第二章 青常 金曜日 午後

7 金曜日 午後


 行きの半分ほどの乗客が乗っているモノレールで高幡不動に向かい、京王線に乗り換え明大前まで向かう。その道中の三十分ほどの間に、期待と不安の狭間で何度もスマートフォンの画面を見ていた。もう一度内井さんと話したい。恋人のように、声が聞きたいからと何の理由もなくかかってくる電話を期待し、だがかかってきても電車の中だから出づらい、もしかしたらキャンセルの趣旨かもしれないという不安が交差し、三十分は瞬時に過ぎ去った。

 そうして渋谷行の井の頭線に乗り換え、運命の地を目の前に迎えた。


 「若者の街」という枕詞まくらことばがすっかり定着しているのがこの渋谷というダウンタウンだが、行き交う人々を見れば、大人や子供、老人、外国人、社会的マイノリティの人々といった、タイプでカテゴライズするのが野暮なほど、ダイバーシティを体現している街であることを改めて実感した。この街にフィットできるよう横文字をアクティブにユーズしてみたのだが、この取り組みは心の内のみに限定することを固く誓う。

 エレベーターで駅ビルの上階へと向かうと、先ほどメッセージで送られてきた目的地の喫茶店をスムーズに発見した。内井さんは普段、こういうところで時間を潰しているのだろうか。想像していたよりも、彼女は普通の大学生なのかもしれない。

 店内に入ると、平日の午後という常識を覆すほど、席は客で埋まっていた。近所のファミレスだったら、休日の夜でもここまで埋まらない。都心の一等地のポテンシャルに感服しつつ無数の候補の中からゴールを模索していると、その答えへはすぐに辿り着いた。

 一人で座っていた内井さんは、何かの本を読んでいたため俯き加減だったが、入り口からでも充分すぎるほど、小皿に乗った食べかけのチョコレートドーナツと、少し寂しげな表情をうかがうことができた。目の前に着くまでに心を整えようと努力したが、最終的な表情のイメージは固定できなかった。それが今の僕の、率直な頭の中なのだろう。

 こうして突発的に出た答えは、偶然を装うことだった。

「あ、内井さん。ここだったんですね」

「あー! 風間くん! 来てくれてホントにありがと! ごめんね、わざわざこんな複雑な場所にしちゃって」

「ウチらの駅と全然違うんで迷いかけちゃいましたよ。ここにはよく来るんすか?」

「うん。ウチの大学、図書室狭いからさ。一人になりたいときとか、よくここ来るんだ。だから誰かと来るのは仲良い友達以外だと、風間くんが初めてだよ」

 「一人」という言葉を発したときの内井さんの顔が、やけに視覚に突き刺さった。

 バイト中には決して見せなかった、この世のはかなさを全て集約しているような、そんなおぼろげさが僕の五感をうごめかせる。目の前に広がる光景が幻覚だと思わせるほど、この女性から発せられる言霊ことだま面貌めんぼうは浮世離れしていた。昨日この人が、どのような苦痛に陥り、どのような苦慮で立ち上がり、どのような苦悶で僕を頼り、どのような苦悩の果てにこのダウンタウンに降り立ったのか、想像することさえ罪に思えた。

 だが間違いなく、一度は空想の世界に幽閉された人物が、現実に、僕の目の前に現れた。確かに二週間前までの彼女とはたたずまいに変化があるものの、その変化は僕にとって、彼女をより唯一な存在にした。不謹慎なのはわかっている。でも、今の内井さんは、本当に美しい。今まで見てきたどんな女優やアイドルよりも可憐なこの人の風情が、堪らなく心を貫いていくのがわかる。

 しかしこの感情こそ、今の内井さんが最も嫌忌していることもわかっている。それが溢れてしまったからこそ、この人は傷つけられた。僕だってその加担者に相違ない。こうして易々やすやすと会うことは、十戒じっかいの前文に記されているような、最も愚かしい罪なのである。

