25 バーの一夜
私が向かったのは、いつかアダムと行ったショットバーだった。時刻は夜の一時。クリスマス・イブは終わっていた。今頃サンタがプレゼントを配っているのだろうか。父が生きていた頃は、まだ私と夕貴にもサンタが来た。
店内に入ると、お客は私一人だけだった。前と同じ男性のマスターが、カウンター席を勧めてくれた。
「いらっしゃいませ。また、来ていただけたんですね」
「私のこと、覚えてるんすか?」
「ええ。背の高い男性とご一緒でしたよね?」
「はい……」
今夜もギネスを注文した。控えめに流れるジャズが、その場を満たしていた。私はハイライトに火をつけた。父との数少ない繋がりの一つ。夕貴もこれを吸っていた。まだ二人とも十代だったというのに。
「お疲れのようですね」
マスターは私に声をかけた。溺れて失神して入院していたのだ。命があるのが不思議だった。きっと、渚がどうにか助けてくれたのだろう。
「まあ、仕事で色々ありまして」
そう濁した。マスターは、小皿に入った生チョコレートを差し出してくれた。ヒイラギの飾りが刺さっていた。
「今夜はクリスマスですから」
「そうですね。素敵っす」
私の頭には、アダムの叫び声がしつこく残っていた。
「そんなに僕が信頼できませんか!?」
違う。違うんだアダム。お前だからこそ、話したくないんだ。全てを話せば、きっと嫌われてしまうから。だから離れたいんだ。もう、私のことなど忘れてほしいんだ。飼い猫が逃げ出したことにして、野良に帰ったのだとでも思ってもらいたいんだ。
私はカウンターに肘をつき、顔を両手で包んだ。灰皿に置かれたままのタバコが、一筋の煙を出していた。マスターはグラスを拭いていて、なるべく私の方を見ないようにしてくれているようだった。
生チョコレートをつまんだ。甘いだけではなく、苦味もあった。とろり、と舌の上でとろけるそれを、丹念に飲み込んだ。
「美味しい……」
「喜んでいただけましたか。甘いものはお好きですか?」
「はい、大好きっす」
「では、ブッシュドノエルもいかがですか? お客様に差し入れて頂いたのですが、余ってしまって」
一旦マスターはバックヤードに行き、丸太の形をしたケーキを切り分けて、皿に乗せてくれた。懐かしい。まだ家族四人が揃っていた頃、クリスマスケーキを囲んで食べたのだった。マスターが言った。
「今夜はお一人なんですね」
「あいつとは、ちょっと、ケンカのようなものをしまして。一緒に住んでいるんですけどね。もう帰ることはないと思います」
「なんでまた……」
「私、記憶喪失だったんすよ」
まだ会って二回目だというのに、私はマスターに身の上話を始めた。彼なら聞いてくれる気がしたのだ。アダムとはパートナーだったということ。この三年間、公私共に世話をしてくれたということ。私が合成麻薬を売っていたということ。それらをスラスラと話した。マスターは時折相槌を打ち、最後まで私の話を聞いてくれた。
「だからもう、帰れないんです。あいつのところへは」
「わたしは、もう一度きちんとお話しをされた方がいいと思いますよ。帰りを待って下さっているのでしょう?」
「でも……こわいんです。本当の私を知られるのが」
話している間に、ビールが尽きた。私はハイボールを注文した。それが運ばれてきて、私は呟いた。
「信頼って、何ですかね」
にっこりと微笑んで、マスターは言った。
「信じて頼ること。そのままの意味ですよ」
「頼る、っすか。私はあいつに頼ってばっかりでした」
「わたしも、お客様に頼ってばかりですよ。この店が二十年続いているのも、お客様のお陰です。この歳になっても、お客様から学ぶことが多いんですよ」
ハイボールをちびりと飲んだ。さすがプロの作るお酒だ。旨い。マスターは続けた。
「彼はきっと、あなたにどんな過去があっても、受け止める覚悟があったはずですよ。全てのことは話さなくてもいいんです。ゆっくり、彼との時間を作って下さい。あなたはまだお若い。もう一度、信頼を積み上げるには、十分な時間がありますよ」
「そうっすか……」
私は壁掛け時計を見た。夜の二時を過ぎていた。
「もう、閉める頃っすよね?」
「構いませんよ。まだ、帰る決心がつかないのでしょう? 朝まで開けておきますよ」
その言葉に甘え、私はもう一杯、ハイボールを注文した。酔いが回ってきたが、目は冴えていた。今頃、機動隊のみんなはどうしているだろう。病院を抜け出した私のことを心配してくれているのだろうか。それとも、呆れているのだろうか。
私はスマートフォンの電源を入れた。おびただしい数の着信履歴があった。機動隊のメンバー全員からだ。つうっと涙が頬を伝った。渚から、メッセージも来ていた。
「どこに居るの? 早く連絡して。あのゴールデンなら、アダムが不活性化して確保した。すぐに助けてやれずにごめん」
涙で画面が見えなくなった。私はごしごしと目を拭いた。マスターが、新しいおしぼりを渡してくれた。帰りたい。やっぱり私は帰りたい。みんなの元へ。そして、アダムの待つ家へ。
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