第18話 消えた思い人
――胸騒ぎが止まらない。
甲斐の姿が、言葉が、寂しげに脳裏に焼き映される。
あの様子は、何処かおかしかった。いや、そもそも具合が悪いこと自身が、おかしいのだ。さらに遡れば、胸に文字が浮かぶなど――。奇想天外、摩訶不思議。浮かぶ言葉は意味不明。
結局、謎は何も解明されていない――。
いや、分かったところで、人知を超えた何かである、という結論にしかならない。昔、医師が匙を投げた時点で、私に出来ることは何もないのだ。私に出来るのは、あくまで彼女を支えることだけだったのだ。
昨日、念のため、帰り際に書店に寄った。書店の入り口には、『定休日』の看板。
――甲斐は、ちゃんと休んでいるらしい。
それはそれで安心出来た。休みの日は、しっかり休んで欲しい。あの体調不良の中、無理して倒れられたら目も当てられない。
ただ、その安心とは裏腹に、帰宅後は悶々とした時間を過ごした。
甲斐は無事だろうか――。それとも、寝込んでいるのだろうか。明日、帰り際に寄ったら、店は開いているだろうか。また、いつものような笑顔で迎えてくれるだろうか――。
徐に惑う胸中を鎮めようとしている内に、思いつく。
――そうだ、お土産の一つでも買っていこう。
今まで、ちらほらと新聞や本は買っていたが、実の所、冷やかしの体である。
罪滅ぼしに、甘い物。そう心に決めると、ようやく気分が軽くなり、眠りにつくことが出来た。
――今日。
職場の昼飯時に少し歩いて、金平糖を買った。良い塩梅の、ラムネ瓶にも似た、洒落た
中には、淡い紅白の金平糖が詰められている。金平糖は、日持ちするし甘い。淡い紅白は、少しでも、甲斐の気鬱を紛らわせてくれるだろうか。
会社に戻り、廊下を歩いていると、飯を済ませた渡辺と鉢合わせてしまった。
「おぅ、何持ってんだよ」
――間の悪い髭だ。
包んで貰った袋に、菓子店の名が書かれている。
子どもでも簡単に推察出来る。
「ははぁ――。まー、土産の一つで女が釣れるとは思わんが、菓子が嫌いな女は、この世にいないだろう。精々、喜んでもらうんだな」
一体何の自信があって、そこまで言い切れるのか。渡辺の根拠など、全く分からぬ。
しかし、当て推量は全く同じ。
まるで魂胆を見抜かれたようで、頗る気に食わない。
「五月蠅いなぁ。お前だって上さんに何かあげてるんだろ?」
「そりゃあ、プレゼントの一つや二つ。ネックレースだのペンダントだの。クリスマスデイナーにゃ、レストラントで七面鳥よ」
新婚になるまでに、意外と苦労していたようだ。
まったく、現代のサラリーマンの悲哀だ。軽薄な都市生活よ。
だが、甲斐とも、そういう事が出来るなら、月給の一月二月分くらい、私は簡単に犠牲にできる。
――男と女は、中々に大変なのである。
「まァ口説くなら、諦めずに挑戦するこった。会うたびに女は化けるからな、ハハハ」
これでも私を応援してくれているらしい。
会うたびに化ける――。
また会った時に、秘密が明かされるだろうか。
ごめんなさい――。
その言葉の意味を、私は知りたい。
定時を迎えた頃――、日は傾き、夜の帳がそろりそろりと降り始めている。
渡辺の応援を思い出しながら、帰路を急ぐ。
いや、帰路ではない。向かうのだ、
いつもの夕焼け空、手には金平糖の入った袋。
足取りは気忙しい。不安と楽しみが入り混じった所作のそれである。胸中の靄が晴れぬまま、いつもの曲がり角まで来た。
見遣ると、いつもの望月書店。
――突然、心臓が
何かも分からず走った。分かりたくもなかった。
店の前で立ち止まる。
息が上がったまま、張り紙を見た。
――閉店。
真新しい紙に、重々しい筆致で『閉店』とあった。その下には、長年のご愛顧を賜り、と始まる、よく見る定型文があるばかり。
臨時休店や定休日ではない。閉店、店じまいである。
――なんだこれは。
右手に持った革鞄と、左手に持った金平糖の袋が、ガサリと地面に墜ちた。
無音――。何も聞こえない。
店の中からは、物音一つ聞こえてこない。その静寂が、殊更に私を追い詰める。息は上がっているのに、最早鼓動すら聞こえない。音もなく、寒気がぞろぞろと、頭の天辺から背中へ、脚へと降りていった。
「……なんだよ、これ」
心から上滑りした悪態が、口から漏れる。
意味が分からない。
頭が真っ白のまま、案山子のように突っ立つ。
数秒、数分、或いは一瞬――。どれだけ経ったか分からない。
背中から突然、男の声で呼びかけられた。
「――新井君だな」
ゆらりと、振り返る。
サトウがいつものように、機嫌が全く分からない仏頂面で、後ろに立っていた。そのすぐ隣には、あの時ぶつかった付き人が佇んでいる。
相変わらず清廉に決まった洋装。サトウは冷たい目線を向けたまま、聞きたくもない言葉を口にした。
「甲斐さんは、
――いない、とはどういうことだ。
――甲斐は何処に行った。
――お前は何を知っているんだ!
