第三章 赤常 月曜日
2 月曜日
季節相応の程よい光が差し込む部屋に、お気に入りの曲が鳴り響いた。
だが正直、お気に入りの曲を早起きの日のアラームにするのはやめようと思う。その曲を聴くたびに、それが昼であっても夜であっても、カラオケ中であっても、旅行の道中の車内であっても、早朝の倦怠感が脳裏をよぎり、次第にその曲自体が嫌悪の対象になってくる。そのような理不尽を押し付けるのは、高校の部活を境にやめにした。
ともかく、六時間以上の睡眠時間を確保し、予定通り朝6時半に起床した。そこから約三十分で家を出て、7時半には錦糸町を出発した。新宿で京王線に乗り換え、高幡不動でモノレールに乗り換える。このモノレールについて語ろうと思えば一万字は堅いが、どこかの誰かがそれを済ませてくれた気がするので、今回は割愛することにする。
大学に到着し、途中で出会った友人と共にゼミの教室まで歩みを進めると、中には誰もいなかった。どうやら一番乗りだったようだ。中に入り、先週一週間を復習するように世間話をしていると、続々と同朋たちの顔が揃いつつあった。
それらを締め括るように授業開始のチャイムが鳴った後、担当の先生が入室してきたが、同朋たちは緊張感を高めるどころか、会話のテンポを速めている感さえあった。この状況についての解説も割愛するが、月の噂によると、どうやらこの状況を招いた一因は自分にあるらしい。ただ、陰口を叩かれるようなとっつきにくい教員に仕立て上げられるよりはマシだろう。感謝されるぐらいなら、これから起こり得る何回かの欠席について目を瞑ってくれないだろうか。
「今日配った新聞記事の中から一つ選び、テーマを設定して、それの研究結果を英語で発表してもらいます」
後期の最終課題はこれか。さすが楽なゼミと言われていたことだけある。
一年を締め括る集大成が三十分ほどで終わる作業で、かつ発表は紙を読んでいればいいだけ。我々大学生にとって課題の束縛が薄いというのは、理想的この上ない。中には月曜の一限という時間設定に音を上げて来なくなった人たちもいたが、それを差し引いても、作業量でお釣りがくる。
「レジュメとかパワーポイントとかを使って、わかりやすくなるように努めてください」
ああそうだった。そういえば前期もそんなことをした。それを勘定したら一時間、いやトータルで一時間半くらいはかかるかもしれない。そう考えると少し面倒くさくなったが、前期に他のゼミの友人が徹夜して発表原稿を作っていたことを思い浮かべれば、やはり相当な当たりゼミである。
二限の憲法の講義になれば、もうゼミの課題のことなど忘れていた。判例を読み解きながら、憲法の小難しい性質を探究するこの講義は、なかなか頭を回転させる必要がある。今日はかの有名な表現の自由について取り扱っており、『
だが学修社会の俗世から離れつつある脳みそが、警告信号を発していた。右にいる友人を見れば、とっくに罪悪感もなさそうに睡魔の
約二十分後、周りの参考書を
「今どこやってんの?」
「判例集の143ページ」
「おっけー、サンキュー」
一応参考書は開いたが、教授の言う重要文を目で追いかけられるほど頭は冴えていない。
現在進行を教えてくれた左にいる友人は、四色ボールペンを器用に操りながら、アンダーラインとメモを
「お! なにこれ!? わらび餅あるじゃん! しかも最後の一個」
「へー、ここそんなん売ってんだ」
「うーん、でも別にそんな食いたいわけじゃないんだよなー」
「なんじゃそりゃ。じゃあもっと食いたい人のために残しといてやれ」
「
「別にいらねーよ」
そんな彼の名は、芳内という。月曜日は大学にいる間、ほぼ一日、彼と一緒なことが多い。今も売店で共に昼飯を買い、次の教室へ向かう下準備をしている。芳内自身は講義に出ることを
だが蓋を開ければ、もっと変わっていると言えるかもしれない。とにかく講義中に寝ることがなく、教授の話をよく聞いている。メモにもほとんど穴がなく、一種の完璧主義とも言える性質である。
だがかと言って、学修意欲に満ち溢れているわけではない。前列に座って教授の話に首を反応させている人たちと出席日数は並び立つものの、後列で場合によっては全く興味なさそうに筆だけを動かしていることもあり、そのスタイルは向学心というよりも、単位を取るための最低限の取り組みとして出席をしているように見える。もしかしたら彼は、自分で見たものしか信じない、安心できないという信仰を持っているのかもしれないが、他人である我々は、その分野において芳内に対する強固な信頼を抱いている。
すなわち、同じゼミに
「なにそれ? 何入ってんの?」
「からあげ」
「マジ? からあげおにぎりなんかあったのかよ。センスいいわ」
