第二章 青常 火曜日

3 火曜日


 翌朝目が覚めたのは、9時少し前だった。9時にタイマーをセットしていたが、その音とは関係なしに鳴る前に起きた。それもあってか、やけに寝起きが良かった。前日の就寝前の心持と、翌朝の起床の円滑性は相関関係にあるという論文を発表するのに充分なデータは揃ってきている。と言っても、負の関係性がほとんどを占めるため、データをまとめているうちに鬱になりそうである。

 タイマーをセットしているのには理由がある。日曜日においとましたアルバイトのシフトが今日も入っている。大体週三日、日曜日と火曜日、木曜日のシフトである。日曜日と火曜日は10時開始で、日曜日は17時まで、火曜日は後にサークルの活動があるため16時半に上がらせてもらっている。

 一方木曜日は、予定では午前中に学校に行き、シフトは17時から夜勤の時間帯に変わる22時までになっている。精神的にはこの日が一番きつい。出席が必要な英語の授業が一限に入っているため早起きしなければならず、加えて前日の水曜日にもサークル活動があるため、大抵帰りが遅くなってしまう。飲み会が重なるときは、十中八九、翌日の英語の授業は欠席する運びとなる。まだ後期が始まってから半分も経っていないが、既に三回も欠席してしまった。確か欠席四回以上だと問答無用で単位が与えられないシステムだったため、まさにお尻に火がついている状態である。

 これも全て、あの忌々いまいましい大学生の慣習というやつの所為せいである。仮にこの単位を落とすことになったら、彼らのうちの誰かにその分の授業料を請求してやろう。あいつらと違って僕は、この大学の法学部の連中とコネがある。高校時代の知り合いの誰かに、損害賠償とか裁判とかに詳しい人間もいるだろう。そうでなくてもバカなあいつらなら、知り合いが法学部にいると言えば、怖気おじけづいて飯の一回分ぐらい奢らせることも訳無い。何も知らない西井に言えば、五千円くらいふんだくれそうな気がする。彼はこの大学の法学部の人間たちに対して、過剰な敬意を抱いている。

 だが高校時代、彼らの一部と同じ屋根の下で日々を過ごしていた僕からすれば、僕と彼らの違いなど、先生にびたか、ひたすら暗記することに成功したかどうかくらいしかない。もちろん本当に頭がいい人もいたが、僕が知っている限りではそんな人間は両手で収まる程度だ。残りの有象無象は僕と大差ないのが現実なんだ、ということを西井に打ち明けるのは、もう少し先にしよう。


 「すいませーん」という少し重い女性の声によって、僕の思考の湖は干からびていった。目の前に立っていたのは、夜の仕事上がりだと思われる派手な女性の二人組だった。この時間帯に客が来ることなどそうそうないので、完全に気が抜けていた。しかしそのことをぎ付けられるほど勘の良い人たちではなさそうだ。フリータイムを選択した彼女たちをスムーズに案内したところで、受付のフロアはまた静寂に満たされた。だが程なくすれば、唯一の来客である彼女たちの歌声が店中に響き渡ることだろう。

 平日の午前中、我々のカラオケ店では接客の仕事はほとんど行なわれない。来るのは先ほどのような仕事上がりのスタミナお化けと、僕のような本業逃避の大学生、後はYouTubeに歌声を投稿してそうな一人客が結構多い。パッと思いついただけで三例も挙げられ、普通に多いと思われたかもしれないが、実際の仕事は清掃などの雑務が中心である。ひょっとすると、夜勤よりもその面で店に貢献しているかもしれない。

 さらに言えば、日中は大抵店長が店内にいるため、下手なことはできない。察しはついているだろうが、僕は店長と折り合いが悪い。原因はおそらく遅刻や欠勤を繰り返す僕にあるが、それにしても午前中は、やたらと僕の作業ぶりを逐一観察しているような気分になる。説教を食らった回数の一覧表でも作れば、たちまち僕の名前はレディー・ガガやジャスティン・ビーバーに並ぶ著名なものになるだろう。それでも僕が勘当されないのは、社会に蔓延はびこる人手不足のお陰である。良い時代に働き手としての生を受けたものだ。