「風間くん、午後の授業サボったでしょ? いくら何でも来るの早すぎだよ」

「いや……、まあでも大丈夫ですよ」

「って言ってる私もサボってるんだけどね。だけど、これからはちゃんと行きな? サークルあって忙しいのはわかるけど、お父さんお母さんのためにも」

「そうっすね。来週からはちゃんとします」

「でもね、偉そうにこんなこと言ってるけど、私も親には迷惑ばっかりかけてる。一昨日も散々心配かけたのに、出迎えてくれたお母さん跳ね除けて部屋に閉じこもったの。酷いよね、こんな人間。それで昨日一日ボーっとして、気付いたの。自分が、どれだけ優しい環境にいたか。両親もそうだし、バイト中も風間くんとか近藤くんとかが優しくしてくれて、大学の友達も本当に優しい。でも私は、やっぱり、みんなの優しさから目を背けてた」

 ここまで自分のことを過小評価している人間もなかなかいない。自らへの誹謗の一言一句に反論したかった。しかしこの状況を招いたのも、僕の普段の行ないの報いである。こうやって全てが、因果応報にできているのだ。

「ああ、ごめんね! 急に暗くなったりして」

「でも、内井さんはホント、俺なんか比べ物にならないくらいすごい人なんですから、絶対大丈夫ですよ!」

「そんなことないよ! でも、……ありがと!」

 少しだけ笑ってくれた。その儚げな笑顔が、余計に僕の心を吸い込んでいく。

「でもやっぱり心のどっかには不安があってね。今日はそれを埋めてもらおうと思って、本当は元々大学の友達と約束してたんだけど、その断って風間くんにわざわざ来てもらったんだ。ありがとね、来てくれて」

「何でも言ってください! 日付変わったって聞きますよ!」

「そんなにいっぱいはないよ! でも、じゃあ、お言葉に甘えて、いっぱい愚痴聞いてもらおうかな」

 この人から「愚痴」という言葉が生まれたのだから、相当なものを溜め込んでいたのだろう。それを聞くことが僕の贖罪しょくざいなのだろうか。

 だが同時に気付いた。この人は他人を責められないし、傷つけられない。これから僕は彼女に対し、たくさんの許しを請うだろう。そして彼女は、きっと許してくれる。

 じゃあ一体誰が、僕のことを罰してくれるのだろうか。


「実はね、二ヵ月前ぐらいから、あの人から仕事と関係ないメッセージとかが来るようになったの。最初はバイト終わりに『今日この後暇?』くらいの軽い感じだったんだけど、段々LINEで『この日シフト空けといたからどこか行かない?』とか送ってきて、一昨日も本当は休みだったはずなのに、わざわざ来たらしいの。ちょっと怖いよね」

 僕だって本音を言えば誘いたかったし、内井さんのシフトは何度も確認していた。

 ただ単に勇気が出なかっただけだ。

「風間くんはなんていうか、私の事あんまり興味ないんだろうなー、なんて思ってたの。だってサークルとか飲み会とかあんなにいっぱい行ってて、すごく充実してそうだったし、この前休んでたときも、『また女の子とかと一晩中遊んでたんだろうなー』とか近藤くんと言い合ってて。そんな生活、正直羨ましかったんだ。すごく楽しそうで」

 違う。全然違う。

 どんなフットサルよりも、どんな飲み会よりも、どんな女の子と一緒に飲んでても、あなたと一緒にバイトしている時間が一番楽しかった。あなたに夢中だった。店長よりも、近藤よりも、誰よりもあなたに興味があった。

 だから窮屈だったサークルは辞めて、あなたに会う時間を増やそうとした。

「だから風間くんにならこういうこと話しても大丈夫かなって思って、この前服盗まれたこと話したんだ。近藤くんでもいいかなって思ったんだけど、さすがに高校生だと刺激が強いかなって思ってやめておいたの」

 こんな俺のどこをどう見たら、下心のない男性としての信頼を生み出せるのだろう。やっぱり内井さんは、超が付くほどの天然で、純粋だ。仕事中はあんなにきびきびしているのに、人間関係、特に異性となると、てんで鈍くなる。

 これが、この人の魅力なんだ。

 だからみんな、あなたに惹かれていた。僕がもう少し勇気のある人間だったら、あなたに手を出していた。でも、神が与えた僕の弱さに、彼女は気付かない。それどころか誤解して、安全な人間というレッテルを貼っ付けてしまっている。

