第三章 赤常 火曜日
3 火曜日
アラーム通り8時に起き、朝食を摂り、軽く身支度を済ませた後、自分で作った昼食用のおにぎりをリュックに入れて、家を出た。前日の予報通り、まだ雨が降る様子はない。
新宿で京王線の特急に乗り換えた辺りで、昨日の三限終わりに友人と話していたことを思い出した。行けたら行く風のニュアンスを
こういうことが芳内とだとほとんど起こらない。彼は鋭いというか細かいというか、一度した話はほとんど憶えている。だからなんというか、彼との会話は毎回、新鮮だった。
高幡不動で乗り換えた混雑するモノレールを降りると、都合良く昨日のサークルの友人と出くわした。先ほど発覚した新事実をLINEで伝えようかと考えていたが、その手間は省けたみたいだ。
「俺さー、今日の練習行くかわかんない的なこと言ってたじゃん?」
「あーそれね。敬斗今日バイトじゃん。まあたぶん中止だろうけど」
「気付いてた? 俺さっき気付いて、あれ? って思ったんよ」
「俺は昨日
「誘えし」
「一昨日誘ったのに、地元の奴と飲むから無理って言ってたじゃねーか」
「マジか。それ言ったの寿じゃなかった?」
「知らんけど、寿も別で飲んでたっぽいから、それと混ざったんじゃね?」
「そういうことね」
相変わらず月曜の夜から景気のいい種族である。サークルで仲の良い奴ら全員が昨晩、一緒にではなく、別々で飲みに行っている。もしこの世から大学生が絶滅したら、最も困るのは大学や国家ではなく、街の居酒屋たちではないだろうか。逆もまた
そのまま彼と大教室の講義に出た。もはや定位置とも言える後列に陣取り、もう一人のサークル仲間と共に三人で出席した。だが今日用のレジュメが配られると、後から来たもう一人はすぐに帰っていった。
別に彼に限った行為ではない。毎回十から二、三十人くらいは、レジュメを取得した時点で用済みと解釈したのか、聴講することを拒否し、開始五分も経たないうちに大教室を去っていく。昨日「やった気でいる奴」の話をしたが、文部科学省に提出するなら、こちらを対象にした方が良いレポートが書けるだろう。彼らがレジュメに書かれている文言を、一句でも目に通すことを願っている。
かく言う我々も、他人のことをとやかく言える筋合いがないのは承知していただけているだろう。隣の友人は、開始三十分以後は夢の世界へ旅立っていった。俺も途中十五分ほど記憶がなくなったが、いつもよりは持った方だ。芳内という後ろ盾がいない今日この頃、危機感というものは、人間を奮い立たせる最も重要な原動力であると実感する。もしも将来指導する側の立場になったら、これを使わない手はない。
そんなこんなで講義も残り二十分に差し掛かったとき、あることに気が付いた。
この講義でも顔になりつつあった松井さんが、前列はおろか、後列にも姿が見当たらなかった。友人を起こしそのことを共有しようとしたが、芳内と違って絶望的に柔軟性のないこの男は、単純な彼女への関心を色恋沙汰と捉え、俺に対し小中学生が好むような煽りをかましてくるだろうと思い、そのままそっとしておいた。
こういうところにも芳内の安定感が
だが改めて念を押しておく。彼は松井さんの噂話には極力加わらない。理由はわからないが、とにかく彼は松井さんの悪口を言わない。おそらく関心がないだけだと思うが、それにしては昨日の芳内は松井さんに同情的だった気もする。言いかけていた言葉と何か関係があるのだろうか。
ともかくとても珍しいことに、松井さんが大学をサボったのは事実である。この後四限に彼女と同じクラスの中国語の授業があるが、そのときクラスの誰もが驚愕の感情を浮かべることも事実になるだろう。天変地異が起きるのか、それとも既にどこかで起きたのか。
色々と勘案していると、二限の終わりを告げる鐘が鳴った。未だに寝ていた友人を起こし、共に学食へと向かった。今日は四階で温玉うどんを食べる予定だ。先ほど名が出た雄輔という男と合流し、三人でぺちゃくちゃ下らないことを喋りながら昼食を摂っていると、隣の机に知り合いの姿が見えた。知り合いと言っても友達の友達といったところだが、お互い話すことには抵抗のない関係性であると自負している。
