第二章 青常 木曜日
5 木曜日
約八時間を要した睡眠も虚しく、正常に機能したアラームの音と格闘しながら木曜の朝を迎えた。間違いなくここ一週間で最も辛い瞬間が今だ。しかし昨日までの満悦の貯金を使い、なんとか二度寝の波を掻き分けることができた。たぶん三週間ぶりだ。その勢いでベッドを後にし、リビングへ向かった。
食パンをトーストしている間、寝る直前のことを思い出した。起きた直後からダラダラしないように真っ直ぐリビングまで来たので、最後にスマートフォンを見たのは、昨日の21時50分くらいまで
このとき、若干の期待が湧いた。もしかしたら僕がサークルを去ろうとしていることを察し、五、六人で「また来いよ」的なメッセージをくれているのではないかと。
しかし蓋を開けてみれば、該当者は西井一人だった。しかも内容は「またサボったのかよ」「さすがに連絡ぐらいはしとけ」という、感嘆符すらない冷淡な警告だった。だがそれ以上のことを予定している僕にとって、それは見当違いな
残りは近藤からだった。昨日の電話も近藤からのものであり、通話を諦めた近藤は複数に分けて事情を説明していた。その結果が、あの膨大なメッセージ量だった。
内容は次の通りだ。
「風間さん起きてます?」
「寝てたらすいません」
「ちょっと大変なことになったっぽくて」
「店長がなんかやらかしたらしくて、僕もさっきまで話聞かれてたんですけど」
「たぶん直接話した方が早いんで、気付いたら連絡ください」
「とりあえず明日は休みになると思います」
計六件のメッセージは抽象的だったが、非常事態感は満載だった。それは昨日の緊急電話の連続が、下らない大学生のノリと勘違いするほどのしつこさを帯びていたことからもわかるだろう。人は焦ったとき、最初に取った行動に根拠なく
トーストを食べながら「どうした?」と返信し、その先を待った。いくら高校生とはいえ、昨日遅くまで起きていたであろう近藤から、この早い時間に即座に返信が来ることは期待していなかったので、テレビに目を移そうとしていた。
しかし三十秒後、
「ういっす。おはよう」
「あーおはようっす、風間さん。昨日寝てたんすか?」
「ちょうど寝ようとしてたときにかかってきて、
「いや出ろし。てかなんでそんな早い時間に寝てんすか」
いつもの掛け合いで数秒を消費した後、近藤の声は本題のトーンへと変わった。
「昨日ヤバかったんすよ。店に警察来て、そのまま店長しょっ引いていって」
「え? 大事件じゃん。なんで?」
「詳しいことはわかんないっすけど、たぶん、内井さんに手出したっぽいんすよね」
「……え? どうゆうこと?」
「いや、具体的に何があったとかはわかんないっすけど、昨日シフト俺と内井さんだったじゃないっすか。確か18時くらいに内井さんが店長に呼び出されたんすよ。そしたらちょっと経った後に裏から内井さんの悲鳴聞こえて、それで警察呼んだっぽくて、さっき言った感じになった感じです」
頭が真っ白になった。そのあと最初に襲われた感覚は、喜怒哀楽ではなく、信じられないという驚愕だった。
あの何とも平穏な、武蔵浦和の駅から徒歩四、五分の場所にあるカラオケ店でそんなショッキングな事件が起こるだなんて、誰が想像できただろうか。客層も比較的良く、半年前に僕が入ってからは酒に酔った一部の大学生以外、ほとんどトラブルもなかった。それが内部の、それも店長からアルバイトという上下関係の間で起こった完全なセクハラ事件という事実に、朝から心臓が激しく鼓動していた。
衝撃の
「それで、そのあと内井さんはどうしたの?」
「警察来た後すぐは店内で事情説明とかしてたっぽいんすけど、三十分くらいで別のとこに移動したっぽいです」
「近藤はどうしてた?」
「俺と浦野さんはずっと取り調べみたいの受けてました。なんか店長のパソコンから盗撮画像とか色々出てきたらしくて、今まで店長に不審なこととかなかったか、みたいな感じで。俺は22時で帰してもらったんすけど、浦野さんはそのまま残されてました」
「え? そんなに訊かれることあったんだ」
「はい。結構細かいことまで訊かれたんすよ。調べてるうちに部屋にも隠しカメラとか出てきたらしくて、その度に誰の犯行か調べるためにどんどん訊くこと増えてるって、警察の人が言ってましたよ。後日また訊くって言われたんで、もしかしたら風間さんのとこにも連絡来るかもしれないっす」
いつの間にか、話の本筋が自分たちの元に逸れてしまった。だが
「内井さんに、連絡とかしてみた?」
「いやー、さすがにできないっすよ。たぶんしても見れないと思いますし。当たり前ですけど、内井さん、相当ショック受けてた感じでした」
「もしかしたら、もう俺たちにも会いたくないかもな」
その言葉が最も突き刺さったのは、紛れもない自分自身だった。なぜこんな言葉が口から出てきたのかは未来
そしてそれを実感できたのは自分に対する言葉だったからという筋道は、これ以上ない皮肉に他ならない。こうやって物事は、大抵
