第四章 灰常 水曜日 夕方~夜

8 水曜日 夕方~夜


「お待たせ。はい、これ」

「ありがと。わあ、美味しそう」

 コンビニのホットスナック片手に、公園を歩く。それにしても、大きな公園だ。

「平日なのに、人、いっぱいいるね。カップルとか。あ、ボートもあるんだ」

「俺、普段この時間にここ来ないから、なんか新鮮だわ。人と来るのもあんまないし」

「私たちも、そう、見えるかな?」

 仕掛けてみたつもりだったが、彼は軽く笑うだけで、あまり反応してくれなかった。

「克月くん、歩き方、なんか癖あるよね」

 コンクリートのぎ目に合わせて歩く彼を見て、ふとそう思った。

「ああ、これ、昔から癖なんだ」

「ふーん、そうなんだ」

 私も彼の歩き方を真似してみた。

 オーバーにやり過ぎて、パントマイムみたいになった。

「バカにしてるだろ?」

「してないよ!」

 今度は彼が意識し出し、余計に変な歩き方になった。

「それって、ふざけてる? それとも、素?」

「もうわかんね」

 午前中まで降った雨に濡れた地面と、雨上がりの澄んだ空気が混ざり合い、世界は愛に満ち溢れている。実は、至る所に。

「克月くんは、サークルとかやってるの?」

「一応入ってるところはあるけど、あんま行ってない。基本的に週末だけだし」

「そうなんだ。私も、基本的には週末だけだよ」

「ボランティアだっけ?」

「うん。だけど、さっきの男も一緒だから、あの人が辞めないなら辞めちゃうかも。本当は続けたいんだけどね」

 こういうときは、真剣に聞いてくれている。

「入学してすぐさ、新歓とか、行った?」

「全然行ってない。バイトしてたらその時期終わってた」

「そうなんだ。私、一個だけ行ったんだ。インカレだったんだけど、人たくさんいたから、とりあえず知り合い作りたくて」

「へー。そこが今のとこ?」

「ううん、別のとこ。そこはなんか合わなそうだったからやめといた。でも時々、そこ入ってたら今頃どうなってたんだろうなーって、考えるんだ。もしかして、こんな風な生き方、してなかったかも」

「そこ、どんな感じのサークルだったの?」

「確か、レインボーキャンパスって名前だったっけ」

「え……」

 その名前を聞いた途端、彼は急に私の顔を見つめた。

「どうしたの?」

「よかった、そこ入らなくて。本当に、よかった」

 心から、私の心配をしてくれている。

「え? どういうこと?」

「あくまで聞いた話だけど、そのサークル、相当性質たちの悪いヤリサーらしい」

「ヤリ、サー、って?」

「知らなくていい。まあ大雑把おおざっぱに言ったら、性質の悪い奴らがいっぱい集まるようなとこだよ。大学生だけじゃなくて、OB含めて」

「そんな、危ないところなの?」

「俺も新歓コンパ行った風間っていう友達から聞いただけだけど、もうその時点でヤバかったらしい。後々聞いた噂だと、コンパの時点で気弱そうな女子いたら無理やり飲ませて、そのままホテル連れてって、裸の写真とか撮って、弱み握って強引に入会させるとか」

「嘘……」

「あと、グルでも色々やってるらしい。仲間に気に入った女子をそういう状況にしてもらって、助けて恩を売って迫る、みたいな。まあ、ヤラセ、ってやつか」

 少し、気分が悪くなった。心当たりが、あり過ぎる。

「ごめん。こんな話聞いたら、気分悪くなるよね?」

「ううん、続けて。もう少し知りたい。もし入ったら、どうなるの?」

「あくまで噂だよ? でもそれだと、そうやって入会させられた女子たちが、抵抗も出来ずに回されて、結局避妊なんかしてないから大学辞めることになった人が何人もいて、最悪のケースだと、サークルの資金稼ぐために身体売らされたり、AV出させられる人もいるって。しかもOBに政界の大物の息子がいるらしくて、サークル自体そいつに守られてるとか」

