第3話 恋慕
翌日仕事を終え、いそいそと帰り支度を始めた。
無論直帰である。いや、直帰の上で寄らねばならない。
「そんな急いでどうしたんだよ、え?」
隣の
「借りを返しに行くんだよ」
昨日はこいつに当てられて煙に巻かれて、雨に当てられたのだ。多少煙に巻くくらいで罰は当たるまい。
「借り? 借金か? 変な高利貸しに引っかかるんじゃないぞ。金を借りるなら俺みたいなちゃんとした相手にしろよ」
よく分からない助言である。返事は適当に、職場を後にした。
――まだ夕方、十六時過ぎである。
会社の定時は過ぎているから、たとえ社長が相手だって文句は言わせない。
私の仕事は忙しいには忙しい。ラヂオの納品と営業である。納品先は個人宅から販売会社まで様々で、広告取次に打ち合わせに出ることも、修理依頼で赴くこともあった。
幸い残業する必要もない部署である。
工場部門の方は地獄であろうが、こちらは違う。
本心として、この仕事は楽なものであった。
生産を担う工場部門と販売を手がける営業部門は歴然と分けられ、月給も大きく異なる。工員の賃金は低く労働時間の足枷も長いが、私のいる販売担当はまさしく世の『サラリーマン』と肩を並べるように、九時から十六時過ぎまでの勤務時間である。
気楽なサラリーマン階級だと評されようが、それなりに苦労だってしてきた。僅か十年前――、あの
それから
つらつらと過去を思い出しながら、帰路を急いだ。
書店が開いている内に行かねばならないという、強い使命感に駆られる。いや使命感ではない、もっと衝動的で俗物的だ。
――あの女に会いたい。
一宿一飯でなかろうとも恩義はある。しかしそれすらも建前で、女の紅が、白が、洋装が、優しさが、私を駆り立てる。
空を見上げれば、またしても曇りである。
秋雨の季節。ラヂオの天気予報でも、雨の可能性が高いとも言っていた。今般のラヂオ天気予報はだいたい当たる。
夜には雨になる。
小急ぎで帰宅し、落ち着く間もなく家を飛び出した。二本の傘を抱えながら小走りである。未舗装の砂利道を走りながら、ふと考えた。
――彼女の名前は何というのだろう?
感謝の念を伝えようにも、名前が分からない。きっと『望月』ではあるのだろう。店名にもなっているのだから。
だが確証はない。
だから、まず名を聞こう。
名が無ければ『男と女の出会い』には決してならないのだから。
望月書店の前に着く頃には額に汗が滲み、息も上がっていた。ガラス戸を少し強引に開けると、ちょうど奥の間から女が降りてきのが見えた。
「あら、昨日の……」
――お互い名前が分からない。
「ありがとうございました。……これ……」
上がった息をひた隠し、冷静を装って声調を落とす。女は昨日のようにクスリと笑った。
「そんなに急がなくても、私は逃げはしませんよ」
「でも早い方が良いと思いまして」
「ふふ、わざわざありがとうございます」
諸々見透かされたのだろう。それでも女は頭を垂れ、礼を言った。女は渡した蝙蝠傘を懐かしげに眺めている。
何か思い入れがあるのだろうか?