 一体誰が、僕が下心で彼女の信頼を得たことを咎めてくれるだろう。

「でもあのとき、勇気持って風間くんに話せてよかった。やっぱり悩みって話すとスッキリするもんだね。その日の夜はぐっすり眠れたんだよ」

 あなたがぐっすり眠れたのは、きっとその日の夜だけだろう。近藤も証言している。僕は何の解決にも導いていない。

 それどころか、少しでも刺激的なアピールをしようとして、意味のない破廉恥な言葉をぶつけてしまった。しかも他人の名前を使って。

 でもそれは僕のであると理解され、個人への下心とは結び付かなかったのだろう。僕は知らないうちに、たくさんの幸運によって救われていた。

 その幸運の結果が、今のこの状況である。

「今日もね、その日のことがあったから風間くんを頼ったっていうのもあるんだけど、もう一つ理由があるの。事件の翌日、つまり昨日ね、いろんな人からラインもらったんだ。浦野さんとか、今まで話したことない人とかからも来た。でもね、なんとなく疑心暗鬼になってて、その一つ一つがあの人のやつみたいに思えて、怖くなったの。だけど風間くん、そっとしておいてくれたでしょ? だからもしかしたら風間くんは、私のこと理解して、あえて送らないでくれたのかなーなんて思ったりしてて。考えすぎだよね。私、昔から妄想癖あって、こんな風に自分に都合良いようにばっか考えちゃうんだ。なんか、気持ち悪いでしょ?」

 確かに、今はそっとしておいてほしいだろうから遠慮した、というのも、あるはある。

 だが現実は、「できなかった」だけだ。本当は「大丈夫ですか?」に対する「大丈夫だよ!」の返事が、喉から手が出るほど欲しかった。だけどその種をく勇気も資格もなかった。それだけなのに、不運にもまた、幸運の女神が僕を味方した。

 そのツケを背負うことになるのは、何を隠そう目の前にいるこの女神なのだ。

「今は、本当にスッキリしてる。本当に、会えてよかった。風間くん優しいから、学校サボって来てくれるんだろうなー、なんて期待してたんだ。しかも武蔵浦和じゃなくて、わざわざ渋谷まで。こんな私のために、いろんなもの犠牲にして。だから今、風間くんにはすっごい感謝してるんだ。これからなにか困ったことあったら、何でも言ってね! もうどれだけ恩返ししても足りないぐらい、風間くんには助けてもらったんだから」

 表に出していた無意味な否定と曖昧な相槌に、僕の精神は限界に達した。


「すいません、内井さんの気持ち、よくわかりました。でも言わせてください。内井さん、勘違いしてますよ」

 彼女の無だった表情に驚きの色が差した。

「俺、内井さんが思ってるよりよっぽどクソな人間ですよ。下心がない? あるに決まってるじゃないですか。だって俺、あなたのこと、店長よりも絶対好きですよ。いつも思ってましたよ、一緒にご飯行きたい、一緒にカラオケしたい、その後、内井さんの家なんか行けたらな、って。気持ち悪いのはどう考えても俺ですよ。そんな感情勇気出せずに仕舞ってたら、内井さん勘違いさせちゃったんですから。気持ち悪くて、最低ですよ」

 彼女の目に光るものが見える。でも決してやめるつもりはない。それどころか、全身をポンプのようにして、ギアを上げた。

 僕は罰を受けるべき人間だ。その罰をこの人が与えてくれないのなら、自分でやるしかない。正々堂々と、この人の目の前で。

 これから内井さんとは会えなくなるだろうが、心のモヤモヤは取れる。それでいいんだ。

「サークルだって、俺、いないも同然でしたよ。俺が充実してるなんてサークルの奴らが聞いたら、一生笑い者ですよ。『あいつ陰キャなのに、バイト先の女に陽キャだと思われるように振舞ってるらしいぞ。ダサすぎるだろ』ってね。だから、辞めました。内井さんともっと会いたいから。これからはこっちで充実させるんだ、なんてしょうもない意気込みして。ホント、ダサいっすよね」