見た目、自分より一回りも二回りも年上の人間に、食って掛かった。それから勢い任せに、サトウの胸座を掴もうと、右腕を突き出した。
しかし――、私とサトウの間に、付き人の腕がぬるりと伸びる。束の間、付き人は私の腕を、力強くむんずと掴み、ぐるり背中に捻り上げた!
「い、痛たたッ!」
「これこれ、乱暴な真似はよしなさい」
――それは、どっちに向かっての台詞だ?
苦痛に歪む口の端。付き人は乱暴に私を突き飛ばした。
幸い、地面に倒れ込む事はなく、体勢を崩しただけだった。
「大丈夫かね」
――何が大丈夫なものか。
乱暴を働いたのは、そっちではないか。口から出そうになる言葉を抑え、無言で睨む。
混乱と情動は、一瞬で掻き消えた。
サトウの表情筋は一粍も動かず、付き人に至っては親の敵のような眼でこちらを睨んでいる。
二人とも、目も眉も口角も、ぴくりともしない。サトウは冷徹な眼差しで私を射貫くと、一息ついてから、襟を正した。
それから――、徐に語り出した。
「……自己紹介をしておらんだな。私は興亜院の政務部長を務めておる、
――
それどころか――、殿上人であった。
門外漢の私ですら、名を聞いたことがある。
鈴木貞一と言えば、満州事変の辺りで、あの石原莞爾将軍と共に名を馳せた、陸軍軍人である。事変の直後であれば、おそらく小学生でも知っているくらいの有名人だ。
満州事変後、しばらく表に出て来なかったから、長らく忘れ去られた存在となっていた。
しかし最近になって、――それこそ『興亜院』という組織によって――表舞台、しかも政治の中枢に現れた。新聞や雑誌を読んでいたので、簡単な経歴と人物評は、すぐに思い出せた。
陸軍中将、鈴木貞一。
そして興亜院政務部長、鈴木貞一である。
どうして――?
いや、疑問よりも、――慄く。
政府中枢の人間に、殴りかかろうとしていたのだ。
もっと遡れば、平然とやりとりし、情けない姿を晒してしまったこと、その全てが鈴木という存在の前に、強く反動した。
――対支機関、興亜院。
まだ出来て一年も経っていない、時局対応の中心たる政府機関。
私のような市井には、名前しか分からぬ、国の命運を賭けた、一大重要機関。その政務部長――、上から二番目だろうか。
以前雑誌で読んだ時には、でかい事を言う大法螺吹きとまで評されていた。無論、本当かどうかは分からない。
その本人が、目の前にいる。
慄然として鈴木を見つめていたが、俄に意識を取り戻す。
――そうだ、甲斐はどうなったのだ。
「……甲斐さんがいないって、……どういうことだ」
焦燥から、自然と眼に力が入る。
たとえ
鈴木は仏頂面のまま、黙って聞いている。
「そうだな――」
鈴木は、夕闇迫る空を見上げながら、静かに呟いた。
「場所を変えよう。ついて来たまえ」
鈴木は踵を返すと、私の通勤路の通りと逆方向に向かって歩き出した。
慌てて追いかけようとしたが、落とした物を慌てて拾う。
――地面に墜ちた金平糖と、革鞄。
未練がましく、望月書店を何度も振り返ってしまう。
「……早くしたまえ」
曲がり角を曲がると、大きな車があった。
艶やかな黒、世をしろしめすかのような鏡面の如きホイール。宮様か株屋しか乗れない高級車の代名詞。黒塗りのパッカード――。
目を見開いて驚くが、鈴木と付き人は当たり前のように乗り込む。
乗り込む間際、鈴木が顎で後部座席を指した。
「乗りたまえ」
――高級な尋問部屋。
初めて触る高級車に、僅かに動揺しながらも、綺麗に磨かれたパッカードのドアに手を掛け、後部座席に乗り込んだ。
――車の中は、恐ろしく静かであった。
街の喧騒など、全く聞こえない。
生まれてこの方、座ったことがないくらい柔らかいシート。体が俄に沈み込んだ。
