第20話 役目
「甲斐さんは、……何も残していなかったんですか」
鈴木は即答しなかった。それは何かを隠しているというより、言うのが憚られることによって、
「君に謝ることではないが……」
――書店に立ち入らせてもらった。
鈴木は、僅かに遠慮するように言った。
手紙が届いた翌日の夜、つまり昨日の夜中、鈴木は部下を伴って、望月書店を訪れたという。時計の針は既に九時を回っていたが、その時には、既に『閉店』の張り紙がされていたという。
昨日の夕方には、『定休日』の看板があることを確認しているから、昨日の夜六時から九時の間までは、甲斐は書店にいたことになる。勝手口には、鍵も掛かっていなかったため、あっさりと望月書店に侵入できた――。
「夜逃げや誘拐の類いではない。荒らされた痕跡もなく、物は残っておった。寧ろ、綺麗に人だけがいなくなった、そんな具合だった」
その後、家中探したが、彼女は見つからなかった。
「きっと彼女は、本当に消えてしまったのだろう」
俄に
その言葉に、私の胸が、痛む。
――無念である。
甲斐は、沢山のものを残してくれた。
淡い思い出ばかりではない。甲斐は、自分を助けてくれた。甲斐は、この情けない男の命を残してくれたのだ。
それなのに、私は甲斐に、何も残せなかった。思い人へ、それらしいことを、一つも出来なかった。
いなくなってしまった甲斐を思えば思うほど――、
手の力がすっと抜け、持っていた金平糖が、カラリと音を立てた。
鈴木は徐に懐から煙草を取り出し、手慣れた様子で
紫煙が揺らぎ、ツンと鼻についた。
「――惚れていたのかね」
――あぁ、そうだよ。
不遜な言葉が浮かぶ。
だが、口から溢れ出る力もなく、飲み込む必要もなかった。腹の中で、形にならない忌み言葉が、ぐるりぐるりと、のたうち回る。
俄に覚え立つ、
だが、甲斐は、消えてしまった――。
その事実が、過去の憧憬を、全てモノクロームに染め上げる。
それでも、惚れていた事実は素直に肯定したい。
静かに、ゆっくりと、噛みしめるように首肯した。
鈴木は煙を大きく吸い込み、嘆息混じりに吐きだした。
「私が言うのもあれだが……」
鈴木が、微かに言い淀む。
「君は甲斐さんの事を、全く分かっていなかったようだね」
――思いがけない一言。
ゆっくりと顔を上げ、激しい憎悪の念と共に、
鈴木は、私の形相など一瞥もせず、目を瞑ったまま煙を燻らせた。
「
嗚呼――、そうだった。私の憎悪は、瞬く間に後悔へと転化し、腹中の忌み言葉は散逸して、俄に消滅した。
自分で、言った通りではないか。彼女は貞女だったのだ。
甲斐は、契りを結んだ長田を、只管に愛していた――。
二人の間に付け入る隙など、元より一辺もなかいのに、私は唯一人浮かれ、あわよくば添い遂げたいという妄念に、勝手に身を焦がしていただけなのだ。
――他者の頭の中身なんて、分かる訳ない。
自然と涙が零れ、頬を、喉を伝う。声を上げぬよう、息を整えながら、消えた甲斐を想うばかり。
すると、鈴木は座席の灰皿を引き出し、吸いかけの煙草を揉み消した。出し抜けに鈴木が尋ねる。
「甲斐さんが、君のことをどう思ってたか、知りたいかね」
涙が――、ぴたりと止まった。
無意識に、首が、のそりと鈴木の方を向いた。
鈴木は目を合わせない。鈴木は、右脇に置いていた鞄の中から、静かに一つの封筒を取り出した。
「私に送られてきた手紙は、二通あった」
その手に持っているのは――。
「これは、甲斐さんから君への手紙だ」
――甲斐は、遺したのだ。
「未開封だ。中身は読んでおらん。軍機に関わることが書かれているかも知れぬから、今ここで読んでもらう」
鈴木がお構いなしに不躾なことを言う。
本当に未開封かどうかは分からなかったが、鈴木の口振りからしても、読んでいないのだろう。鈴木への手紙は、謝意と謝罪を書き綴りながらも、同時に、彼に説明役という役目を押しつけた。
では、自分には何を――。
衝動的に、封筒を受け取ろうと手を伸ばしたが、鈴木に手で遮られた。
「その前に、だ」
――確認すべき事がある。
鈴木の声色は露骨に変わり、それまでと打って変わって、厳粛な脅しのそれである。
「甲斐さんが、
既に心此処にあらず――。すぐにでも手紙が見たいのだが、鈴木が意地悪のように脅す。今答えなければ、永遠に甲斐の想いが分からない。鈴木の脅しより、甲斐の想いが葬られることの方が、怖い。
だから、必死に思い出した。返す返す、思い出されるのは、甲斐の美しい笑顔と、世相への嘆息であったが、印象に残ったあの手の震え。