「おにぎりごときにセンスって言葉使うなや」
「そこはいいだろ」
同時に彼は、無駄にツッコみのキレがいい。だがそれに同調して俺がボケすぎたのが仇になったか、最近ツッコみが過剰になっている節がある。わらび餅の
三限も途中三十分ほど休憩を挟んだが、その穴は安定の芳内のノートで補った。講義を終え、教室を出る間際、サークルの友人に声をかけられた。
「敬斗ー、明日練習行くん?」
「わかんね。四限チャイ語あるから、終わってまだ間に合いそうだったら行くわ」
「おっけ。あーでも
「まあいいよあいつは」
「てかさ、さっきのやつちゃんと聞いてた? 俺途中から完全に寝てたわ」
「安定の、芳内っすよ」
「あー、マジ芳内君と仲良いの羨ましいわ。俺もそのうち写させてもらうかも」
「字汚えからやめた方がいいよ」
「余計なこと知らん人に吹聴すんな」
こういうとき、そこまで社交的ではない芳内は、少し距離を取りながら会話に巻き込まれないようスマートフォンを弄っている。ただこっちから話を振るといつものようなキレを見せるので、たまにこうやって場の盛り上げに加担させる。本当にいろんな意味において、接しやすい都合の良い存在である。
四限の講義では、彼は退屈そうにスマートフォンを片手に持ちながら、レジュメに線を引いていた。かく言う自分も内容などほとんど聞いていない。
講義が半分ほど経過した頃、睡眠は既にたっぷりなので眠くはならなかったが、かと言ってすることもなくなってきたため、そろそろ寝ようと思っていた矢先、左隣のブロックの席に座っていた松井
知り合いと言っても第二外国語のクラスが同じというだけで、直接話したことはほとんどない。だが彼女は、まるで生涯生徒会長をやっているかのような所作でクラスの人間の注目を集めており、その都度自分自身も注目していた。
わかりやすく言えば、能動的というスタイルが喪失しつつある大学の授業方式に対し、彼女の流儀は能動そのものであり、第二外国語の授業が行なわれる小教室だけでなく、大教室での講義でも、前列に座り、臆することなく発言する。なので、
当然芳内も彼女の存在自体は認知している。彼も英語で同じクラスらしい。芳内の集中力が切れかかっているタイミングを見計らい、彼女のいつもと違う行動について問うてみた。
「なあ、あそこに松井さんいるじゃん」
「ん? どれ?」
「ほら、左の方の、あそこの斜め後ろにいる」
「あー、あれか。あれ? 今日前の席じゃないんだ。しかも一番後ろだし」
「それなんよ。憲法でも後ろの方座ってたよ」
「めっちゃ見てるやん」
「いや普通に気になんね? あの人が後ろ行くとか」
「なんかあったんかな。そういや朝……」
「ん? なんかあったの?」
「いや、別に。なんだろ、サークルでとか? でもそういうの入ってるイメージないけど」
「なんか、ボランティア系のサークルはやってるらしい」
「へー、そうなんだ。それなら納得だわ」
「おい、今バカにしたろ?」
「してねーよ。拡大解釈すんな」
講義でもちょうど、拡大解釈について触れられていた。
「しかもさ、よく見たら、寝てね?」
「え? へえ、珍しい。疲れてんのかな」
「松井さんに寝られるとか、この講義終わってんだろ」
「いつも真っ先に寝てるお前が言えることじゃねえだろ」
傍から見れば、同年代の一人の女性の噂をし合う、中高生並みのコンビである。
だが芳内は本気ではなく、ノリとして付き合っているだけだと思うので許してあげてほしい。
「でもあいつって顔は冬っぽいよな」
「わかるわかる、マジで冬歌のPVに出てきそうな顔してる」
「でも絶対それ実らん恋のやつやん」
「いや、一回フラれて他の奴に取られかけるんだけど、最終的に何かしらで女の方から戻ってくる的な」
「そうゆーの自分で作ってそう」
帰りの道中で行なう会話のレベルは、むしろ高校時代から退化している。だが案外これらが積み重なり、稀に議論チックな話題になることもある。高校のときは芳内と二人で話す機会が今より少なかったのもあり、雰囲気に似合わず堕落とは縁遠い生活をしているなど、今になって彼についての発見が結構ある。
「んじゃ」
「水曜な」
明大前で降りる彼と別れ、新宿で錦糸町に向かう電車に乗り換えた。時刻は17時半を回り、電車は社会を写す鏡としての役割を果たすようになってきている。
18時過ぎに錦糸町に着くと、真っ直ぐは帰らず、先輩が勤めているジムへ向かった。そこで約一時間半汗を流し、その後中学校のときの友達と合流した。
結果的に家に帰ったのは、いつもより遅い2時過ぎになった。気のせいか、街の灯はいつにも増して輝いているように見えた。
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