第4話 未亡人

「何か面白い話はあるかい?」


 ――あれから数日経った。

 本当ならば毎日でも通いたいが、迷惑を考えて控えていた。


 いや、商品を買うのだから良いはずだが、気恥ずかしさが衝動を抑えていたのである。

 それでも、数日おきには来たいと思ったし、それくらいなら一常識として許される範囲だと思った。


 ――実は、昨日の火曜日も書店に寄ったのだが、どうやら火曜日は定休日とのことで、項垂れてとぼとぼと帰宅していた。

 間抜けで哀れであると、自分が嫌になった分、今日はその反動で、無駄に張り切っているのだ。


「そうですねぇ――」

 それから他愛もない話をする。


 世相を離れ、六大学野球の話や、ラヂオの主力製品の裏話、本の仕入れの苦労話、そして海外の小ネタ話である。

 やれ人食い鮫が出ただの、新しいミュージカル映画が話題だの、小学校で武道を課することなど、色んな話をした。

 それだけであっという間に時間が過ぎる。


 ――もう十七時を回ろうとしていた。

 学校の話になったついでに、夫々の出自の話になった。


「甲斐さんって、何処の学校の出ですか」 

 甲斐はきょとんとした顔で、某高等女学校の名を口にした。


「凄いな、お嬢様だったのか」

 お嬢様という言葉に、甲斐は数瞬、固まっていたが、すぐにクスクスと笑い出した。


「私がお嬢様な訳ないですよ。高女をどう思ってるんですか」

 その回答に、今度は私がきょとんとしてしまった。

 ――女子高等学校を、私はどう思っていたか。


「確かに、入るのは狭き門ですし、親の理解やお金がないと入れませんけど、皆がみんなお嬢様じゃありませんよ」

 甲斐曰く、高等女学校は、数自身が多くはないが、都会だけでなく、最近は農村部にも設置されている。

 言われてみれば、思っていたより多くあるようにすら思えてきた。


「それなら、新井さんは何処の出なんです?」

 自分の出身校、地方の某中学校の名を口にした。

「新井さんの方こそ、結構なエリートじゃないですか」

 男子中学への進学率を言えば、体感では一割から、多くても二割弱である。今はどうか知らないが、率としては男女ともに似たようなものだと、甲斐は言う。


「はは、そうだったのか。てっきり、一握りしか進学できないお嬢様学校だと思ってたよ」

 その言葉に、甲斐は店の外を流し目で見ながら、溜め息がちに呟いた。


「……でも、確かに行ける人は少なかったので、高嶺たかねの花と今でも見られるんでしょうね」

 実際そうであった。百人いたら、十人程度しか行けないのだから、それだけでも十二分に高嶺である。


 高嶺の花の女学校。


 ――甲斐の学校生活。


 女学校の生活など、本で読まなければ分からない。そしてそういった類いの本は読んだことがなかったから、全く想像がつかない世界であった。

 だから、率直に尋ねてみた。

 私の女学生の頃ですか――、甲斐は神妙な面持ちになった。


「きっと新井さんは知らない世界ですよ、女学校の世界は」

 と言い切ったものの、何処か逡巡しているようだ。


 まだ知り合って間もない男に、――いや、右も左も分からぬ男に、自分の世界を語る時、どこから説明して良いか悩んでいるようだった。

 女学校独特のもので、その『世界』を象徴的に現すもの――。

 甲斐の逡巡しゅんじゅんは間もなく終わり、話を続けた。


 それは、本当に知らない世界。


「女学校では、の関係というのがあるんですよ」

 ――エス?

