第一章 白常 火曜日

6 火曜日


 一週間の中で唯一、バイトも学校もない日、それが僕にとっての火曜日だった。俗に言うオフというやつである。高校までは部活などでこの言葉が頻繁に飛び交う環境にいたが、今ではその分別が難しい環境に漂着したので、すっかり言葉に出すこともなくなった。そんな言葉は他にいくらでもあったと思うが、もうそれらを思い出せないほどに回想機能は衰退している。だがその分、潤沢に降り注ぐ時間の中で、新たな用語を習得しているのも事実である。語彙ごい機能に関しては、微弱な前進を保っているようだ。

 前日の床に就いた時間にもよるが、朝は大体8時台、遅くても9時半までには起床していた。早いと7時半前に目を覚ますことも、体は受け入れていった。これは夏休みの頃とも同様の生活リズムであり、厚生労働省から表彰を受けたいほどの規則性である。同類の大学生の中では、上位十五%、いや二〇%ぐらいには入っているのではなかろうか。ネタが枯渇した夕方の情報番組、またはネット配信番組などで是非取り上げてみてほしい。ただ、自分でも視聴することはないだろうが。

 日にもよるが、大体午前中はPlayStation 4に費やし、ほどほどの罪悪感が生じてきたところで昼飯を食べ、午後は大学の課題か、再びPlayStation 4で時間を消化した。ただ後者の場合でも持続時間には限りがあり、夕方頃には据え置き型ゲーム機の電源は落としていたが、その後も夕飯までデスクトップで動画サイトを見るか、スマートフォンで電車内のような時間を再現していた。熟練された余暇の徒消としょうである。

 そんな中でも、三食はきっちり決まった時間に摂取し、入浴も欠かさず、約隔週のペースでランニングにも出かけ、翌朝の6時半起きに備え、23時半くらいには必ずベッドの上にいるという安定感だけでも履歴書に刻みたいものだ。

 時を現在に戻すと、昼の12時半過ぎになりPlayStation 4をストップさせると、その五分後に母が帰宅してきた。タイミング的には絶妙である。

 母は先月オープンしたというケバブ屋の看板商品を買ってきた。これが今日の昼飯である。既に一度食しているが、充分すぎるほどの濃厚な味わいと、キャラクターに似合わず健啖けんたん家な僕を満足させるボリュームの両方が重なり、とりわけ気に入っていた。月に一度行く家系ラーメンと同じぐらい待ち遠しい食事である。ちなみになぜ家系ラーメンを食すのが月に一度のペースなのかと言うと、健康を気にしてなどではなく、家に帰れば大抵晩飯があるというなまぬるい生活環境と、五百円を超える買い物に躊躇ためらいが生じる倹約家体質から考えれば、ある程度の禁欲状態が自然に発生することは自明である。


 この日の午後、僕は大学の課題に取り掛かろうとしていた。昨日ゼミで提示された、最終発表に向けての準備である。と言っても、翌日からいきなり原稿を書き始めるわけではない。ゼミ内容も段階的であり、最終発表に向けて各々おのおのが徐々に集積していったものを毎週の授業で報告し、全体で成熟させるというのが方針であった。

 来週は選択した課題についての新聞記事やネット記事を一つピックアップし、内容の共有と見解を表示することが権利として与えられた。すなわち今日やることは、どの課題を選択するかを決めることと、それについての記事をピックアップすることである。

 僕は「教育」について発表することにした。理由は簡単である。他のものと違い、問題提起する要素に経験を付せられるからである。表層的な大人たちが喜びそうな材料の一つだ。ただ僕らの先生はそんな軽薄な人間ではないと確信しているので、これはただの大義名分に過ぎない。選んだ理由をかれればそう答えられるし、実際に今までを振り返れば主観を組み込むことは造作もない。このあたりが現実的な根拠である。

 とりあえずインターネットで「教育問題」と検索し、上に出てきた二、三個の記事を閲覧えつらんして、経験を昇華できそうなものをプリントアウトした。後はもう少し掘り下げて研究を重ね、感じたことを被害者風に綴っていけば、ある程度の容量で形を成していくだろう。

 これがディベートによる熟成を前提とした発展的課題ならあら探しの格好の的となるが、大学一年生というフィルターを想定した基礎的学修であるのなら、目的は発表するという過程で充分であり、それを甘んじて受け入れることが僕の方針である。


