第一章 白常 月曜日

5 月曜日


 朝6時半にアラームが鳴り、6時32分には二階のリビングにあるソファーにもたれかかっていた。朝食を済ませ、着々と朝の準備を進めていると、テレビから明日の天気予報が流れてきた。どうやら明日は、午後から雨が降るそうだ。

 一通りの準備を終えると、今週末から始まるらしい日本シリーズの特集を見ることなくテレビを消し、いつもと変わらず五分ほどの余裕を持って家を出た。今日が地球最後の日だとしても、この出発に未練はない。それぐらい今の僕は、毎日、家を出る気持ちに差異がないのだ。


 8時発の各停井の頭線を起点に、明大前から本物の満員電車とすれ違いながら西へ西へと下っていくと、三日ぶりのキャンパスが広大な土地にそびえ立つ姿が見えてくる。若干のイレギュラーはあったものの、今日も満員モノレールを乗り越え、八王子の地に降り立った。理由はともかく、今の僕は少しだけテンションが高い。

 教室に着くと、授業開始十分前にもかかわらず、もう四人ほど席に着いていた。このうち三人は高校の同級生である。この程度の人数が既に教室にいることなど珍しくないとも思われるが、これから始まるのはゼミという全員で十五人ほどの少人数授業なので、充分な集合数である。さらには月曜の一限という悪条件により、実直に通い続ける人数も三分の二ほどに収縮していたため、実質半分くらいは既に揃っていたということだ。ちなみに言うと、その半分は高校の同級生であった。

 大学入学当初を集団で行動していた僕は、ゼミの選択もその流れに身を任せた。意志という観点からこの行動を非難する者もいるだろうが、選択の基準を苦楽や評判に絞っていた僕らにとって、このゼミの先生は理想的であった。同時に月曜の一限というネックが響き、自分を含めた同級生の六人全員が抽選なしのストレートインしたというのはなかなかの語り草だ。

 ただそのとき、実際に希望した人数は十六人であり、一人だけがあぶれるという状態だったのだが、ある一人の女性が抽選を恐れたのか、それとも六人の集団で乗り込もうとする我々を忌避きひしたのか、空気を読んで辞退してくれたのは今でも憶えている。もしそこで自分があぶれ者の座を引き当てていたら、自虐のネタにはなるだろうが、今よりもシビアな大学生活が待っていたことは間違いない。万一自伝でも書くことがあるのなら、名もなき英雄として扱わなければならない。

 ただ何より、我々のような集団はゼミの内外から嫌悪される存在だったのだろう。自分が逆の立場であれば、不快のバイアスを通して彼らと接することは、欲望のようにな行動である。しかし当時の自分、いやこれまでとこれからの自分には、それを自重じちょうできるほどの余裕は具有していない。だからこそ長いものに巻かれ、なおかつそこの表に立たないことで、憎悪の的になる悲劇を回避する生き方を選んだ。現実では気丈きじょうに振舞えても、文字にすると非常に情けないのは言うまでもない。


「今日配った新聞記事の中から一つ選び、テーマを設定して、それの研究結果を英語で発表してもらいます」

 眠気も取れてきたゼミの終盤、先生からのこの置き土産により、一部の学生は怪訝けげんな表情を生じさせた。いわゆるこれは、最終的なゼミ内での発表に向けての課題提示である。前期でも似たようなことをグループで行なったため、その手の気構えは皆持ち合わせていたのだろうが、言葉尻にあった「英語で」という部分に対して若干の抵抗があったのは否めない。  

 ただ自分としては、前期のように原稿を見ながらの発表が可能であると確信していたため、過剰な嫌悪感を抱くことはなかった。翻訳に関しても、近年のグローバル教育の必須アイテムである翻訳アプリを使えば、すずめの涙程度の労力の消費で済む。苦労主義を営む同級生から鼻で笑われても仕方がないが、ゼミ選びに成功したという実感がひしひしと心に染み渡るのは、このときのような瞬間である。

 一限が終わって次の教室に向かう最中、課題の簡易性に気付いた友人たちも平穏な表情を取り戻し始めている。我々六人全員が次も同じ講義なため、サボる数人を除いた複数人が行動を共にしている。もちろん自分は出席する側である。

「これ、Google翻訳かければいいだけじゃね?」

「それ。でも結局日本語の原稿作んなきゃだから、どっちにしろめんどくせえ」

「前期は結構テキトーでも大丈夫だったけど、今回は中身見られんのかな?」

「見られてもあいつなら大丈夫っしょ」

 あいつとは無論、ゼミの先生のことだ。教授なのか准教授なのかは知らないのでとりあえず先生と置き換えていたが、大野という名前で、その物腰の柔らかさから、我々は半分親しみの態度を持って接していた。本人もその雰囲気を認識しつつ、特に改善を求める気配を見せなかったため、中には態度を親しみから軽視に切り替える者もいた。ゼミ生内でのLINEのグループの名がそのまま「大野」だったことは、何よりの象徴である。

 ちなみにそのシュールなグループ名を考案したのは、友人の一人である鳥飼とりかい敬斗けいとという男で、陽気なキャラクターに似合わず講義には真面目に出席していた。そのため、僕の大学での生活範囲の中では共に行動することが多く、月曜日は四限まで隙間なく授業があるのだが、彼に特別な用事がなければ帰りの電車まで同行するのがいつものパターンだった。

 なおこれまでと同様、自分を含めた先ほどの六人全員が四限の講義を履修していたが、出席していたのは大抵、僕と鳥飼の二人だけだった。たまに漫画好きの一人が漫画を読みに来ることもあった。

 ついでに言えば、その講義は前に述べた金曜三限のものを少しマシにした程度の出席率である。金曜三限の講義は鳥飼以外の五人が履修していたが、当然のように僕以外の四人が顔を見せることはほとんどなかった。


 鳥飼とはよく下らない話で駄弁だべりながら、心地良い時間を過ごしていた。先日双方ともが見ていたテレビ番組で、あるお笑い芸人が夏への愛を語るというコーナーがあった。

「でもあいつって顔は冬っぽいよな」

「わかるわかる、マジで冬歌のPVに出てきそうな顔してる」

「絶対それ実らん恋のやつやん」

「いや、一回フラれて他の奴に取られかけるんだけど、最終的に何かしらで女の方から戻ってくる的な」

「そうゆーの自分で作ってそう」

 相変わらず一般人は、芸能人についての勝手な想像を膨らませるのが得意である。披露しなくてもいい掛け合いは何も生まなくていい分、何も消費しないで済む。

 時刻は17時24分、この時間の上りの京王線なら二人並んで座れることが多い。終点の新宿まで乗っていく鳥飼とは、明大前で別れる。おそらく次に会うのは、水曜日の一限の講義のときだろう。軽いノリを含んだ挨拶を交え、明大前のホームに降りる。

 電車内はそこまで混雑しなかったが、駅では学生を中心に密を形成しつつある。往来に合流し、適度に逆らいつつ行き着いたのは、下りの井の頭線のホームである。

 四分ほど待ち、やってきた吉祥寺行の車両に乗り込んで、今日の社会との接続は終了した。

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