だが借りた傘の礼は形式上は返した。今思えば、菓子折りの一つや二つあれば良いのだが、こういう所が独り身の由なのかと後悔の念が脳裏を過った。
今更言っても始まらない。例え
「――お名前を伺ってもいいですか」
いい歳した男が何を恥ずかしがっているのか。散々販売の仕事では営業
「私は、望月甲斐と申します」
相変わらずよく通る凜とした声である。『かい』は、甲州の甲斐と同じ字だという。
「私もお名前を伺っても宜しいですか」
「僕は……新井和仁と言います」
同じ自己紹介でも、自分のは恐ろしく幼げに思えた。
「歩いて十分くらいなのに、昨日初めてお目にかかりましたね」
甲斐は悪びれない様子で問いかけてくる。
確かに会ったことはない。
それもそのはず、私の付き合いはそんなに広くない。借家の近所三軒程度である。知らせが何か回ってきても、そこまでだ。しかし、歩いて十分という近所であるのに全然意識に止めていなかったことは、やはり申し訳なかった。
だから、色々と身の上話をしたかった。
「ところで、海外の新聞を仕入れるのは、大変でしょう?」
多くの新聞の日付は歯抜けである。
一週間飛んでいるものもあれば、連続しているものもある。そもそも月刊新聞のように一年分全部余っているものもあった。
書籍の方は至極真っ当な本屋の印象だが、最新の雑誌類はほとんど置いていなかった。街の本屋というより、まさしく古書店の風情である。もっと言えば、本屋なのに本より新聞の方が多いのではないか。
「もともと、父の知り合いから仕入れていたんです。顔だけは広かったんですよ」
甲斐は淡々と書店の経緯を説明し始めた。
今は亡き父親が帝大卒業の
尋常中学、高等学校、帝国大学の知り合いは多かったから、本の仕入れにはそれほど困らなかったようだ。インテリで、顔だけが広いというのはあり得ないだろうから、それ相応に頭も切れたのだろう。
しかし甲斐の評は違う。
「父はいい加減なんですよ。最初は自分の趣味のように、好きな書籍を集めてただけの本屋でこぢんまりとしていたのに、お客さんの声をそのまま売り物にしてしまったんですよ」
最初は好事家の延長線上だった。
それが暫くして客から「あれを置いてほしい」「これを置いてほしい」「こういう本はないか?」――月日を経て要望が拡大に拡大を重ね、取り揃える書籍も段々と増えていったという。
しかし、ここからが通常の書店と違う。
「あるお客さんがね、地方新聞や、洋書、英字新聞を置いて欲しいって言ってきたんですよ」
甲斐の父は最初の頃こそ撥ねつけていたらしいが、結局要求に折れ、購入する
最初に手に入れられたのは我が国の英字新聞くらいだったが、大正年間の終わり頃には、寄港地に住んでいる知り合いなどの伝を使って、上海で発行されている英字新聞を安く手に入れることが出来たらしい。
「ウチにある新聞は、ほとんどが古新聞なんです。普通の新聞は置いていません。英字新聞は父の伝で入荷しているものもあれば、父の知り合いの図書館職員あたりから、お
甲斐は事も無げに説明して見せたが、中々に大胆な発想である。甲斐の父は通常の書店として生き残るのではなく、変則的な書店の道を選んだのだろう。
「でも、英字新聞を読む人なんてそんなに多いんですか?」
「いいえ。だから
通常であれば、そこでお終いの話である。売れないものに金銭を支払い購入し続けられる程の余裕はないからだ。ただ、甲斐の父は面白い男だったようだ。
「父が思いついたように言うんですよ。英字新聞を読めない人が多いなら解説文でもつけて売ってやろう、って。それで足りなかったら辞書をセットで売ってみるか。それでも駄目だったら洒落た壁紙にでもどうぞ、ですって」
中々に図太い男である。
甲斐曰く、一時期は新聞を
英語辞書の販売も癖があった。
海外新聞と一緒に辞書を購入したら、価格を割り引いた。現在定着している定価販売の実態とは全くかけ離れた販売である。
幸い、今に至るまで誰も密告することがなかった。それどころか、この書店の英字新聞を読もうとして近所に『購読寄合』が出来る始末であり、甲斐の父はご近所さんに語学指導をしていたらしい。
