第19話 荒唐無稽

「甲斐さんは……、甲斐さんは、どうなったのです」


 憂色を浮かべる私を、鈴木は流し目でこちらを睨む。

 説明を分断されたことをんでいるのか、大きく溜め息をつき、俯きながら首を横に振った。


「君の心配も分かるが、この話には順番が必要なのだ。もっとも、今からそれを言おうと思っていたところだよ」

 物事には順番がある。そんなことは分かっている。

 鈴木は、もういないと言った。それが事実であれば、一体何故なのか。何処に行ってしまったのか。


「二日前のことだ。甲斐さんから、私宛に手紙が送られてきた」

 ――二日前。

 それは、甲斐に告白した日。


「手紙には色々と書かれていたよ。生憎、今此処に持ってきてはいないが、端的には、……そうだな、感謝と謝罪だ」

 それから鈴木は、滔々とうとうと手紙の内容をそらんじた。


 曰く、直接お目にかかれず、お別れをする非礼をお許しください。

 曰く、ここ数日来、具合が悪くなっている。

 曰く、幻聴が聞こえているということ。

 曰く、あと数日もしないうちに、あの記事が原因で、長田と同じようにこの世から消えてしまうこと。

 曰く、鈴木をはじめ友人、親戚一同に感謝と、お別れする謝罪を。

 曰く――。

「一番心配しているであろう君に、直接私の口から、今までのことを説明してあげてください、とな」


 続け様に「部下を使って君の帰りを見張っていたとはいえ、随分と待ちくたびれたよ」と鈴木は悪態をついた。

 手紙の内容は、頭では大凡理解していても、――心中、一粍も理解したくなかった。


「……なんなんですか、それ」

 自然と不遜な口調になった。


 甲斐は、消えてしまったというのだ。

 今までの経緯を知っているから、凡そ言っている事は分かる。それでも感情は、その事実を受け入れられないし、受け入れたくない。

 体調不良? 幻聴? 消える?

 ――

 鈴木は、再びこちらをきつく睨んだ。


「あるがままだ。甲斐さんの手紙には、原理なんぞ書かれておらん。ただ、幻聴は、簡単だが記されておった」


 ――観よ。

 ――胸に刻め。

 ――口惜しや。

 明らかな、誰かの言葉。誰かの意志。


「その声が、甲斐さんを、連れ去ったのですか」

「……分かる訳があるまい。幻聴が、人を連れ去るなど」

 ばつが悪そうに、鈴木が吐き捨てる。


「だが、記事が現れる不可思議さに幻聴の内容。それは、どこかで繋がっているように思えるな」

 歯切れが悪い。鈴木にしても、この摩訶不思議な現象は、手に負えていないのだ。

「軍でも、把握出来ないのですか」

 ふん――、と鈴木が鼻を鳴らした。


「君はどう思うのかね」

 以前悩み続けた、解答。それこそ、この鈴木のせいで、分断されてしまった、推理。


 ――この記事は八咫鏡。

 ――異なる現実を映し出すことで、何かを引き出す。

 ――それがこの記事の役目。

 ――引き出そうとしているのは。


です」


 か細い声で、力強く断言した。

 天照大神が隠れてしまった高天原は、暗闇のどん底だ。

 天宇受賣命アメノウズメノミコトの踊りと、天之手力男神タヂカラオノミコトの怪力と、八咫鏡のへの興味により、天照大神は岩戸から引きずり出され、世に光が戻る。


 暗澹あんたんたる世界から、赫々かくかくたる世界へ。

 誰が天宇受賣命で、誰が天之手力男神なのかは分からない。だが、引き出された天照大神の後光で、世は変わった。鏡像は、見る者の興味を引き、この世を変える存在を引き出す。

 引き出されたのは、長田か、甲斐か、私か。或いは、引き出された私達が、現実を変えていくのかもしれない。


 ――これが、甲斐に伝えきれなかった、解答。無論、確かめようなど、――ない。

 ここまで話して、鈴木を見遣る。目を瞑ったまま、説明を聞いている。


 ――黙して語らず。僅かな沈黙が流れた後、ふと、鈴木の眼が開く。

 狭い車内なのに、遙か遠い世界を見るように、鈴木の眼は細い。


「これは、哲学を噛んだ黒葉、――あぁ、彼のことだ。この男の受け売りだが……」

 目の前にいる、付き人は黒葉と言うらしい。黒葉は僅かに方を竦ませた。

 肩書きや、尊大な態度の鈴木にしては、とても自信のない前置きに聞こえた。


「私には、最高理論の科学や哲学の話は難解すぎて、正しい言葉を選んでいるか分からん。ただの例え話になるだろうが……」

 一呼吸置いて、鈴木は新井に尋ねる。


 ――君は、


「え……」

 あまりにも抽象的な問い。抽象的なばかりではない、全然関係ない問いにしか聞こえない。

「いや、言い方が悪かった。例えば――、だ。君が海難事故に遭い、記憶を失って、何処かの島に漂着したとしよう」


 恐ろしく嫌な例え話だ。

 ――鈴木の問いはこうだ。

 誰もいない、まさしく無人島において私が一人だけいるとする。

 誰の目もない中、どうやって己自身を規定しうるか。

 記憶を失った状態で、自分が明るい人間か、暗い人間か、大胆な人間か、慎重な人間か、正確に言い得るか――。


「そもそも、性格や態度を規定するには、必ず『他者』が必要なのだ。誰々から明るいと言われた、誰々から暗いと言われた。己自身を定めるには、他者の声や見方、意見が必要になる」