 私、もしそんなとこ入ってたら、骨のずいまでしゃぶり尽くされていた。身体だけどころか、もう何も残っていなかった。それに、彼とも、出会えてなかった。

「新歓は華々しくやるから、人は集まるんだって。地方から出てきて知り合いいない人とかターゲットにして。でもよかったよ、本当に。彩花が無事で」

「ありがとう。私も、克月くんに出会えてよかった」

「いや、俺は何も……」

「詳しいんだね、そういうの」

「まあ、附属校の知り合いは多いからね」

 私は組織の道具になりかけた。そうやってまんまと、あの人に利用された。

 でもそのお陰で、今、ここにいる。


「克月くん、地味に毎回、ちゃんと講義出てるでしょ?」

 公園を一周しても、話は尽きない。

 さっきは少し真剣な話になったが、今はまた、日常に戻っている。

「うん。一応出てるけど、それが?」

「いや、珍しいなー、って思って」

「それは全国の真面目な大学生に失礼でしょ」

「でも実際、思ってるでしょ? 自分、少数派だって」

「めちゃくちゃ思ってる」

「ほら! ちなみに私も!」

 ただ普通に学校に通っているだけなのに、こんなに盛り上がることがあるんだ。

「あのさ、金曜の三限の講義、あるじゃん?」

「心理学?」

「そうそう。俺、あれ地味に好きなんだよね。たぶん、意味解らないと思うけど」

「もしかして、自分のペースで講義内容進められる、みたいな感じ?」

「え!? マジか! 俺、この話したの、初めてだよな!?」

「うん! あれでしょ? 他の講義だと教授の話についていくのが大変だけど、あの講義だと、そういう緊張感みたいなのが全くない、みたいな」

「うわー! こんなアホみたいなこと考えてる人間、他にいたんだ!」

「なんで私まで勝手にアホにされてるの!?」

 その教授にとっては失礼な話だし、他の人は、何を言っているか全く解らないかもしれない。

 でも一つだけ言える。この瞬間、すごく楽しい。

「そういえばさ、一昨日の四限の講義のとき、寝てたでしょ?」

 彼はまた、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

「……え? なんのこと?」

「とぼけたって無駄だよ。俺、はっきり見たからね」

 うわ、見られてたんだ。恥ずかしい。

「たぶんそれ、人違いじゃないかなー?」

「ふーん。素直に認めるなら、あの日のレジュメ、見せてあげてもよかったんだけどなー」

「え!?」

「結構大事なこと、言ってた気もするんだけどなー」

「うう……、寝てました……。隠してすみません。だから見せてください」

「嘘嘘。大したこと言ってなかったよ。別に見せるけどね」

「なんなの! もう!」

 なんなの、このやり取り。信じられないくらい、時間が過ぎるのがゆっくりに感じる。


「彩花って、今一人暮らしなんだっけ?」

「うん」

「どこ住んでるの?」

 二周しても、話は尽きない。そのうちでいいから、沈黙も味わってみたい。

 18時近くなり、辺りは段々と暗くなってきた。手も繋がず、ただ並んで歩いているだけ。

 それでも、たまに吹く冷たい風が、二人を近づける。

「調布、ってとこ」

「え!? 調布!? へー、そうなんだ!」

 この反応、見覚えがある。できれば思い出したくない、そんな記憶。

「……克月くんってもしかして、映画とか、好き?」

「え? 映画? いや、ほとんど見ないけど、なんで?」

「あ、そうなんだ」

 まさかの見当違いだった。

「調布って一応、映画の街って言われてるらしいんだけど、前に映画好きの人が調布にすごい反応したから、克月くんもそうなのかなー、って」

「あ、そういうことね」

「でも逆に、なんでそんな反応したの?」

「ああ、あの辺にでっかいスタジアムあるでしょ? 俺、あそこよく行くから」

 このパターンも、聞き覚えがある。ていうか私も、昨日行った。

「もしかして、あそこのサッカーチームのファン、ですか?」

「そうそう! あ、チーム知ってるんだ! なんか、すげえ嬉しい!」

 出会ってからの中で一番、私に興味を示してくれている。

「試合があるときはほぼ毎回行ってるから、駅はあんま行かないけど、近くにはめっちゃ行ってるんだよね。今度の日曜も行くし」