「それ……、タダでやってたのかい?」
「そうです。英語の家庭教師だったら月十五円くらいは稼げたでしょうに、そういうのに無頓着なんですよ」
寧ろ、だからこそ愛され、寄合までも出来たのだろう。
「随分と奇特というか、愛されたお父上だったんですね」
「その父が四年前、還暦で亡くなりまして……」
母も後を追うように亡くなったという。
「ほんと、好きなように好きなことをやって、好き者の集まりや人々に囲まれて大往生ですよ。母もそれに不満はなかったので、私から見ても幸せな夫婦でしたよ」と甲斐は寂しげに語った。
そして、その跡を甲斐が継いだ訳だ。
「もう父と同じようなセット販売などは致しませんが、折角仕入れが出来るなら、出来なくなるまでやります。それに、好きで買ってくれる人はたまにいるんですよ。だからほら……」
甲斐は、壁に並んでいる新聞の一角を指さした。
英字新聞の一角が在庫切れとなっていた。商売は大繁盛ではないものの、生計を立てるには足る程度の販売があるようだ。
――ただ、それもどうなるか分からない。
ふと世相が頭を擡げる。
昨年、
紙面の統制がこのまま進めば、現状の販路が崩壊する。
そのことを甲斐は不安に思っていた。
「このご時世でございますので、大きな声では言えませんが、……やっぱり大変ですね」
甲斐は
両親が亡くなって四年、多分これまで色々あったのだろう。
「今は『戦時』ですからね……」
平時であれば、仕入れと販売の
国民徴用令の施行が宣言され、周りの人間が召集で取られ、だんだん消えてゆくのだろう。こんな状況下では政府の匙加減一つで商売が吹き飛ぶ。抱える不安は全く以て同じなのである。
「ところで、新井さんのご職業は?」
ラヂオの販売ですよ――、と肩を竦めた。
「あら、お互い情報を扱うご職業でしたか」
甲斐はアッケラカンとしていた。
半ば愚痴のように、自分の会社とラヂオ業界の再編について端的に説明した。
現在ラヂオ市場も非常に大きな変革期にある。
一昔前であれば製造と販売はほぼ一緒で行われていたが、最近は製造は製造、販売は販売という形で分化しつつあった。
ところが私の会社は旧態依然の体のままである。
大手のような一流品や凝った意匠は施せない。たまに無名で特売品を売ることもあるが、そういった細々とした販売では、今後決して生き残れないだろう。
時局への対応の一環として、統一規格による大量生産という話も聞く。ただ放送協会の要求と業界との軋轢は大きく、すんなりとは決着しなさそうだ。結局、二人とも至る結論は同じで、この『戦時』という時局が大きく暗い影を落としているのだ。
「そうですか。……人間、先のことなんて分かりませんもんね」
甲斐は寂しそうに呟いた。
そう、
つい一ヶ月ほど前であるが、
新聞の解説では第二次世界大戦の様相であるとされているが、正直どうなるか分からない。そもそも独ソ不可侵条約が調印された時点で訳が分からないのだ。
共産主義へ対抗するための『日独防共協定』であったはずなのに、ヒットラーはスターリンと手を結んだ。ソ満国境のハルハ河畔での戦闘が漸く停戦調停が交わされたばかりである。
ソ連は今し方敵なのである。
ところが同盟国ドイツが我が国への不信行為を働いて、敵と手を結ぶ。それから一週間くらいでドイツはポーランドへ侵攻した訳だ。そしてつい最近、首都
――恐ろしい速度でころころ情勢が変わる。
こんな状況で先を見通すことが出来る人などいるのだろうか。平沼首相が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢」と述べて総辞職したことは、誰も先を読めない証左である。
――くさくさしていても何も始まらない。
これ以上時局について語ると、お互い気落ちしていくだけだ。
「そうだ。いろんな新聞があるんなら、何か面白い話はないかい?」
少しでも気を紛らわせたい。
ラヂオを売る手前、音を通して様々な情報を取得するが、海外情勢や地方新聞を知っている甲斐なら面白い話を知っているんじゃないかと思ったのだ。