 顔はもう俯いている。この距離なのに、表情を確認することすらできない。

 でも今は、内井さんの感情に左右されている暇はない。いつ糸が切れてもおかしくない。その瞬間が来れば一気に正気に戻り、死にたくなるくらいの後悔に襲われるだろう。

 だが、絶対に後悔しない。そして、させない。そのために僕がやらなきゃならないのは、僕の全てを、この人に、さらけ出すこと。そうやって、幻滅してもらうこと。

 それをまっとうするだけのアドレナリンは、既に準備済みだ。

「相談してくれた日だって、よく考えてみてくださいよ。俺、最低なこと言いましたよ。セクシャルな悩みだったのに、それを慰めるどころか、上塗りするようなこと言ったんですから。このこと警察にバレれば、俺だってなんかしらの犯罪引っかかりますよ。だから俺はあなたを傷つけたことに加担どころか、同罪なんですよ。今日だって出席ある授業サボってホイホイ渋谷までやって来たんです。あなたを慰めるためじゃなく、あなたに会いたいから。もう俺には会う資格なんかないって心の中で決めてたのに、内井さんから連絡来た途端そんなもの忘れて飛びついて、犬みたいにここまでやって来たんです。これが俺なんです。これが、風間実っていう人間の本性なんです。どうか、俺のことなんて忘れてください。あなたには、幸せになる権利がある。幸せになるべき人間なんですから」

「違う!!!」

 店内どころか、フロア中に響き渡った。


「なんで……、なんでそんなこと言うの? なんで、うっ、そんな、ひどい、こと……」

 泣きじゃくりながら出した彼女の声からは、心の底というものがにじみ出ていた。同時に今、僕の中には違う後悔が生まれた。僕はこの人を、また、傷つけてしまった。

 深呼吸し、少し落ち着きながらも、声にはまだ涙がかかっていた。彼女のポニーテールは、息を吸うように揺れている。

「言ったでしょ? 私、昨日、本当に辛かったの。自殺の方法だって調べた。だけどね、そんなに苦しくても、私は風間くんに会いたくなって、そして今日、今ここで会ってる。なんでだと思う? 理由なんてない。あなたに会いたかったから。さっき言ったことだって、ただの口実。確かに相談したとき、そんなにスッキリしなかった。次の日からは相変わらず全然眠れなかった。それでも、この辛いときに、あなたに会いたかったっていうのは本当の気持ちなの。ねえ風間くん。いや、実くん。私を信じて。私にとってあなたは、とっても大切な、かけがえのない、最高の存在なの」

 顔が紅潮してるのか、青ざめてるのか、自分ではわからなかった。

 この率直なカウンターに対して、僕には対処する術がない。何の言葉も出ない。情という概念を初めて目の当たりにした。そういうとき、人間はこうなる。全てをさらけ出した分、全てを吸収する時間だ。

 しかし吸収するには刺激が強すぎる。人格が変わるほどのパンチを、一発ずつ、心臓で受け止めた。排出される二酸化炭素の一粒ずつに、生命の息吹を感じる。その太陽のような生命力は、まさしく太陽から発せられている。気付かぬうちに情景が変わっていく。まるで昨日の帰り道を思い起こさせるような、柔らかな陽だまりと、清澄な空気。心が透き通っていく感覚が全身を駆け巡り、目の前の太陽を瞳に映す。

 そして感じた。「共有」を。

 詩人などいらない。言葉など必要ない。僕が対峙しているのは、地球に生命の源を与えている、真っ赤な太陽だ。それだけで、充分、この世の全てを描き出せる。

「サークルのことは知らなかった。確かに、そんな風に勘違いされてたら恥ずかしいよね。だけどダサくたって、サークルの人にバカにされたって、時計の針は止まらないんだよ。ねえ、前を向いて。私を見て。ここに居るから。いくらダサくても、下心丸出しでも、信念を簡単に曲げちゃう人間だってわかっても、未だにその人を信じてる、バカな女が」