 「私も行ってみたいから、今度、連れてって」、言いたくても、言えなかった。そこまでの勇気は生まれなかった。今は並んで歩いているだけで、充分、幸せ。

「私、あの辺にある喫茶店でバイトしてるんだけど、試合の日は結構混むんだよ」

「へー、やっぱそうなんだ」

 「今度、試合の後来てよ」、言いかけて、やっぱやめた。

 もし、雪乃さんと仲良くなってしまったらどうしよう。私なんか、すぐ隅にやられる。

 いや、雪乃さんなら私の気持ちを察して、上手く取り持ってくれるかもしれない。「今度、三人で行こう!」、なんて言って、自然に連れてってくれるかもしれない。

 でもそうなっても、「次からは二人で」に彼と私が選ばれる確率は、限りなく低い。どう考えたって、同じ趣味を持つ者同士が、より仲良くなるに決まってる。そのうち二人は、日本中のスタジアムに行きながら、愛をはぐくむんだ。

 違うよ。なんで私、勝手に雪乃さんのこと悪者にしてるの? こんなことばっか考えてるから、いつまでたっても、本当に言いたいこと、言えないんだ。

 こんなに、近くにいるのに。

「……ん? なに?」

 少し後ろを歩いていた彼が、私を見つめていた。

「……いや、その、何でもないよ」

「嘘。だって、不自然に私のこと、見てたでしょ?」

 変なことを考えていたから、理不尽に強く当たってしまった。私、本当にすぐ感情に流されるな。こんなことで彼に嫌悪感持たれたら、さすがにもう立ち直れない。

 お願い。彼の考えていることが、私の想像と違いますように。

「言ったら怒りそうなんだもん」

 怖い。もう十中八九、私の想像通りだ。

 でもよく考えたら、こんなに内面がグチャグチャな女、嫌われて当然だよね。やっぱりあの人の言っていたこと、的を射ている。中身のない身体だけの、あのサークルにピッタリな女。今からでも入るの、遅くないかな?

「なによ。そんなこと言われたら、余計気になるじゃん」

「わかったよ、言うから。……でもマジで、怒らないでね?」

 なんで私、こんなに不器用なんだろう。

 ありがとう、克月くん。少しの間でも、一緒に居てくれて。本当に、楽しかった。行ってみたかった井の頭公園にも行けて、周りの人は私たちのこと、カップルだって思っただろうな。それで充分。最高の気分を味わえた。

 でも、だめだ。この味、病み付きになってる。

 これで終わりなんて、嫌だよ。また、会いたいよ。二人でまた、吉祥寺行の井の頭線に乗って、ここに来たいよ。してみたいこと、まだたくさんあるのに。

 これで、終わりなんて……

「髪型、前の方がよかったなあ」

 え?

「ごめん。やっぱ今の忘れて」

 髪、型?

「そうだよね。せっかくイメチェンしたのに、こんなこと言われたら、傷つくよね。ホントにごめん」

 もしかして、彼が私に思っていたことって──

「前の方が……、黒髪の、ポニーテールの方が、良かった……?」

「う、うん。俺は、ね」

 思わず立ち止まった。それに合わせて、彼も立ち止まる。

 振り返れない私は、彼に背中を向けてしまっている。それでも彼は、優しく語りかけてくれた。

「でもホントに今の髪型すごい似合ってるから、さっきのは気にしないで──」

「克月くんは、その、ポニーテールの方が、好き?」

「う、うん」

「そういう、趣味?」

「……そう言われると恥ずかしいけど、そう、なるのかな」

 振り返って、彼と目を合わせた。一瞬逸らされたが、すぐに合わせてくれた。

「やっぱり、噂通りの変態だね」

「え?」

 私のこと、見てくれてたんだ。

「一つだけ、訊いてもいい?」

 勇気が出た。一番訊きたいことを、訊く勇気が。

 確信が生まれた。一番言いたいことを、言っていい確信が。

「私のこと……、どう思います?」


「どう思うって……。えっと、そうだな……、」

 お互い、大きく息を吸い込んだ。

「変な意味じゃないの! 私、ずっと講義で前の方座って、教授とかとも仲良くしてて、その、悪い意味で目立つ存在だったでしょ? それで陰口言われるの嫌になって、今は後ろの席座って、たまにサボって、しかも髪、こんなにしちゃって。どう考えても、浮いてるでしょ? 変でしょ? 余計わらわれてるでしょ? だから、こんな私、克月くんはどう思ってるのかなって……」