――そう、あれだ。
甲斐が、恐怖に震えていたあの記事。
「もうご存じかもしれませんが、僕が覚えているのは……」
――帝都にニュークが投下された記事。
ウラン原子核の分裂を用いた、超威力の爆弾。恐ろしい紫外線、熱線、爆風、瓦礫と化した都市。
京都、帝都と投下され、惨憺たる有様であった旨を、たじろぎながら説明した。
話を聞きながら、鈴木の表情が戦慄していくのが分かった。
想像もつかないが、軍の中枢で様々な機密情報を取り扱っている男である。自分の足りない説明でも、十分にその恐怖を理解してくれたのだろう。
一通り説明を終えると、今度は鈴木が頭を垂れた。
礼のそれではない。
垂れた頭を僅かに戻し、静かに礼を言った。同時に、鈴木の独り言が漏れた。
「……ありがとう。そうか、何が
決戦兵器――? その言葉に引っかかったが、鈴木は「いや何でもない」とお茶を濁した。私の与り知らぬ、何かを酌み取ってしまったのだろう。露骨に、鈴木が意気消沈していた。
「……済まない事をしたな。これは君に渡す」
数瞬の沈黙の後、鈴木は平常心を取り戻したように、封筒を渡してくれた。
封筒は、――厚くもなく、薄くもない。
一体、何が書かれているのか。
一体、私に、何を遺したのか。
好奇、哀切、希望――、それらを全て上塗りする不安が、私の手を震えさせる。
――中には便箋が、二枚。
文字が、やや荒れている。
以前一緒に見た、甲斐のノートとは違い、明らかに走り書きに近い。ただ、それでも筆の運びは女性のように見えた。
拝啓やら、文頭の挨拶もない。
それは、――謝罪。
【――新井様へ
何から申し上げて良いか分からぬ
今、まさしく、その場にいる。
【――私は嘘をついて居りました。新井さんが仰つた二人だけの祕密。それは最初から、二人だけではなかつたのです】
大事な大事な約束は、嘘。
私と貴女は、二人だけではなかった。
だが、……責める気には、更々なれない。
【――鈴木様との遣り取りのお話は、お聞き及びと思ひます。今此処で全てを記すには、時間がありません】
何の時間がないのか。
【――數日前から、誰彼とも知り得ない言葉が、觀よ、観よ、囁くのです。違ふ現實を、觀て定めよと言ふのです。それから、もうすぐ役目がもう終わる、とも】
お釈迦様の声が、甲斐にも届いたようだ。本当に、お釈迦様かどうかなんて、分からない。
でも、声が我々に観させるために、記事を浮かべたのだろう。
【――役目を終へたら、きつと消えてしまふのでせう。長田さんのやうに。ですが、ご安心ください。私は死ぬ譯ではありません】
死ぬ訳もなく、消えるのは、どういうことか。
【――分かるのです。ただ消える譯でもなく、次の現實へ招かれてゐるのです。きつと長田さんも同じ感覺に襲はれていたのでせう。少しずつ、意識や感覺が薄皮一枚ずつ離れて行くやうな感覺です。体の不調は、きつとそれに由來してゐるのでせう。だから、これは何れ來る必然だつたのです。ですが、新井さん、貴方にだけは傳へなければなりません。私の氣持ちを】
来るべき、必然。迎えるべき、運命。
荒唐無稽な現実を観て、苦しみ、嘆き、この現実とやらを確定させる為に消えるのが、
――そんな役割のために。
あぁ、腹の虫が治まらない。
怒りが、ふつふつと腹中から涌き上がる。ぐらぐらと、気持ち悪い。
「……どうして、甲斐なんだよ」
他者を見ることで、己が定まるのなら、別に甲斐でなくても良いはずなのだ。記事を見た鈴木でも、いや、私でも良かったはずだ。甲斐がそんな役割を負って消えるくらいなら――。
胸が、俄に熱くなる。
【――私は貴男を振り囘してしまつた。貴男の優しさに何度救はれたか、それは本當なのです。貴男が好きと言つてくれたことが、私には心から嬉しくて、心から悲しかつたのです。私はすぐに消へてしまふ。もう會へません】
苦しい。言葉が、胸を締め付ける。甲斐の想いが、私の想いが、胸中で激しく火花を散らしながら、ぶつかり合い、刻みつけあう。
【――でも、もし、】
息が、詰まる。
【――私を愛してくださるなら、】
鈍く、胸が痛む。熱く、嗄れた叫びが、胸の中で一挙に蠢き出す。
【――
「――う、うぅぅ!」
熱い! ――熱い!
燃えるように! 胸が!
苦しい――! 痛い――! 焼き鏝を押しつけられたように、胸が熱い――!
――嗚呼!
お釈迦様は……、
――己の胸を、見下ろす。
そこには――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます