26 ユキの帰宅

 朝の五時頃に、私はショットバーを出た。カアカアとカラスが鳴いていた。朝日はまだ昇っておらず、薄暗い路地を私は歩いた。

 あれから、マスターと色々な話をした。アダムの料理が美味しいということ。いつまでも子供扱いしてくるということ。でもそれが嫌ではないということ。

 マスターの身の上話も聞いた。彼は離婚して、二人のお子さんとは離れて暮らしているらしい。年に一度、誕生日のときだけは、会いにいくのだとか。

 そう、私は、自分の誕生日も思い出した。十月四日だ。今年で私は二十三歳になっていた。

 始発電車に乗り、私は家へと辿り着いた。カギは持っていなかったので、インターホンを押した。ガチャリと扉が開く音がした。


「ユキ!」


 玄関に入るなり、アダムが私をきつく抱き締めてきた。彼からも酒とタバコの匂いがした。私は背中に手を回し、きゅっとしがみついた。

 リビングに入ると、ローテーブルの上の灰皿には、タバコの吸い殻が積もっていたのが見えた。アダムは夜通し起きていたのだろうか。そういえば、彼の目の下にくまができていた。肌の色が白いから、すぐにわかった。


「疲れたでしょう。今すぐ何か話してくれとは言いません。まずは休んで下さい」

「じゃあ、アダムのベッドで寝る」

「いいですよ」


 私たちはぴったりと身を寄せあって眠った。

 夕方頃、目を覚ますと、アダムが居なかった。私は家中を探した。リビングにも、キッチンにも、私の部屋にも、風呂場にも居ない。よく見ると、ローテーブルの上の灰皿はキレイに片付けられていた。私はソファに座り、タバコに火をつけた。ほどなくして、アダムが帰ってきた。


「おい、どこ行ってたんだよ」

「買い出しです。クリームシチュー、一緒に作りましょう?」


 キッチンに立ち、私はジャガイモを剥きだした。やっぱり難しい。芽というのが、どのくらい取ればいいのかわからない。でも、残っていたら身体に悪いらしいから、と私は深めにジャガイモをえぐった。ボコボコになってしまった。


「うわっ、やべぇことになった」

「煮込めばわかりませんよ。さあ、一口大に切りましょう」


 私は包丁を持った。指が切れるのがこわくて、結局アダムにやってもらった。


「こういうのは慣れですからね。僕も初めはこわかったです」

「能力発動させながらじゃダメかな?」

「あまり無駄なことに使わないで下さい」


 私とアダムは顔を見合わせて笑った。出来上がったクリームシチューは、徹也と作ったときよりも何倍も美味しかった。食べ終わり、私は聞いた。


「そうだ。隊長に連絡……」

「もうしてありますよ。ごっそり休みを頂きました。任務があれば呼び出されるでしょうが、お正月明けまで行かなくても大丈夫ですよ」


 私たちはソファに座った。もう酒は要らなかった。私はアダムの瞳を見ながら、まずはこう言った。


「私の本当の名前は紗也。大竹紗也」

「では、これからは紗也、とお呼びした方がいいですか?」

「いいや、ユキでいい。今はそっちの方がしっくりくるんだ」


 すっとアダムの手を握った。暖かな手だった。


「双子の弟が居たんだ。名前は夕貴。右肩のタトゥーは、弟の名前だったんだ。夕貴には、sayaのタトゥーが入っていた。互いの事を忘れないように入れたものだ。まあ、すっかり忘れちまってたんだけどな」


 ふうっ、と息をつき、私は続けた。


「あの日、私と夕貴は海で溺れさせられた。夕貴はきっと死んだ。多分そのショックで、記憶を失ったんだと思う」

「そうでしたか……」

「思い出したきっかけも、溺れたからだ。あのゴールデンは、アダムがやってくれたんだよな?」

「はい。すんでのところで間に合いました。でも、僕はあのとき、ユキを失ったと思いました。呼吸が止まっていましたからね」


 それから、私は徹也の応急処置を受け、病院に搬送されたのだという。そこまで話して、アダムは一度立ち上がり、自分の財布からリングを取り出すと、私の左手の薬指にはめた。


「これが置かれていたときはぎょっとしましたよ」

「もう、外さねぇからな」

「はい」


 ぎゅっと拳を握りしめ、私はリングを見つめた。


「他にもたくさん、話さなきゃならねぇことはある。でも、それは、機動隊のみんなにも聞いて欲しいんだ」

「わかりました。明後日、忘年会なんです。その席で話すのはいかがですか?」

「うん、そうしよう。アダム。お前を信頼してねぇわけじゃないんだが、話の続きはそのときまで待っててくれねぇか?」

「僕たちは三年間待ちました。あと数日くらい、どうってことないですよ」


 ふと思いついて、私はパチリと指を鳴らした。


「そうだアダム。髪、切ってくれねぇか? 短めで頼む」

「わかりました」


 そうして私は、アダムに髪を切られた。はらり、はらり、と束が落ちるたび、胸につかえていたものも消えていくような気がした。

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