 急に小さくなった私を見て、彼は戸惑った。それでも、やめるわけにはいかなかった。

「さっき、あのサークルの新歓行ったって、言ったじゃない?」

「うん」

「私あのとき、実は、ホテル連れてかれそうになったんだ。お酒いっぱい飲まされて」

「え……」

「大丈夫! 一応、それは回避できた。……でもね、そのとき助けられたのが、さっき大学で克月くんが追い払ってくれた、あの男なんだ」

「そう、だったんだ」

「この前の日曜日、そいつに言われたんだ。『お前は周りの人間困らせるだけの、身体だけの最低な女だ』って。あ、さっきも言われたか」

「彩花……」

「実はね、私、もう一つ、言わなきゃいけないことがあるの」

「言わなくていい」

「私、処女じゃないんだ。それも、小学生のとき。同級生の男の子にね、無理やり──」

「彩花!!!」

 たくさん人がいた。カップルも、サラリーマンも、学生も、老人も、親子連れも、外国人も、そして、私たちも。

「いいんだよ、全部言わなくても。今までの人生、全部受け入れてもらおうとしなくたって、いいんだよ」

 たくさんの人たちがいる中で、見ている中で、初めて、手を握られた。

「真面目で頭良いのに面白くて、色々言われてるのわかってるに、半年も独りで頑張れるぐらい強くて、それ以上に優しくて、それ以上に、美しい。ショートヘアも、ポニーテールも、俺はポニーテールの方が好きだけど、どっちも最高に美しい。それが彩花だ。それで充分じゃないか」

「でもそれは……、皮被った嘘の私で……、本当は、弱くて、みにくくて、心も身体も汚れてて、結局最低で……」

「だったら、弱くて、醜くて、心も身体も汚れてて、最低な彩花を受け入れるよ」

「私を、知らなくても……?」

「知らなくても、受け入れる。だって、ここにいるんだから」

 握る手が強くなった。

「正直に言う。俺はずっと、彩花を見てた。前にいる彩花を。たまに友達との話題にするときもあって、そのときは陰口みたいになったこともあった。そのことは、本当に申し訳なかったと思う」

 そんなことない。私は、バカにされて当然だった。

「その分、たくさん君のことを考えた。君が本当はそういうのが苦手で、無理してやっていたことも、なんとなく感じてた。だからこそ、余計にすごいと思った。いつか話してみたいと思ってた」