甲斐が面を上げ、目が合った。
――艶やかな瞳だ。
甲斐はにっこりと微笑んだ。
「そうですね。時局とあまり関係ないような記事だと、こんな話がありましたよ」
見た目に最近のものであろう英字新聞を棚から取り出した。甲斐の翻訳によると、米国で初めての大リーグのテレビジョン中継が行われたという。
今年の八月二六日、ニューヨーク市ブルツクリンで行われた試合がテレビジョンの電波に乗って放送されたとのことである。
「ほぉ――」
その言葉に気持ち前のめりになった。
ラヂオや新聞でしかその存在を知らない。
出来る出来ると言って、結局まだ実用に至っていないアレである。
あのテレビジョン中継である。
「矢っ張り米国は進んでるなぁ」
テレビジョンは映画のような過去の映像ではなく、ラヂオ中継のように同時的にカメラで撮影された映像が装置に映し出されるという未来の機械だ。集会会場でも良いだろうし、より販売価格が下がれば家庭でも楽しめる。いずれは今のラヂオのようになるだろう。
――と言われ続けて数年が経った。
三年前のベルリンオリンピックでは試験的な中継に成功していた。この成功を受けてか
もっとも、せっかく中継バスまで作成されたのに『戦時』がそれを許さず、オリンピック開催は返上され、それから話を聞かなくなった。それどころか、物資を政府が統制する段になり、新聞やラヂオですらそうなのだから、新技術であるテレビジョンはもはや夢のまた夢である。
その夢のまた夢を、米国では現実にしてしまったのだ。
「実際、実物をこの目で見たらどんな具合なんでしょうねぇ」
甲斐が興味半分に呟いた。
「そうだなぁ。走査線が少ないだろうから多分ぼやけてはいるんだろうけど、動いている実物を見たら、きっと感動するんだろうなぁ」
内心、夢見心地に憧れを語る。
「矢っ張り、殿方はこういうモノに興味があるんですねぇ」
私の様子を見て甲斐がしたり顔で指摘した。
――途端に恥ずかしくなった。
「……い、いや、女性だってモノには興味があるんじゃないのか」
苦し紛れの逃げ。自分ですらそう思うのだから、甲斐は完全に見抜いているだろう。モノはモノでも、と甲斐が前置きした。
「香水や化粧品、ドレスとかの欧米のモノは誰でも欲しがりますし、憧れますけど、……なんと言ったら良いんでしょう。殿方が好むのはこう、大きい技術の
重ねて返す言葉も見つからない。
いや、皆が皆そうではないし、生まれも違えば趣味も違う。好尚も嗜好も人それぞれである。例を列挙するまでもない。それでも
言葉に窮した私は視線を本棚に逸らした。
「図星ですね」
甲斐がくすくすと笑う。
反論の
「それはそうと、……座っていいかい?」
話を転換するにはちょうど良かった。
実際、息が上がったまま店に入りそのまま話し続けていたので、僅かに疲れを感じていたのだ。
「あら、ごめんなさい。私ったらうっかり……」
そう言うと、カウンター横にあった簡単な作りの丸椅子を引っ張り出してもらった。
「お疲れだったでしょうに、失礼しました」
いやいや、こちらこそ済まない、と頭を掻きながら腰掛ける。
「この間は仕事帰りで嫌なことはあるわ、雨に降られるわで散々だったんですよ。そんな時、傘を貸して貰えて本当に助かりましたよ」
「まぁ、苦手なモノに当たるのは誰でも嫌ですからねぇ」
そう言ってもらえると有り難い、と口にしようとした時、甲斐が思い出したように手を叩いた。
「そうそう、苦手なモノ、で思い出しました。この間
甲斐はまだ『戦時』ではない話を続けてくれるようだ。
「どれにです?」
「今年の『
「え……、あぁ、そう言えば、とんでもない成績が出たんだって?」
女性の口からいきなり蠅の話が出てきて流石に当惑した。しかし、焦臭い時勢に関係ない身近な話題には違いなかった。『蠅取りデー』とは大正年間より全国で行われている、蠅取りのイベントのようなものである。
何でも由来はアメリカらしいのだが、いつの頃からか日本ではこれが半ば祭りのように、大人も子どもも蠅取りを競い合う行事になっていた。
