けるしかなかった。

 すると、視界にするりと黒い傘と女の手が入ってきた。

「私の傘をお貸しいたしますよ」

 屈託のない笑顔。驚き半分、有り難さ半分に素っ頓狂な声を漏らしてしまった。その様子が可笑しいのか、女はまた微笑んでいる。

「今日と同じ時間くらいだったら、店はまだ開いています。お返しいただくのは、いつでも結構ですので、お持ちください」

 ――どうやら玄関横の傘立てに入っていた蝙蝠傘らしい。

 女の好意を無碍むげには出来ない。気がつけば私は明日も来ることを、彼女に約束していた。

 昭和十四年の九月が終わろうとしている――。

 騒がしい時勢など関係ないように、借りた蝙蝠傘片手に惚けた気分で帰路に就いた。

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