終章 17時半
2 17時半
「敬斗、あのさ、」
「……え? ごめん、なに?」
「……、なんでもない」
今日、これが何度目の光景だろうか。
女の呼びかけに男はまるで上の空で、結局女は提案を取り下げる。と言うより、男の上の空に、女は付け入る隙がない。
その原因ははっきりしている。背後から大きな音を立てて二人に忍び寄る
「……いいよ、言いなって」
「……、いい。ホントになんでもないから」
今日、何度も言いかけたその言葉は、親のいる空間で誤って破廉恥なサイトを開いてしまったときのように、一瞬で消去ボタンがクリックされる。それを言った瞬間、壊れたものが、完全に失われる。バラバラになった破片が、次なる者の下へ行き、なかったことにされる。
しかしそれを言葉にしなければ、バラバラでも、修復の余地がある。いくら冷え切った青い線でも、それが線として繋がっていれば、以前のような赤に染められる、そう女は信じていた。
だから、彼女は耐えた。知らないふりをした。
その中で、自分を変えた。我々を飲み込もうとする紅に
「公園とか、行ってみる?」
「いいよ、行かなくて。敬斗、疲れてるでしょ?」
男は、違った。
待ち合わせの遅刻もなく、いつものような自分勝手な振る舞いもない。むしろ、不気味なくらい優しい。
その中で、彼女に関心が生まれた。蔑みさえ抱いていた恋人の幻影に、新たなページが加えられた。それは男を惹きつけた。生まれ変わった恋人の魅力に、男は関心を抱いた。
そして気付いた。自分の
「ごめん、特にどこも連れて行けなくて。俺、吉祥寺とか全然わかんないから」
「ううん、無理についてきたの、私だし。それに、私は歩いてるだけでもいい」
二人は心の内で、お互いを向き合い、求め合っていた。
不幸にも、ある共通の前提を携えて。
「ねえ、あれ、なんだろ?」
「寺、じゃね?」
「なんか、すごいね。こんな商店街の真ん中にあるって」
「行ってみる?」
「相手にとって、自分は相応しくない」、それが二人の共通認識だった。
もう私に冷めているのはわかっている。そこに居るべきなのは、私ではない。なぜなら、私は負けたのだから。それでも、彼が好き。彼と一緒に居たい。
俺の知らない彼女がそこにいる。その姿は魅力的だったが、そこに俺は居られない。俺は、最低なことをしてしまった。彼女の魅力を感じる資格すら、俺にはない。
「うん。でも、短めにね。敬斗、もう帰りたいでしょ?」
「いいよ。ゆっくり行こう」
その想いを創り出したのが、赤よりも鮮やかな赤だった。人はその色を、紅と呼んだ。
思いがけず紅は、二人の間にあった深い
だがそれは、もしかすると、全て紅の思惑通りだったのかもしれない。大人から受けてきた傷を他人には見せず、本能の赴くままに欲しいものを欲して生きる彼女は、人に気付かれないように、人を幸せにする。そんな
その先が幸なのか不幸なのかは、神のみぞ知る。しかし紅の瞳には、その先に生まれる隙間がはっきりと映っていた。
「美咲、あのさ、」
「なに? 敬斗」
「……、ごめん。なんでもない」
「……、そっか」
お寺に用事を終えた人々が、次々と彼らの横を通り過ぎる。気が付けば、その空間にいたのは二人だけだった。役目を終えた紅は、夕焼けに同化していった。
「やっぱり、謝んなきゃいけないことが──」
「言わないで」
鳥が鳴く。まるで、二人の沈黙を繋ぐように。
「今が、いい。今のままで。一緒に居られれば、それでいい」
青という色は、時に熱い色として例えられる。
誰かが言った。本当に熱い炎は、青く、静かに燃える。
「……、そっか。じゃあ、もう少しだけ歩こう」
「うん。ありがと」
その炎に、二人は気付かない。それが紅の本当の狙い、なのかもしれない。
「あ」
男が呟いた。
「どうしたの?」
女が尋ねた。
「いや、なんでも、なくはないか。ほら、あれ」
男が空を指差した。
「ん? なんだろう、あれ。紙ヒコーキ?」
「うん。たぶん」
鳥のように優雅に飛んでいるその紙ヒコーキに、男は心当たりがあった。
「すごいね、あんな綺麗に飛んでるの。プロの人が作って飛ばしたりしたのかな?」
「いや、あれはたぶん、普通の紙ヒコーキだよ。飛ばした奴も、俺らとおんなじような奴」
自信満々に答える彼に、女は少し当惑した。
その隙に紙ヒコーキは、高度と速度を維持したまま、二人の頭上を通過した。
言い換えれば、二人はすれ違った。
「あ、行っちゃった」
次の行き先があるかのように、呆気なく二人の元から去っていったその紙ヒコーキを見て、女は寂しくなった。
「本当に、都市伝説みたいだよ」
去っていく紙ヒコーキを遠目に眺める男は、
「え? 都市伝説?」
「なんでもない。本当に」
二人で飛んでいった空を見る。
まるで紙ヒコーキに宿った鳥と会話しているように、二人の心は青かった。
青く、澄んでいた。
「敬斗」
差し出された手を、男はしっかりと握り締める。
二人の線は、冷え切った深い青などではない。それは確かに、熱を帯びた燃える青だった。
「そろそろ、帰ろっか」
「いや、もうちょっと、一緒に居よう」
そのまま歩き出す。どこまでも、どこまでも。
青く染まった日常が、再び虹を描き出すまで。
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