 一時間ほど経ち作業が終了した頃、スマートフォンにLINEの通知が入ったのが見えた。高校時代は頻繁に稼働していたこのアプリも、今ではグループか、家族間の業務連絡でしか触れ合う機会がなくなった。グループの通知もほとんどオフにしていたので、個人からのチャットが枯渇しつつある今日、LINEを操作する時間は当時の三分の一、もしくは四分の一くらいになっている。そんな貴重な話し相手は大体鳥飼だと決まっていたが、今日に関しては違っていた。

 約一ヵ月半ぶりに返信を寄こしたその人物は、新崎しんざき桜という名の高校時代の同級生の女性、いや女子だった。

 何を言っているかわからないかもしれないが、彼女は僕が送ったメッセージを、一ヵ月以上のスパンを空けて返答した。別にだからと言って不愉快を生成させるほどの関係性でもない。強がりに聞こえるかもしれないが、断っておくと、確かに入学当初の時期はこのブランクに疑念を抱いていた。

 しかしLINEというツールとの縁が薄まっていることを自覚した夏休み辺りから、高校時代あれほど待ちわびていた異性からのレスポンスは、二次元に閉じ込められていった。こんな僕でも当時は幾人いくにんの女性と文面上の関わりを持っていたが、それぞれの新たな日常が始動するにあたり、僕の存在は新たな登場人物の前任者になった。

 一方で新たな登場人物が出現しない僕にとって、それらは影として残り続けた。くして現れた選択肢は、どこまでも影を求め続けるか、それとも無にすることだった。前者を選べばあわれにもがくことになるが、その影に光が差し、やがて姿形となっていくことも充分にあり得た。しかし気付きの夏は、もがきという恥じらいの先にある快楽さえ奪っていった。

 簡潔に言えば、これが僕の女性関係の全てである。そこそこ整っている容姿を持つからか、バイト先などでそのような話題を振られることもしばしばあった。その度に村人Aのように「全くないです」と発し、不思議がられていた。同性愛だとかトラウマがあるとかなら容易に了承を得られただろうが、僕のようなプロセスを解説したところで、余計に奇人度が増すだけである。なので毎回曖昧な合いの手でその場を誤魔化し、凡人を装っていた。

 だがおそらく、僕の本性は彼らの想像をはるかに上回る歪曲わいきょく性を備えている。同時に、小説の題材にされるような一面を持ってはいるが、それが衝動と結びつかないのが僕の強みである。この乱筆さえ他人の目に触れなければ、青少年の敵である僕の倒錯性が蔑視べっしの的になることはないだろう。世の清廉人たちが顔をしかめるみだらな文言を検索にかける至福の瞬間は、誰にも邪魔されない。

 そんな僕は、異性関係から逃げ続ける凡人以下の存在である。関心がないように振舞いながら、夜な夜な自慰じい行為をルーティン化している、一級の好色家だ。そのくせ、本当に意識している人を、意識的に話題から外し、興味がないように装っている。

 はっきり言う。僕はここまでに登場したある女性に、強い関心を抱いている。その女性が誰か、それは時間が経てばわかることだ。そして、密かに抱いている夢のような妄想が叶わぬのも、わかっていることだ。

 新崎への返信は三分ほどかけて内容を考え、明日にでもしようかと決めてLINEを閉じた。新崎とは特別仲が良かったわけではないが、彼女の世間一般から少しズレたセンスに僕がはまったようで、人間としては気に入られているらしい。たまに大学で会うと話し込むこともある。ただ文字にするのも烏滸おこがましいが、男女の関係は当然ない。相手方もそんなことは欠片かけらも意識していないだろう。


 午後も徐々に更けていき、普段なら空はくれないの行程を経て薄暮はくぼへと向かい、黒く染まっていく時間だが、今日は予報通り、雨というトレンドが支配した。

 このぐらいの時間になると、明日は6時半に起きるという憂き目に現実味が湧いてくる。大方一般人における日曜日の夕方と捉えてもらって差しつかえない。僕にとっての一週間は、明日から始まるかのような錯覚に陥る。

 そう考えてみれば、今週もなんて平穏だったのだろう。来週も、日常の枠からはみ出すことはないのだろう。

 それでいい。そんな大学生がいるから、能動的な人間が思う存分活動できるのだ。僕は少なくとも四年間はバランサーで構わない。それを認める人間はここにいる。全国のバランサーたちに宣言しよう、君たちは俺が認める、と。

 そんなことをたくらんでいたら、いつの間にか寝る時間になっていた。妄執もうしつを頭の片隅に押し込め、本格的に眠り込もうと決めたときには、新たな一週間が口火を切っていた。


 そうしてまた、白い日常が始まった。

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