 思わず鸚鵡返しになった。


「シスターのSですよ」

 事も無げに答えを言われても、分からない。

 シスターは、姉妹の訳語だよなぁ、と上辺だけの知識が頭の上を流れていく。


「流石に、それだけじゃ分かりませんよね。でも、男子中学でもありそうなのは、兄貴分と舎弟のようなものですかね」


 ほぅ、と首肯した。

「それなら分かりやすいな」


「全員が全員そうではなかったでしょうけど……、上級生と下級生、人によっては、女教師と生徒というのもありましたね」

 どちらか、いや、年や立場が上の人間が庇護者となり、交友を深めるといったものらしい。


「そうなると、上下関係のある友達なのか?」

「うーん……、ちょっと違いますねぇ」

 甲斐は軽く俯いて視線を落とした。


「親友というのでもないんですよ。もっとこう、……なんて言えば宜しいのでしょうねぇ」

 おそらく自分よりも、多くの書に触れ、かつ沢山の情報や表現を知っている甲斐が、首を傾げている。

 その姿は、非常に新鮮に映った。


「こう――、言葉には表せないのかい?」

 甲斐は、そうなんですよ、と口を歪めた。


「表層的には、姉妹や師弟の愛情に近いんでしょうけど、はっきりとした恋情れんじょう慕情ぼじょうともちょっと違う、……もっとこう、奥ゆかしくて、優艶ゆうえんで、鋼のように頑強がんきょうで、でもひっそりと日陰に咲く花のような……」