 休憩を終え午後に入ると、少しずつ客が増えてきた。たまに制服姿の中高生を見かけるのだが、彼らも大半は正規のルートでここに来ているのだと信頼して、特に確認もせず客として迎えている。

 14時や15時のような一般的には修学の時間に彼らを客とすることを、社会の常識からして慎重に取り仕切ることが、最近市の条例により、店の規約に加えられた。平たく言えば、学校をサボって来ている学生を客としてはならないということらしい。これによって先月から、16時以前に中高生と思われるティーンエイジャーが来た場合、その旨を逐一確認しなければならなくなった。

 だが先述の通り、僕はその工程をほとんどやっていない。単純に訊くのが面倒くさいのが主な理由だが、表面的には彼らの自由な権利を尊重し、華々しい青春の妨げを排除しているという自負を表明している。僕はあくまで彼ら味方だ。碌に青春を知らない頑固な大人達から彼らを守っているのだ。そうやってあおき抵抗を陰で支えていれば、いつの日かそのことに気付いた聡明な若人から、賛辞を送られる日がやってくるかもしれない。そのときはなんて返してあげようか。考える時間だけはいくらでもある。

 そうこうしていると、現実に制服の若者の来客が増えてきた。ふとレジ横にある時計を見てみると、既に16時を回っていた。同時に、内心ホッとしている。僕が高頻度で確認作業をおこたっているのは店長に筒抜けなため、それが発見される度に客の誘導後に小言を浴びせられるのは、未だに気分が悪い。正直小言で済んでいるのもどうかと思うが、そこはいくら違反に触れても客は客であるという利害関係の下、それ以上の深掘りはしないようにするのが暗黙の了解になっている。社会人も案外、僕らの心の内と大した違いはないことを実感するつかの間である。


 時計の針が16時20分を指したその十五秒後、一人の男子高校生がレジの前を素通りして奥に入っていった。まだ幼気が残る顔が一瞬だけ、僕に向けての会釈のために下に動いたのが見えた。それに反応して「ういーっす」という僕の声が発せられるまでが、毎週のこの時間に起こる風物詩である。そろそろ仲間内の誰かから、この現象の名前が付けられてもいい頃合いだ。おそらく今の相手の彼ですら、これを現象だとは思ってないだろうが。

 十分後、裏口から店の制服に着替えた彼が出てきた。

「今日もなんか怒られました?」

 開口一番、なかなか失礼なガキだ。そんな内心に表情の変化が表れないよう平然を保ちながら、同じトーンを意識して対応してやった。

「おめえも先生に怒られたんだろ、どうせ」

「てことは怒られたんすね。何やったんすか? また女子高生素通ししちゃったんすか?」

「してねえし怒られてねえよ。あ、正確にはしたけどバレなかったんだわ」

「ああ、ならセーフっすね。でもそろそろ下心でそれやってること、内井さんに言っちゃいますよ?」

「わざわざ内井さんに言おうとするとことか、やっぱお前って性格悪いよな。てかお前もほとんど確認してねえだろ」

「それブーメランっすよ。そもそも俺は時間帯的に確認しなくていいんすよ。俺まだ風間さんと違って高校生っすからね。店も俺基準なんすよ」

「知らねーよ」

 相変わらず俺に生意気な態度を取ってくるこの近藤という名前の高校生とは、お察しの通り、結構仲が良い。木曜と日曜は同じシフトに入っており、結果的に毎回会っていることになる。だが彼は僕より一日多い、週四日シフトに入っている。

 そのあふれた日に彼と同じシフトに入っているのが、先ほど名前が登場した、内井芽結めいという僕よりも二歳年上の女性である。綺麗に整えられた黒髪のポニーテールを携え、同時に眩しいという形容がピッタリなその美しい顔立ちは、近頃世間を賑わせている四十人以上で構成されたアイドルグループのセンターにいても遜色そんしょくないほどであると、個人的には自負している。

 彼女はこのカラオケ店でもう二年近く働いており、店長からも絶大な信頼を置かれている。自分を含めたこの店の人間誰もが彼女を尊敬し、そして慕情ぼじょうを抱いている。

「てか風間さん、先週、あ、先々週か。先々週の日曜日、俺休憩でいないときに、俺が内井さんで抜いてること言ったでしょ?」

 日曜日は僕ら三人がシフトに入っており、ついでに店長もいないので、気持ち的には最高な日である。その分一日中忙しいため、今日みたいな日の方が体的には楽なのだが、その疲れが危ない橋を渡ったように消え去るのが、内井芽結という存在の大きさである。

「え? なんのこと? あ、そういえば一昨日大丈夫だった?」

「話逸らさないでくださいよ。まあその一昨日っすけど、なんか気まずそうな顔してんなーって思って訊いたら、『近藤くんも、その、私でオナニーしてるの……?』って恥ずかしそうに言ってくるんすよ。マジで焦りましたけど、いやまあ正直、めっちゃ可愛かったっすけどね」

「あの人ホントピュアだよなー。マジで処女説あるわ」

「いやいや言いたいことそれじゃなくて、なんでそんなこと言うんすか。一瞬ホント気まずかったんすよ。まあでもなんでそんなダイレクトに訊いてくるかとも思いましたけど」

「あー違う違う。ちゃんと理由あんだって。なんか相談されたんよ、最近勤務中に服盗まれたらしくて。その流れでさ、近藤は内井さんで抜いてるけど、服盗んだりは絶対しないって言ったんよ。むしろフォローしてるじゃん。感謝しろや」

「いや絶対最初の部分いらんかったでしょ。あーでもそんなことあったんすね。ちょっと気になってたんすよ。最近寝不足気味なのか、元気ないっぽくて」

 下らない掛け合いをしていたら、退勤予定時間を十分もオーバーしていた。この間に客も電話も一つもなかったのは奇跡である。

「明日また内井さんと?」

「はい。でももう気まずくないっすよ。誤解っつーか、いろいろ話したら笑って流してくれましたし」

「なんだよつまんねー。結局良い方に転がっちゃってんじゃん」

「やっぱり悪意あったんすね」

 裏に戻り、作業をしている店長に「お疲れ様です」と言うと、特に何も小言を言われず、オウム返しのみだった。あれだけ二人で話し込んでいればさすがに怒られると思っていたが、店長はシフト調整か何かの作業で、パソコンに熱中しているようだった。

 そういえば久しぶりに今日一日、全く怒られなかった。本社に提出する報告書が溜まっているのだろうか。あそこまで店内に無関心な店長は初めて見た。

 私服に着替え終わり、帰り際にもう一度「お疲れ様です」と言ったが、返ってきたのはやはり「お疲れ様」という言葉だけだった。いつもはその日の反省諸々もろもろを言わされるのだが、ここまでくると少し気味が悪い。

 だが、どうせ僕には関係ない事柄だろう。レジにいる近藤にちょっかいをかけた後、店外へ足を運んだ。時刻は既に17時近くになっていた。火曜日にあそこまで近藤と話したのも、そういえば初めてだった。それだけ店長のチェックが甘かったということだろう。


 スマートフォンを取り出し、サークルの連絡係の女子のLINEに「遅れます」という文面を打ったが、七秒後に「休みます」という文章に変えた。近藤と内井さんの話をしたからか、店長に一度も怒られなかったからかはわからないが、とにかく気分が良く、気が大きくなっていたことがその勇気を生み出した要因だろう。部活じゃあるまいし、別にサークルの練習に行かなくたってペナルティはない。明日もあるわけだし、そのときにバイトで残業したとでも言っておけばいい。

 ただ今日のような日が続くのならば、来月には辞めようと思っていたこのバイト先も、まだまだ続けてもよさそうだ。あくまで内井さんがいることが条件だが。内井さんが辞めてしまえば、おそらくアルバイトの半分は辞めるだろう。僕もその一人だ。たぶん近藤は残るだろうが。

 夕食のとき、僕はいつもより饒舌じょうぜつだったそうだ。母から「今日何かあったの?」と言われ我に返ったときは、少し恥ずかしかった。次に内井さんに会えるのは日曜か。明日、サークル帰りにバイト先に寄って会いに行こうか。

 なんとなく、今なら作詞家になれる気がする。

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