 この人は今初めて、本気で自分のことをけなした。

 なんとなくだが、そう感じた。

「あなたは私への罪に対する罰が欲しいんでしょ? だったら、それを決める権利は、非凡で創造的なあなたの罪を罰する権利は、私にはあるよね?」

 久しぶりに表情が生まれた。

 それは言葉で表現できる次元を超えた、真剣の向こう側だった。

 本当に、美しかった。

「私、内井芽結めいは、なんじが私に対して犯してきた全ての罪について、ある一つの条件を満たした見返りにおいて、ゆるすことを宣言する」

 取って付けたような尼僧風の言い回しで新たな戒律かいりつていそうとするも、一分経っても、二分経っても、彼女の口からその答えが出ることはなかった。

 しかし三分が経過する直前、「うん、決めた」という声と共に、その美しい顔に大輪の花が咲いた。

「これからずっと、一緒に居て」

 罰は「救い」となって、僕の罪を洗い流した。

 それが内井さんの、芽結さんの、誰にも遮ることのできない満天の光だった。


「うん、もう大丈夫! ごめんね雪乃。最近心配かけっぱなしで、今日も行けなくて。明日は、バイトだっけ。じゃあ日曜日は? 行ける!? わかった! じゃあ日曜日! またお店も行くね! あの娘も元気? そう! よかった! じゃ、また!」

 長い電話がようやく終わった。相手はおそらく、今日会うのを断ったという大学の友達だろう。

「なんで埼玉で起きた事件なのに、東京で色々処理されるんだろうね。めんどくさい」

 彼女はこれから東京の警察署に行かなくてはならないらしい。理由は明確ではないが、何でも地元の警察署の部署の関係上、そちらの方が都合が良いそうだ。いつの時代もお役所関係は面倒がつきものだ。

「ずっと一緒に居てって言ってた割には、もう離れ離れっすね。ちゃんと後先考えてから物言ってくださいよ」

「だってしょうがないじゃん。あんな色々あったんだから。警察行くなんて忘れてたの」

「行って何するんすか?」

「さあ。ああでもそういえば、カウンセリングが何とかとか言ってたから、もしかしたら警察じゃないかも」

「いやいや、それ、全然違うじゃないっすか」

「けどそれだったら、元気なとこ見せたら早く帰れるかも。早く帰れたら一緒にカラオケ行こうね?」

「ホント、あんなことあったのに、未だにカラオケ大好きなんすね……」

「はーあ、早く営業再開しないかなー。あいつもいなくなるし、一石二鳥だね!」

「さりげなく口悪くなってるし」

 たった二時間前の姿からは想像できない、まさに「女子」を存分にきょうじているような、そんな風情が今の彼女には宿っている。

「そういえばなんすけど、なんでそもそも俺だったんすか? 別に特別絡みが多かったわけでもないのに」

「私は今時の若い子みたいに、絡みの多さだけで人を判断しないのよ」

「何歳の設定なんすか。てか、急にボケんのやめてくださいよ。ビックリするから」

「ふふっ。それだって冗談じゃないよ? 実際絡みなんて少なくても、人間性なんてだいたいわかるし。だけどね、実から下心を感じなかったってのはホント。他の人は、碌に喋ったこともない人でもそういう目で見てることはすぐにわかった。あいつだって、誘ってくるだいぶ前から明らかにそういうの吹っ掛けてくるのわかったし。盗撮されてたことも、本当は気付いてたんだ。ただ面倒事になるのは嫌だったから、できるだけ家で着替えてきてたの。そしたらあいつ、遂に服盗みだしたんだよ? ホント最低だよね。今でも信じらんない」

「後半ほとんど愚痴でしたよ」

「あー、また逸れちゃったね。実際ね、大きかったのは近藤くんかな」

「え? どういうことっすか?」

「私、近藤くんとよく一緒にシフト入るじゃない? だからよく話すんだけど、近藤くん、実の話になるとすごく楽しそうで、それで実のいろんなこと知ったし、本当はどんな人なのか気になりだしたんだ。それが結構大きかったのかも」

 あいつは無意識のうちにライバルをサポートしていたのか。相変わらずとんでもないバカだが、今回は褒めてつかわそう。


 結局警察署だかカウンセリングの施設だかはわからなかったが、その場所に向かうための電車だという井の頭線の改札まで、彼女を見送った。ここに来たときと反対の吉祥寺行の五両編成は、平日午後の行き交う人々を夜のターンの行き先へと運んでいく。

 いつか二人で吉祥寺にも行ってみよう。その街もきっと、人々の巣の上で誰かの日常を支えている。

 だが今は、エネルギーの巣窟のようなこの街を出て、ほどほどに静かで追憶に溢れた、二人の故郷に戻りたい。


 生まれたばかりの赤い日常は、まだ、始まったばかりなのだから。

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