 その説明で納得しようと、目をつむって考えてみたが、ただただ眉間にしわが寄るだけである。


「――例えばですよ」

 苦悶の表情を浮かべる私を見かねてか、甲斐が具体例を挙げた。


「相手に意志を伝える場合、新井さんならどうします?」

「……そうだな。言葉にして喋るか、手紙を出すか、贈り物をするか、だな」


「私たちが意志を伝える時は、誰にも見つからないように靴箱に手紙を入れるんですよ」

 うん、と言葉を飲み込む。

「そして、翌日手紙を渡した相手に廊下で会っても、をするんです」

 この時点で、飲み込んだ言葉が消化できなくなった。


「さらにエスの関係の場合、その手紙の内容を他に話しては決していけない、なんです」

 ――素知らぬ振りをするのに、二人だけの秘密。


「むむ……」

 奇っ怪な人間模様。

 もし、そういう表にならない遣り取りが上品だというのなら、まさに自分は下品なのであろう。


「確かに、なかなか、……難しいね」

「こういうのを、乙女って言うんですよ」

 甲斐は少しだけ嬉しそうに、しかし傍目にはむように喋った。


 ――そうか、乙女か。


 不可解な人間模様を、乙女という箱に無理繰りに閉じ込める。

 言葉にすると婉曲。

 しかし、言わんとする輪郭は分かった。

 ただ、肝心の心根がぼんやりとしている。だからこそ、自分は乙女心も分からない、粗忽者そこつものなのだ。


「まぁ、殿方にご理解いただくのは難しい事かも知れません。ただ、全部が全部、こういった具合ではありませので、勘違いなさらないでくださいね」

 甲斐の親切は、忠告のようにも聞こえた。

 乙女心の根幹を理解出来ない粗忽者が、乙女と話をしていても良いのだろうか――。

 自責、自嘲の念が強まるばかり。

 私が沈痛な面持ちで面を下げていると、甲斐は突然したり顔になって、問いかけてきた。


「新井さんの学校生活は、どうだったんですか?」

 顔を上げると、甲斐の目が活き活きとしている。


 あぁそうか――、と得心した。


 男子は女子を知らず、女子は男子を知らず。

 自責する必要はない。甲斐の知らないことを伝えることが、一番彼女が喜ぶのだ。

 そう弁えると、何だか心が軽くなった。


「僕の方は、そんな華やかな世界じゃないよ」

 逃げの前置きをした。


 ――中学校は家に資産がないと、教員から進学を勧められることはない。

 親戚などの支援者がいれば、進学の選択肢が出てくるが、そうでなければ、進学を諦めるように勧められる。

 そんな生徒は、周りにもごまんといた。

 結果、経済的余裕がある男子だけが集まる。

 それは先程の甲斐の話とは違い、もっと荒々しい世界である。


 さて――。

 男子中学の世界を知らない女性ひとに、上手く伝えられる良い出来事がすぐには浮かばなかった。


 ――あぁ、確かに、違う世界を伝えるのは難しいものだ。

 甲斐の心境が分かった。多弁に過ぎても、ちっとも伝わらない。

 うんうん唸り、目を瞑る。

 その間は僅かに数秒であったが、目を開けなくとも、甲斐が笑っているのは分かった。


「そうだなぁ――。女学校に絶対ないと思うのは、行軍かな?」

「行軍……、ですか?」

「あぁ、軍に入営するんじゃないよ。隣県の街まで三日、昼夜またいで歩く行事だよ。二十五里、約百キロ」

 甲斐はパチリと目を見開いた。


「――ひゃ、百キロですか」

 驚いた表情が、一層可愛く見えた。

「そうそう。母校から隣県の街までちょうど百キロ。水筒、握り飯、地図、靴を持って峠越えさ」

 その言葉に、甲斐は思わずうわぁ、と声を漏らした。


「それは……、中々大変ですね」

「大変は大変だったけど、それが酷くてねぇ」

 この行軍という行事は、各学校で名称が違っていたが、母校では『頑張り行軍』と呼ばれていた。


 百キロの峠越え――。


 ゴールと中継地点の街には、教師や協力する住民、保護者らがちらほらいてくれるものの、基本的に走るのは自分一人である。

 途中休憩のための宿として、協力してくれる住民宅を使ったが、ぐっすり寝るということは出来ず、簡易な休憩しか取れない。

 問題は、その入学初年度に起きた。


「聞いてくれよ。そんなに足も速くなかったのに、何故か一着だったんだよ」

「えぇ! 凄いですよ、数百人いて一位でしょう」

「それがなぁ……」


 号砲と共にスタートが切られ――、壮健なる若き男児が一斉に走り出す。

 最初こそ皆走っていたが、徐々に早歩きに、徒歩に移っていった。


 さて、中盤くらいに差し掛かり――。

 街を外れ、何故かすぐに山道になった。


 道程は、幹線道路が基本だ。

 だから険しい山道を走る訳はないのだが――、上へ下へ、山登りと見紛う道すらあった。

 どうやら旧道らしく、道はあるものの、げに前時代的な峠道である。

 無論、途中に休憩所などなく、やはり道を大きく間違えていたのだろう。


 野宿しながら夜の山越え――。


 今思えば、若気の至りとは言え、恐ろしいことをしたものだ。

 幸い、蛇やら熊に合うこともなく、無事通過出来た。

 山道を終え、街中に入る頃には、もう汗やら泥で、全身べとべとである。

 だからさっさとゴールテープを切りたかった。


 出立前の話で、ゴールには休憩所より豪勢な食事――といっても饂飩うどんだが――を食べられるということもあり、心の底から勇んで、直前の角を曲がって、市役所前に躍り出た――。