コレラ対策やらチフス対策やら。蠅はいわゆる伝染病の原因になっているらしく、それを人の手で徹底的に退治しようというのだ。
東京市では七月二十日を蠅取りデーと定め、市民に蠅取りを競わせた。ある程度の数が捕れた場合や数で上位に入ると、町会や行政が率先して景品、あるいはその抽選券など報奨を与えた。
私は見ただけであるが、近所で蠅取り競争が開催されていた。
参加した子ども達は、家の中で叩いては死骸を袋に入れた。ただそれだけでは不潔きわまりないので、消毒液を掛けて主催者のバラックに持って行く。そこで重さや数を数えるのだが、――これがまぁ気持ち悪い。
マッチ箱一つを埋めることが出来たら、それはもう子どもの間では英雄扱いである。しかし思い出されるのは黒黒とした蠅の死骸の山である。
昭和十四年の今もこの行事は続いている。しかも桁が一つ二つ、いや三つも違っていた。
「三十万匹ですよ、三十万!」
甲斐は興奮気味に息巻いた。
しかも個人ですよ、と付け加える。
「いやぁ、想像もしたくないなぁ」
辟易――。甲斐の態度ではない。蠅の記憶に、である。甲斐が挙げた数字は確かに凄い。しかし、少し落ち着いてほしい。――蠅だぞ蠅。あの忌まわしい黒い塊だぞ。
甲斐はふふっと笑い、すかさずに謝った。
「でも、絶対一人で三十万なんて無理ですよねぇ」
盛ってるのかしら――、と甲斐はあっさりと
捕った数を盛るにしても協力者から蠅の死骸を分けてもらうなんて、真っ平ごめんだ。まだ
「どう思います?」
どう思うと言われても、知りようもないし知る気もない。
しかし甲斐は『一人で三十万』という謎が解けないようで、首を傾げている。ふと冗談めいた案が浮かんだ。
「これはあれだ、蠅の養殖工場でも作ったんだろう。つけた火元を一人で消せば、毎年景品獲得せり、だ」
――二人して笑った。
気持ち悪い蠅の話で何を盛り上がっているのか。客観すると余りにも馬鹿馬鹿しい。それでも甲斐が見ず知らずの私に話を合わせてくれた気持ちは察せられるし、その思い遣りは心の底から有り難かった。
所帯を持たない独り者。
厳しい世相。
優しい美女。
だからこそ、また来ようと思った。
また来店するにしても冷やかしというのは宜しくない。だから来る度に新聞の一つや二つ、買ってあげよう。
英字新聞に挑戦してみてもいい。英語は中学校で学んで以来、本格的に取り組んだことはなかった。何かと心機一転の心持ちになった。
壁に掛かっていた時計が間でも読んだように、六時の音をぼんぼんと鳴らした。
「時間を取らせて悪かったね」
改めて傘の礼を言うと、ものは試しと英字新聞の一つを購入しようとカウンターの横にあった新聞を眺めた。
「これ一つ買うよ」
甲斐はその言葉に一瞬
「お買い上げ、ありがとうございます」
もちろん英字新聞など完全には読めないから、無用の長物か燃料になる可能性が高かった。ただ心の底から嬉しかった。その感情が顔にでも出ていたのか、甲斐も嬉しそうにしていた。
「また来てくださいね」
その笑顔に私の鼓動は早まる。
気忙しくなる。
――有り体に言ってしまえば一目惚れなのだろう。
ただそういう感情を言葉にして自分にぶつけたくはなかった。
「それじゃ、また」
手を振る甲斐に会釈しながら、店を出る。
来る時には曇っていた空も、綺麗な夕焼け空である。太陽は地に落ち、朱く朱く空を染め上げる。秋も深まりつつある。日も短くなる。
「――なんだ、
ラヂオでは夕方から雨と言っていたはずである。
だから自分用の傘も持ってきたのに、この蝙蝠傘の立つ瀬がなくなってしまった。
でも、そんなことはどうでもいい。
確かに飛び込んだら出会いがあった。癪に障るが、渡辺の言う通りだった。
それも望外の出会いだ。
望月甲斐――。
その名前を何度も何度も繰り返しながら、足取り軽く借家へ帰る。冬が近づく秋風すらも今は暖かい。明日への希望を胸に傘を振り回した――。
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