 ――ピンときた。


「この記事は、他者、なんですね」

「……そう考えられる」

 言い切ったようだが、相変わらず歯切れは悪い。


「では、一体誰がこの記事を、長田や甲斐さんの胸に、映しているんですか」

「そこが分からんから、分からんのだ」

 露骨な不満を漏らす。だが、それももっともだ。鈴木は、口元を厳しく締めた。


「――仮説はある」

 断言の直後、再び『黒葉の受け売り』という逃げ口上が入った。鈴木は、こういう禅問答めいたものや、非科学的なそれは苦手なようだった。


「さっきの続きになるが、君は他者と己を別ける時、その境目は何処にあると思うかね」

 再びの抽象的な問い。人と人を分け隔てているのは、順当に考えても物理的な身体、しかない。

「そうだな。では、己と他者が身体で別けられているなら、


 ――甲斐は、自分をどう思っていたか。

 それを確かめるのは、言葉、所作、表情。

 今までの短い間に触れ合った、甲斐の色々な声、涙、笑顔が、ふっと浮かんだ。


「言葉や振る舞い、表情……、ですか」

では無理だ」

 吐き捨てるように拒絶された。


だったら、そんなもの簡単に模倣出来るではないか。いいかね、。或いは分かったとして、そう思っているのは誰か。それはだ」


 鈴木の説明は、あまりに性急に結論を導き出そうとしている。拙速と言い切ってしまうのは簡単だ。

 だが、哲学を噛んだという黒葉の説明を、鈴木なりに、無理繰り解釈しているのだろう。常に自身を納得させるような口振りである。

「ここで大事なのは、自分の眼と頭を通してでしか、他者は存在できない点だ。先の話に戻ると、我々は必ず、己自身を規定するために、のだったな」

 つまり――、だ。


「ここで、他者を『記事』に、己自身を『現実』に置き換えてみたまえよ。我々は今いるこの現実世界己自身を確定するために、異なる現実他者を、その都度その都度、生成しているのではないか――」


 ――観よ。

 ――観よ、観よ。

 この記事は、我々の願望、妄想だ。


 ――そんなことがあるだろうか。

 あの荒唐無稽な記事は、いや、この事こそが荒唐無稽ではないか!


「……信じられません」

「だろうともな」

 鈴木の諦観は、肝心の所が腑に落ちていないことの現れであろう。

 結局、記事が胸に現れる原理については、何も解決していない。

 鈴木が語ったのは、この記事が持つ意味――の可能性だ。

 肝心の、誰が、どうやって、をすっ飛ばして、観念的に捉えようとしていることに、鈴木は腹を立てた。


「まったく、解りにくいのだ!」

 鈴木は、前席にいる黒葉の悪態をついた。

 声を荒らげていたが、脚で蹴ったりはしない。黒葉が俯くのが見えた。


「量子論だか、よく分からん考えまで持ち込んで解釈しおって。何だか知らんが、の教理の方が、よほど親しみやすいぞ。蓋を開けてみたら、この世の全ては、お釈迦様の掌の上で遊んでいるだけに過ぎなかったら、泣くに泣けん」

 落ち着き払っていた鈴木が、感情的に愚痴を零している。

 その悪態は、不得意分野への憎悪にも聞こえたが――、例え話としては言い得て妙だと得心した。


 、物体としての『記事』は、原理はどうあれ、、つまり実体がなくとも『記事』という役割、関係として立ち現れる。『記事』は胸の染みという物ではなく、私達の願望という意味により、あたかも『記事』として存在する。

 ――記事が、どう出るかなんて関係ない。

 記事が持つ役割が、大切なんだ。


「黒葉から詳しく説明しても良いが、もう良いだろう。理由は分からんが、あの記事はの物だ」

「……どういう類い、ですか」

「我々が考えても埒が明かないもの、ということだ。。だから、君も深く考えることはやめたまえ。それに、もう記事、いや、甲斐さんはいないのだ。きっと、お釈迦様も、もう諦めてしまったのだろう」


 ――ない。

 記事は、いや、甲斐はもうない。

 鈴木の手紙では、甲斐は消えるだろうと言葉を遺した。

 本当に消えてしまったのか。


 だが、鈴木の言葉だけでは、信用出来ない。甲斐がいなくなったことを、家を、残り香を、己の眼や耳で感じていないのに、どうやって信じられようか――。

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