大きすぎる車体、広すぎる車内。沈静な車中に、知らない男が三人、沈痛な面持ちで座った。
「さて、――何から話したものか」
――思案。中空を漫然と見つめている。
耐えがたい沈黙。数秒もせず、鈴木は熟考しているような仕草をしながら、静かに語り始めた。
「そうだな。遡ると、もう三年前だな」
――
それは、奇妙な患者の問い合わせ。
文字が胸に浮かぶ、奇病。
書かれていることは、荒唐無稽。
浮かんでは消える、記事――。
「彼は
甲斐の言っていた、
医師が照会した先に、鈴木がいたのだという。
「興味が湧いたよ。聞かされた情報は、明らかに
軍機――、軍事機密。
一市井の――召集されたこともない私には、どんなものか、全く分からない。だが、甲斐と見たあの記事達は、少なくとも現実でない情報が多々書かれていた。それはつまり、軍機のようなものも、あったと。
一体全体、どういうことか――。鈴木はそれを確かめるため、すぐに望月書店に医院に向かったという。
そして医師から事の次第を聞く。
「長田という男が、行方不明になった。そして残された女性が一人いる」
甲斐のことだ――。
それから、書店を訪ねた。
「最初、彼女は訝しんでいたが――、話をしてくれたよ。長田のこと、そして長田と同じように、胸に記事が浮かぶことを」
「甲斐さんが、……初対面のあなたに……?」
ぎろりと、鈴木の目が私に刺さる。
射貫く、鋭く、不動明王の眼だ。
「無論、すんなりとはいかん。だから、菊のご紋の威を借りたのは、否定せん」
脅し――、か。
「幸い、事情を把握した甲斐さんに、私は持ちかけたのだ」
――この情報を、買い取らせて貰えないか。
――新聞や本などより、遥かに高い額で購入する。
――お互い、他言無用にする。
長田が消え、不安と惑乱の渦中。甲斐は、きっと、いや、今この状況が示すように、鈴木と契約をしたのだろう。
「あの、胸の記事を写して……ですか」
「そうだ。我々、いや、私は喉から手が出るほど欲しかった」
随分と、臆面もなく口にする。
やはり、
「甲斐さんから、ある程度のことは君も聞いているだろう。これらの記事は、荒唐無稽なものもあるが、現実の世界よりも技術、社会制度が進んでいる情報や、本来なら知り得ないことが、
――それは、閻魔帳。
異なる現実が辿った、足跡。
今のこの現実と似て非なる、写し絵。
「軍機に収まらない。値千金、情報の宝庫。政治、経済、軍事、文化――。様々な人、言葉、意志――。数は少ないながら、得られる質は高い。これはただの荒唐無稽な文章ではないのだ」
――その視点はなかった。
鈴木は軍人である。詳しい軍歴は思い出せないが、陸軍少将、そして中央機関のお偉方だ。この新聞を見る目が、そもそも市井とは違うのだ。
私には、ただ面白くて不気味な記事でしかなかった。ロケットも、ハチ公も確かに興味深い話であった。ニュークの記事だけは、恐ろしくて恐ろしくて、胃が縮んだが――。
鈴木はこういう新聞から、進んだ科学技術や情報を知り、自身の陸軍での活動に活かすつもりなのだろう。
甲斐の不安が、上手く鈴木に利用されている事が、無性に悲しくなった。しかし、そんな感情など全く伝わっていないのか、鈴木は得々と語り続ける。
「もし万が一でも、書かれている情報が知られれば、分かる人間が見たら何かに感づくだろう。私のように。だから、無闇矢鱈に人目に触れさせる訳にはいかんのだ」
――余計な誤解を招く。
誤解を覚えるのは、市井か、軍人か、スパイか。
もし私が見たら、その文脈なるものを想像してなかったら、――ただの珍妙奇天烈な怪文書で終わっていたはずだ。
それでも、この記事は手元に置いておきたい。
鈴木は、さも当たり前のように、聞きたくない事実を吐露した。