「いないんだよ」

「え?」

「誰もいなかったんだよ」


 ――早すぎた。


 そこはただの市役所前広場であり、そこには横断幕も出店も、そもそも関係者と思しき人も、見慣れた教員も、誰もいなかった。

 汗だくになりながら、腹を空かした哀れな少年が、市役所前に突っ立っている。

 不思議に思ったのか、市職員と名乗る人が声を掛けてきたので、正直に答えた。

 職員は驚いた様子で声を上げた。


「まだ先生方が着いていないので、待っていてください、……だと」


 ――空き腹で、腸が煮えくりかえった。

 いくら何でもそれはないだろうと、大声で叫びたかったが、別にこの職員が悪いわけでもないので、押し黙って広場横の椅子で休んでいるしかなかった。


「それから一時間くらいして、やっと先生様のご到着さ」

 教員の第一陣が、駅からバスや車でやってきた。

 ぞろぞろと降りてきた時に、それは大層驚いていた。


 地図上では直線である山道を、要はのである。

 あまり休まず歩き通した事も、想定外の早着につながったらしい。

 空腹に耐えかね、教員に何かくれないかと尋ね、お茶一杯と塩にぎりを一つもらった。


「それから、饂飩うどんを大盛りにしてもらったよ」

「ふふ……、それだけで良かったんですか」

「いいさ。腹さえ膨れれば、怒る気にもならなかったよ」

 その答えに、甲斐が微笑む。

「そういう、サッパリとした具合が、ホント殿方らしいですね」


 そう言われて、どことなく恥ずかしくなった。

 粗忽な世界も、上品な世界から見たら愉快なものに見えるだろうか。

 ただ、甲斐が喜んでくれたようで、私はそれだけで良かった。


「なんだか、男と女とは不思議なものだね」

 ――まるで世界が違う。

 なのに、社会に出たら突然、それらがくっついてしまうのだ。


 ――いや、違う。

 男の世界だろうが女の世界だろうが、表に出にくいだけで、男女が交わる縁や繋がりは、絶対にあったはずだ。


 現実、私の同級生にも、女を侍らす美丈夫やら、恋に落ちてどうしようもなく煩悶する奴はいた。

 女学校もきっと、男との色恋噺のようなものは盛んだっろう。

 年頃の男女が会う空間があれば、絶対つながりはあるはずなのだ。社会に出てからも、それはあるはずだ。


 ――なのに、その巡り合わせがなかった。

 低きに流れ、自ら出会いも求めなかった。

 だから、渡辺に揶揄からかわれ、今、この瞬間に出会っているのだ。

 ――懊悩と自省。

 間隙かんげきうように、――色恋の話が引っ張り込んだのだろう、ふと思ったことが、するりと口から零れた。



「……そういえば、甲斐さんは?」



 浅慮せんりょですらない――、条件反射。

 失礼に当たるかもしれない質問であったが、少なくとも周りの環境では、――殊更に今時分では、その問いは当たり前であった。


 先日、厚生省が『結婚十訓』を発表した。

 産めよ殖やせよ国のため――。

 文字通りの意図故に、嫌に印象に残った。だが故に、あまりに不意に、口から零れたのだった。


 次の瞬間、甲斐の表情があからさまに曇った。

 そして目を瞑り、俯き加減に答えた。



「わたくしは、――未亡人にございます」



 ――しまった。

 瞬く間、眼前の世界が凍り付く。


「三年前に、夫は他界致しました」

 重ねられる甲斐の言葉は、――重い。


 ――これは、二重に聞いてはいけないことだった。


 独り身として、お近づきになりたい。

 その欲求は、否定しない。その癖、既婚の事実を伝えられる身構えを、全くしていなかった。


 胸中は筆舌に尽くしがたく、惑乱する。

 鼓動が早い――。

 何か言い返さないといけない。


「……余計なことを聞きましたね。……申し訳ない」

「いえ、良いんです」


 ――ちっとも良くない。

 何とか慰めようと考えたが、その考え自身がすでに傲慢である。


 時節柄、夫を亡くした未亡人は当たり前にいる。

 人によっては子を養うために、夜の街に身をやつす。

 未亡人という現実は、少なくとも、そのように見えるのだ。


 下手な慰めは、ただただ傷つけるだけ。

 すぐに言葉が浮かばなかったことが、幸いした。


 ――しかし、同時に違和感を覚えた。


 今、甲斐はと言った。ではないのだ。


 今般の事変や戦地で亡くなったのなら、確実に『名誉の』という枕詞がつくものである。

 お国のために戦って死んだ人間を、他界と表現する人を、私は見たことがない。


 何か理由があるのだろうか――。

 しかし、聞く気になれない。

 未亡人であることを言わせてしまった時点で、もうなのだ。


 数秒の、沈黙――。

 出来る限りの斟酌の上、端的に自分の意志を伝えたかった。


「――これ以上は聞きません」

 強く断言した。

「不安や悲しみはあると思いますが、僕は客として、明るい話を聞きに来ます。だから、甲斐さんも明るくなさってください」


 上手く言えたものだ、と瞬時に安堵あんど自賛じさんの念に包まれる。

 もっとも、己の傲慢ごうまんさの裏返しであることにすぐに気づき、三度自責することになった。


 甲斐が、ゆっくりと頭を上げた。

 その瞳は僅かに潤んで見えた。


「……新井さん、……ありがとうございます」

 か細い声。

 それでも、確かに感謝の意が汲んで取れた。


 ほんの一、二秒の沈黙。

「これ……、買います」


 甲斐は微笑む。

「……お買い上げ、ありがとうございます」


 ――精一杯の、日常への回帰。

 財布から値段きっちりの金を出すと、また来ます、とだけ告げ、出口に向かった。

 甲斐の寂しげな会釈えしゃくが、辛い。


 既に外は暗く、嫌に寒い。

 話は楽しかったし、上手く愁眉を開くような言葉を選んだものの、足取りは重く、この間とは打って変わって、それこそ行軍のようだ。

 かつてのようなゴールは見えない。


 借家までの長い長い十分を、独り寒さを堪えながら、とぼとぼと歩くしかなかった――。

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