確か名は西井といったか。名前もはっきりと覚えてない時点で相手から気まずさを取り除けているとは到底思えないが、それでもズカズカと心に侵入できるのは、俺の長所ではないだろうか。少なくともエントリーシートには、言葉を変えて書くつもりだ。
「西井ー、よお、久しぶり」
「あ、
「たぶんね」
やはりあっちはどこか気まずさを感じているのか、若干の壁を感じる。正直、話しかけたことに少し後悔した。
だが、彼に話しかけたのには理由がある。それは彼と知り合った理由でもあり、若干信じがたい、前期からの彼の変化であった。
「そういや
「ああ、あいつ、先週から急にサークル来なくなっちゃってさ、よくわかんないけど。でも授業には出てるし、元気ではあるっぽいよ」
「へー、そーなんだ」
こういうことはよくあるし、あまり突っ込む気もないが、会話のタネには充分であった。
「まあ確かに、実、前から飲み会とか嫌そうにしてたし、こうなりそうな気配もあったっちゃあったけどね。正直、今は気まずい」
言葉尻の対象を深読みしかけたと同時に、俺自身は妙に、飲み会を嫌がっていたという表現に引っ掛かった。考えたこともなかったが、もしかしたら身近にも、想像もしていなかった些細なことに苦しんでいる人間がいるのだろうか。
大学生の価値観ほど、時が経つにつれて相反していくものはない。止まっているようで進んでいる、膨大で
そんな大人と子供の境界という立ち位置を与えられた僕たちは、今、ここで何をするべきなのだろうか。その答えを大人から求める者がいれば、訊かない、訊く気のない者もいる。それどころか、自ら創り出す者もいる。
俺はどこに立っているのだろう。ここにいる四年間を「遊」に費やす者たち、松井さんのように「学」に費やす者たち、そして何を考えているかわからない芳内。
ただ一つ確かなのは、今ここにいても、その答えは出ない。
午後は帰ると言った友人二人と、授業に向かった西井とそれぞれ別れ、学部棟にある図書室に向かった。我が大学には工場並みの大きさを誇るメインの図書館があるのだが、個人的にはこじんまりとした学部棟の図書室の方が気に入っており、空き時間は大抵、サークルの溜まり場にいる以外は、ここを利用している。三限の時間は空きコマだったため、この図書室に入り浸り、昨日出たゼミの課題などに取り掛かった。
三十分ほど経過したとき、急にLINE電話がかかってきた。電話の主は美咲だった。作業が中断させられたことに少々
「はいはい。どうした?」
「ねえ、今どこいる? 暇でしょ? 会おうよ」
「あー、これからチャイ語の授業あるからきつい。その後もバイトだし」
「えー? そんなのサボっちゃいなよ」
「おもろいやんそれ。自分で考えたん?」
「雄輔のパクり。ねえそんなことよりさ、じゃあ明日は?」
「明日も一日中授業あるからきついわ。わりい」
「えー、それじゃ三日も経っちゃうじゃん。いつなら会える?」
「んー、じゃあ木曜の午後英語サボるから、そんときでいい?」
「うん、わかった。絶対ね?」
「はいはい。うわ、マジかよ」
「どうしたの?」
「ごめん、なんでもない。ちょっと今、授業抜けてきてるから、もう切っていい?」
「えー、もうちょっと話そうよー」
「後でまたかけるよ」
「わかった。絶対ね?」
「はいはい」
途中から雨が降り始めてきたため、強引に会話を打ち切った。
相変わらず、この女は本当に大学生なのだろうか。いや、この無限の選択肢を提示してくる暇の多さこそ、大学生の確たる証拠なのだった。最近芳内や松井さんのことを考えているからか、本質を忘れそうになる。
雨も本降りとなり、束の間の空き時間も終わりを迎えると、次に向かったのは同じ学部棟にある小教室だった。先ほどから「チャイ語」と表現している、すなわち中国語の授業を受けるためである。中国語がどのような経緯で「チャイ語」と略されるようになったのかは、想像するに