「だから、良からぬ者が近づかないように、この店には監視を付けさせてもらったよ」
――俄に、車内が静寂に沈む。
鈴木は目を瞑り、私は靄を吐き出すように、溜息をついた。
軍人としては当たり前。だが市井としては、気が重い話。
――自分も軍から目を付けられていた。
その事実が、首を擡げた。
「この三年、九州への異動や、部下の異動もあった。だから、書店監視と記事の購入のため、複数名の部下が代わる代わる、定期的に通うことになった」
――そうか。
――それだったのか。
「それじゃあ、あの噂は監視の――」
「噂?」
鈴木が、片眉をつり上げた。
死んだことにされた夫。
現れては消えてゆく男達。
望月書店の女店主は食わせ者。
その事を聞くと、鈴木は僅かに口を
「――あぁ、その話なら既に解決済みだよ」
確かに、そういう
鈴木は流し目で車外の風景を眺めながら、にべもなく答えた。
「そんな噂は、疾うの昔に消えているのだよ。それこそ、部下が通い始めて、最初の内はそういう話もあったようだ。だが、甲斐さんや医師に尋ねたが、ご近所付き合いは良好だ。それに、書店への往来を、黒葉に一本化した半年前には、もうそんな話はなくなっておったよ」
鈴木は、訝しげに尋ねた。
「――いったい、誰から、いつの噂話を聞いたのかね」
――あいつ。
あのハンサム髭面野郎の顔が、憎々しく浮かぶ。
近所の若奥様から聞いた噂。
確かに
よく考えれば、甲斐の父が主宰した寄合以来の常連が、今でも買いに来るとも言っていた。
女主人が食わせ者の噂がずっと続いていたら、昔馴染みがそんなに通う訳もない。
――言われてみれば、当たり前なのだ。
悪い噂が一時的に立っていたとしても、それは過去の話。怪しい書店であるという噂は、既にないのだ。
「ははぁ。さては彼女に嫉妬したのだな、ご婦人達は」
――彼女が美しいから。
本当にそうなのかは分からない。でも、そうだと思いたい。
あるいは、話を聞いた渡辺のハンサム面が、若奥様達の嫉妬に火を付け、
「まぁいい。話を戻そう。私は異動で中々会えなくなったが、偶に寄ることは出来た。だが、私は私で色々と表に出る可能性があったからな。もう一つだけ、約束をさせてもらった」
何もなく、出世しただけであれば、問題はなかった。だが、記事の存在がそれを難しくさせた。
記事という『機密情報』を扱う場所。そこで政府重役、陸軍のエリートが本名を名乗る。それは素人目に見ても、危うい行為。
一事が万事である――。
だから、甲斐と鈴木の間では、記事の他に、他愛もない、もう一つの約束が交わされていた。
「私のことは『サトウ』という偽名で呼ぶこと。――どうだ。簡単だが、効果的だったろう」
得意げに話す鈴木。
無性に唾でも掛けたくなったが、――確かに効果的であった。
名前も、地位も知っているのに、自己紹介されるまで、ちっとも気づかなかった。
自然に、甲斐がサトウと呼べば、鈴木はサトウになっていた。
「――そして、仕事終わりの君と、初めて会った訳だな」
仏頂面の鈴木――。
冗談も通じない、
今から思えば、あからさまな敵意であったのだろう。『機密情報』の供給源である書店に通う、年頃の男。
渡辺ですら、未亡人に恋慕した愚か者であると
――だからこそ、排除されたのだろう。
俄に背筋が寒くなった。あの召集は、その為か。それとも、本当に偶然だったか。
恐ろしくて確認出来ないが、きっとそうなのだろう。そして、それを撤回するように働きかけたのは、――甲斐なのだろうか。
あぁ、そうだ。
甲斐はどうなったのか――。
問い質さねばならないのは、その一点なのだ――。
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