「店長が最近やけにパソコンに没頭してたことは、結構しつこく訊かれましたよ」
その後の会話はほとんど憶えていないが、近藤のこの証言だけは心に突き刺さった。
同時に、運命というものを教科書にできるほど、深く痛感した瞬間だった。
「じゃ、俺風間さんと違って学校あるんで、そろそろ失礼します。電話は厳しいんで、なんかあったらラインしてください。てかラインします」
「俺もあるわボケ」
無理やりにでもいつものやり取りで締めようとするあたり、彼も動揺しているのだろう。生涯の逸話になり得る事象が目の前で起き、それが二十四時間すら経過していない今では、まだ現実を直視できない状態だろう。
だが、彼の動揺の根拠はそれだけではない。これは自分にも大いに当て
それだけ僕らにとって彼女が特別で、崇高で、生きがいを形成するほどかけがえのない存在だったということだ。店長に対する怒りや憎しみを忘れるほど、哀情に心が支配されている。言うべきことではないとわかっているが、こうなるなら、日曜日に無理にでもシフトに出るべきだった。彼女の最後の姿を焼き付けるには、一週間は酷く長いブランクである。
学校に行き授業には出たが、内容は全く頭に入ってこない。そもそも、見当外れな傷心を抑えて無理に授業に出たのも、落単までリーチがかかっていた出席を満たすためだけである。最初から傾聴などお門違いだった。
だがともかく、傷心を落ち着かせる暇もなく表に出ざるを得ない状況になったのも、彼女との何気ない最後の会話があんな下らない内容で終わったのも、僕をあんな下らないことを言うに相応しい軽い人間に仕立て上げたのも、元はと言えば、あのサークルに所属していたことが原因である。辞めて正解だったのだろうが、いくら片が付いたものに八つ当たりしても、モヤモヤは消えない。近藤も同じ心境なのかもしれないが、最後の会話をあんな下らないものに終わらせてしまった自分のボンクラさに、
普通に考えれば、勤務中に服が盗まれたなど、真面目に向き合うべき非常事態である。それを久しぶりに二人で話せた矢先の高揚から、余計な破廉恥を生み出してしまったことを、悔やんでも悔やみ切れない。彼女からすればきっと、僕も店長と同じ男の欲望の塊として、今後憎悪の対象になるだろう。不可能なのはわかっているが、もしまだ僕の声が届くのなら、あの会話の謝罪、ひいては近藤を巻き込んだことへの自責の念を伝えられれば、この上ない所望である。
とにかく今は、そんな権利などないが、彼女の無事と平穏が戻る日が来ることを願っている。
昼休み、スマートフォンは内井さんとのトーク画面を映し出していたが、文字を打つ勇気すらない。打とうと思っても、一言目は一向に浮かばない。どんな言葉を送ったとしても、一度も見たことがない彼女の蔑んだ視線のイメージがそれを無効化し、彼女の心を余計に閉ざしてしまうという幻想に駆られる。彼女はそんな偏屈とはかけ離れた、透明な心を持っていると誰よりも理解しているのに。
そうしているうちに、店のグループラインにて社員の人が、緊急事態により本日から数日間休業する、詳細は後日伝える、という簡素なメッセージを伝えた。これにて今日のバイトが休みになったことが確定し、木曜日が週で一番忙しい日になっている要因の半分が除去された。
だが、精神的にはいつもの木曜日よりよっぽど重い。バイトをサボった罪悪感より、なんなら遅刻しまくった上に廃棄の食品を食べたことがバレてクビになった方がよっぽどマシである。それが結果だったなら、笑い話のタネにして、少しの間主役になれる。
しかしそれが出来た環境は、もう、この手の中にはない。生活を
そんな現実逃避に
教室を出ると、こんなときに限ってやけに風の肌触りが優しかった。気温も二十二度ほどで、半袖か長袖かを
それは、人を奮い立たせるにも、ダメにするにも、どちらの条件も揃っている昼下がりである。こんな最高な一時に外に出ていない人間は、心底もったいないとさえ感じた。今方室内で作業している才気溢れる詩人と場所を入れ替わり、是非この風情を言語化してほしいものだ。いや、言語化すること自体陳腐になってしまうほどかもしれない。とにかく誰かとこの感覚を共有したい。
そうして真っ先に頭に浮かんだのは、内井さんの他はあり得なかった。
結局、近藤からのラインは来ず、自分からも送らなかった。
16時45分頃、武蔵浦和の駅周辺に目立つ人だかりはない。立ち寄ってみた店には危険を示す看板などはなく、本日より休業しますと書かれた紙が貼りつけられたシャッターが、無表情に閉められていただけだった。殺人事件でもないのだから当然と言えば当然である。心の底では、横から近藤が突然現れ、話しかけてほしかった。整理するブランクも必要だが、整理したものの
だが僕に吐き出す権利はない。五秒だけ立ち止まり、閉店の張り紙を不思議そうに見ている高校生たちを余所に住宅街へ向かっていった。すれ違う
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