少し早く着いたため、クラスメートの友人たちと教室内で駄弁っていると、続々と他のクラスメートもやって来た。中には名前すら覚えていない人もいる。いくらクラスといっても、一週間に二度ほどの集合に留まるこのような集団体系の場合、義務教育時代のような横の繋がりは皆無に等しい。各々が最低限気を許せる人間を探し求め、最低限の人数で行動を共にする。そのような事務的な付き合いを必要としない人間もいる。その道を選んでも困らないくらい、我が大学におけるクラスという団体は集団意識が低い。
だが、我がクラスには一人だけ、一際存在感を放つ人物がいることは既に承知の通りだろう。そればかりか、いつもは授業開始十分前には最前列に座っているその人物が、今日は五分前になっても現れないことに、少しずつ教室が騒めき出している気配を感じる。その気配を冷静に感知できるのは、その事実を冷静に予測できている俺だけだ。結局彼女は、四限の始まりの鐘が鳴っても現れなかった。
そのすぐ後、中国語の教員が教室にやってきて、出席を付けるために名簿を開いた。授業開始の鐘が鳴ったにもかかわらず、教室内は未だにざわついている。すると名簿の一番上の人間の名前を呼ぶ直前、後ろ側のドアが開く音がした。俺の反対側の席に座っている、その音に最初に反応した女子がドアの方を振り向くと、二度見と共に、驚きの表情を浮かべた。
何事かと思い、ゆっくり振り向いた俺の目に入ってきたのは、いつもと違う後方の席に身を置いた松井さんの姿だった。しかし先ほどの女子の表情を驚愕にさせたのは、これだけが理由ではない。その証拠に今、振り向いた俺自身も動揺している。さらにはぽつぽつとその事実に気付いた周りの人間の顔にも、感情が宿っている。
「ギリギリセーフですね、松井さん。今日は後ろの席なんですね。おや、イメージチェンジしたんですね。いいじゃないですか、似合ってますよ」
いつもは愛想良く教員の口述にも対応していたのだが、今日に関しては彼の気遣いもむなしく、彼女の耳を通り抜けていったようだ。
結論だけ言おう。遅刻ギリギリに現れ、後ろの席に座った松井さんは、
クラスメートと共に乗る帰りの電車内、話題はやはり、百分前に起きた衝撃の出来事から避けていくことはなかった。
まるで港区にいるスタイリストのような姿へ変貌を遂げた彼女の風貌は、ある種男共の理想である「清純さ」という野心の
だがもしかすれば、彼女の突然のイメージチェンジの動機には、そのような好奇の目からの回避があるのかもしれない。少なくとも彼女の心中は、ここ数日間、変化の渦中にいたことは明白である。今日の授業も教員から直接当てられたとき以外、発言はなかった。九十分が経過し、教室からの解放が教員から発せられた後も、かつてのようにその日の授業内容の質問に出向くことはなく、いの一番に教室から立ち去っていった。何がきっかけなのかは想像の域にも達しないが、この変化とあの変貌に関連性があることは間違いない。「鋼」と評される彼女すらたった数日で変えてしまうのだから、人間の精神など実に当てにならない。
昨日とほとんど同じ時間に錦糸町に着くと、これも昨日と同様、真っ直ぐは帰らなかった。しかし理由は昨日よりも社会的である。
向かった先は、主にステーキを扱う洋食屋、言い換えればアルバイト先である。18時半からホールに入り、閉店の22時半まで表に立つのが勤めである。この四時間、特に目ぼしいことは起こらなかった。期待していた雨模様による客足の減少も、期待外れに終わった。強いて言えば、途中オーナーが来たため若干バタバタしたが、入るシフトの二回に一回は現れる常連客なため、店全体で作業として染み込んでいる対応に過ぎなかった。
家に着くのは、大体23時半になる。夜飯は店の
そうして家に着く頃には、そのやり取りは脳みその片隅へ追いやられていた。
理由はただ一つ。未だに脳の瞳は、茶髪のショートヘアによって支配されていたからである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます