第二章 青常 月曜日
2 月曜日
起きた時刻は8時42分だった。それを寝坊だと認識するのに、もう十分かかった。
だからと言って
台所にあった食パンを一枚トースターにかけている間、西井に「今日たぶん遅れるから席取っといて」とラインを送った。もしかしたら彼はまだ寝ているかもしれない。彼のアパートは大学から徒歩で行ける距離にあるので、僕より一時間遅く起きても授業には余裕で間に合う。ただ彼としては、大学を徒歩通学というのは味気がないらしく、アパートに寄った際にその近接性を
思いがけず、西井からの「オッケー」という返信は一分も経たないうちにきた。元々起きていたのか、それとも起こしてしまったのかはわからないが、いつものやり取りがリアルタイムで行なわれた。それに釣られて、妙に気持ちも落ち着いた。
その一方で、遅刻という概念が薄い大学の授業で戦わなくてはいけないのは、遅れて教室に入る際の周りの視線である。そんなものはあってないようなものだと理解はしているが、出席率の高い授業の場合、先生が話している最中に数少ない空いている席を探す作業は、若干の気まずさを伴う。そういった感性はまだ生きている。
インスタグラムやツイッターを横目に、マーガリンだけつけたトーストを口に入れていると、西井から追加の返信がきた。少し嫌な予感はしたが、ボーっとした頭はそれを排除し切れなかった。
「そういえばレポートどうなったん?」
牧歌的な学生生活を送った現社会人に、「当時のことで思い出したくないことといえば?」というネットニュースにありそうなアンケートを取れば、トップ5入りは堅い四文字を唐突に突き付けられた。そういえば昨日の寝る直前、なんとなく頭に浮かんだ気がするが、僕に搭載されている危機察知機能は、自然の生理的欲求を上回ることができなかったようだ。「ふつうに忘れてたわ」と無機質な返信を送り、その後は少しだけその授業について考えた。
仮にレポートが仕上がっていても遅刻することは確実なわけで、提出が授業の初めだった場合、今から終わらせたとしてもそれは水の泡以外の何物でもない。そうだとしたら割り切れるのだが、前期では授業の最後に回収したという記憶が
どっちにしたとしても、曖昧な記憶の存在が選択を躊躇させ、ストレスを生じさせているこの状況から抜け出すための方法を考えなくてはならない。これ以上西井に尋ねることも気が引けた。高校時代には気兼ねなく何度も尋ねていた友人はいたが、今となってはそれが
埼京線で新宿まで行き、新宿で京王線に乗り換え八王子の広大なキャンパスに向かう道中、僕はWordのアプリにひたすら文字を打ち込んでいた。とりあえずもがくことに決めた。ただその背景には、仮に提出が締め切られていたとしても、遅延などを用いてその網を突破できるのではないかという希望的観測に近い合理的思考があった。言い訳を考えるのが学生の本分だという自己啓発本が一時期流行っていたが、それに従ったまでだ。その著者に事情を話したら説得に協力してくれるだろうか。確かどこかの読者モデルだった気がする。
高幡不動でモノレールに乗り換えると、普段ならフェスの会場に向かう電車のように混雑しているはずの車内が、座れはしないものの、ドアにもたれかかれるほどに
ああ、今自分は、日本社会の満員電車問題の解決策がはっきりと頭に浮かんだような気がする。将来政治家になるというのも悪くないだろう。元アイドルやタレントでもなれるのだから、きっと自分でもなれるはずだ。明日辺り、高校までに習った選挙制度の復習でもしてみようか。大学の駅に着いてから教室に辿り着くまでには約十分歩く必要があるが、仮に僕が出馬したら、この状況を解決することを最初のマニフェストにしよう。
通常だとその間に知り合いと何度か会うが、今日はそもそも歩いている人が少ないため、さすがに誰とも会わないかと思っていた。しかし学食の付近を歩いていたとき、高三の頃クラスメートだった加藤という女子と会った。
彼女は当時クラスの委員長を務めていたが、真面目というよりは活発なタイプであり、クラスの快活的な男子とは大体打ち解けていた。同時に、授業開始から三、四十分遅れたこの時間に教室外をうろついていても、特に疑問が湧かないキャラでもある。そういえば、加藤も今から向かう授業を履修していた気がする。
「こんなとこで何やってんの?」
「いや、普通に授業行くんだよ」
「あれ?
「取ってるよ。今からレポート出し行く」
「え? 遅くない? 提出今日でしょ」
「そうだよ。だから今から行く」
「あー、ならギリギリ間に合うかもね」
「え? てか、もう出したの?」
「先週ね」
なぜ僕の周りには、無駄に計画性がある人間が集まっているのだろうか。彼女が先週提出したと聞くまでは、先ほど提出し終わって授業を抜けてきたのだと思い、背筋が凍りかけた。どうやら今はただ単にサボっているだけのようだ。
加藤は最後に、先を急ごうとする僕に向かって、ニヤニヤしながら
「そういえば、そろそろ童貞卒業した?」
「うるせーよ」
何か僕に関する噂でも聞きつけたのだろうか、やけに意味深な顔をしている。元クラスメートの挑発を表向きは軽くあしらい、
教室に行くまでにやるべきことがまだいくつかある。まずはデータにした文字群を実物にしなければならない。そのためには学部棟にある情報処理室に行き、スマートフォンとPCをつないで印刷する。自分用のUSBを持っていないため、レポートを書くときはいつもスマートフォンで仕上げ、このようにして印刷している。操作方法もすっかりマスターした。
実物を手にし、教室に向かおうとしたとき、あるものを忘れたことを思い出した。ホッチキスである。仕方がないので一旦
表紙を含め四ページの束になったレポートを携えて教室に到着したのは、授業開始から既に約一時間が経過した頃だった。ああ、授業のレジュメを印刷してくるのを忘れていた。せっかく情報処理室へ行ったのに。
二十秒ほど探すと、連絡を貰った通りの場所で西井が二つ分の席を確保していた。レポート提出日だからか、通常よりも密度が高い教室の一画で窮屈そうにしている。端の席を取ってくれていたので、辿り着くまでに苦労や息苦しさはなかった。おそらく彼は、授業開始の十分前には教室にいて席を取っていたのだろう。いつも西井に席取りを頼むと、後列の端というベストポジションを用意してくれる。本当にかけがえのない友人である。
席に着いて開口一番、西井は「レポート結局どうしたん?」と
彼が言った「逆に」というのは、「俺はそんな瀬戸際になるまで課題を放置したりしないから、ギリギリで仕上げるような状況にはならない」という彼のスタンスからくる前提が含まれており、「すげえ」という言葉には、「そんな状況になったら自分の非を認めて素直に諦める。そこまで
もちろんそんな嫌味を携えて言っているわけがないのはわかっているが、仮に国語のテストで、彼が言った「逆にすげえ」という言葉はどのような心情から発せられたかという問題が出れば、僕が今述べた答えは花丸を貰えるに違いない。無論、出題者は僕で、解答者も僕という根本から崩壊している試験問題である。どんなことを書いても正解だ。人の心情ほど断定が難しいものはない。不可能と言ってもいい。ああ言えばこう言うが成り立つ数少ない分野である。そんなものを平然とテスト問題で採用している文部科学省は、頭がおかしいのではないだろうか。
席に着いて十五分ほど経ったところで、僕はなんとなく西井に話しかけた。
「今日やっぱ、いつもより人多いよな」
「まあ提出日はいつもこうなるよね」
「あ、そういえばまだ提出って終わってないよね?」
「たぶん講義終わるときっぽい。てか終わってたら半分くらいはもう帰ってるよ」
「確かに。あ、そうか。だから最後にしてるのか。先生もいろいろ考えてんだな」
「教授な。まあでも実のためっていうのも半分くらいあるんじゃね?」
「あるわけねーだろ」
西井は基本的には先生の話をよく聞いているが、こういう雑談にも
そういう目で隣にいるこの同世代の男を見ていると、急に細胞の一つも一致していない他人であるという感覚に覆われた。僕にとって西井は重要な存在だが、西井にとっても僕は、大学生活を乗り切るにあたって重要な存在なのかもしれない。あくまで、他人というカーテンの仕切りを
授業が終わり、先生がレポート提出の合図を送ると、教室内の移動用の階段には
昼食を学食内にあるサークルの
三限、四限の授業を経て、16時半過ぎに大学を後にした。まだ家に着いていないが、なんとなくやり切った感があった。今日は一日が長く感じられた。西井とは三限の授業で別れたので、今は一人で帰っている。
朝ほどではないが混雑するモノレール内で、他の女子と一緒にいる加藤を見かけた。もう一人はたぶん同じ高校の同級生だろう。話したことはないが、見かけたことはある。なんとなく、彼女たちがいる方向から視線を
今日は疲れていた。先週の疲れを引きずってか、朝のレポート騒動のせいか、それとも永遠に付きまとっているものが、たまたま
やり過ごしに成功してから約一時間半後、実家に到着した。母からは真っ直ぐ帰ってきたことを少し驚かれた。昨日は寝起きで空腹感とも無縁のまま家庭の味に再会したが、今日は人並みに食欲が夕食を求めている。
風呂に入り、ゴールデンタイムのテレビを堪能した後、昨日と大体同じ時間に眠気に襲われた。しかしなんとなく、昨日よりもそれが心地良かった。理由ははっきりしている。
僕は人生であと何回この心地に浸れるのだろうか。そのためには何が必要なのか、今日の朝の電車内の一時間で、嫌というほど痛感した。
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