「……すごくないよ。だって、やめられなくなっただけなんだから」

「それでも間違いなく、彩花はまぶしかった」

 そんな素直に褒めないで。そんなに優しくしないで。

「最後に一つだけ、聴いてほしい」

 涙腺が一つずつ崩れていく。

「松井彩花は、強くて、美しくて、心も身体も綺麗な、最高の女性だと思います」

 もうやめて。それ以上あなたの言葉を聴いたら、壊れてしまう。

「これが、俺の答えです」

 もうダメ。限界。

「ごめん。お手洗いに……」

「いいよ。ここで」

 持っていた傘を放り出し、彼の胸に飛び込んだ。

 その身体を、柔らかい手が包んでくれた。

 五分、いや、十分はそのままだった。本当に、スッキリした。これが噂に聞く、嬉し泣きってやつなのかな。おそらく、最初で最後。

 ううん、そうさせるわけにはいかない。私はもっと、人生を堪能したい。


「明日は、一限から?」

「うん。だけど、たぶん行かない。夜遅くなりそうだから」

「いいの? 俺いないけど」

「大丈夫。私、教授に気に入られてるから」

「この短時間で随分メンタル図太くなったな」

 あれから幾分いくぶんの時が経ち、今日の終わりが刻々と近付いてきた。少しだけ顔を覗かせた月が、少しだけ微笑んでいる。傘はあれ以来、失くしてしまった。

 二人はまだ、並んで歩いているだけ。手も繋がず、頭に付いた落ち葉を取ってあげることもなく、ただ、並んで歩いていた。

「美容室、間に合いそう?」

「うーん、たぶん。いや、やっぱ微妙かも」

「そんなにギリギリならキャンセルしちゃえば?」

「いいの。戻すって決めたんだから」

 今は公園を出て、吉祥寺駅の井の頭線の改札口に向かっている。いつも、彼が使っている改札口だ。

「克月くんは五限終わりだと、いつもだいたいこの時間には吉祥寺着くの?」

「ちょっと早いかな。普段はこの時間だと、まだ高幡不動着くか着かないかぐらい」

「そうなんだ。じゃあ今から帰ったら、授業サボったのバレてお母さんに怒られるかもね」

「実家暮らしをそんな風にいじるなよ」

 エスカレーターを昇り、改札の前まで到着した。改札の先には、井の頭線が二本、待ち構えていた。一つは各駅停車、もう一つは急行だった。

「あれ、乗るやつ?」

「あ、そうかも」

 乗ろうとしている急行は、まだ三、四分ほど余裕があった。

 ただ私にとって、余裕という言葉は不適切である。

「じゃあ、またいつか」

「うん。また、いつか」

 各駅停車の方が、先に出発した。急行はまだ、待ってくれている。

 背中を向けた私を、彼はまだ、待ってくれている。

「……あの、さ」

 たぶん、私の声だ。

「今度の日曜日、試合、見に行くんだよね? あのスタジアムで」

「ん? ああ、まあ」

「私も……、行っていい?」

 やっと、言えたよ。

「え……? まあ、いいけど」

 やっと、叶ったよ。

「もしかして、邪魔?」

「そんなことないけど、もしかしたら、初めてだと退屈しちゃうかなーって思って」

「私だって、一回ぐらいはサッカー見たことあるよ。生は初めてだし、ルールもいまいちわかんないけど」

「じゃあ、色々教えるよ。また来たくなるように」

「そうして」

 何が「そうして」よ。本当はめちゃくちゃ嬉しいくせに、強がっちゃって。

 だけど、克月くんも嬉しそうだな。この隙にもう一個、わがまま言っちゃおうかな。

「ね、お願いがあるんだけど」

「なに?」

「当日、調布駅から一緒に歩いて行かない? スタジアムまで」

「歩いて? 結構距離あるよ?」

「今日、どれだけ歩かされたと思ってるの?」

「まあ、それもそうか。歩きたいって言ったの、彩花の方だけどな」

「あともう一つだけ」

 本当は二つある。だけど、同時には選べない。

「試合終わった後さ──」

 一つは、そのまま私の家に来てほしい。そのまま、時間が許すまで、一緒に居たい。

 それは、またのお楽しみにする。

「また、ここに来ていい? 今度は駅の方にも、行きたいから」

 また、一緒に来ようね。この、素敵な街に。

「彩花が、良いなら」

 吉祥寺行に乗って。


「ごめんなさい! 遅れてしまって」

 勢いよく入った自動ドアの先に待っていたのは、昨日会ったばかりの美容師の人だった。

「あ! 松井さん! よかったー、いつも時間よりも早く来てくれるから、今日は事故にでも遭ったんじゃないかって心配してたんですよ!」

「ごめんなさい、本当に。お待たせしちゃいましたよね?」

「大丈夫ですよ! たかが十分くらいですし、あと前のお客さんが長引いて、ついさっきまで手離せなかったんですよ。だから、ちょうどよかったです!」

 最後の心配の種が消えた。もう今日に、思い残すことはない。

「それよりどうされたんですか? もしかして昨日、何かご希望に添えない部分が……」

「いえいえ! 違うんです! 完全に私の問題なので、気にしないでください!」

 もし逆の立場だったら、予約が入った時点で一日中憂鬱ゆううつだっただろうな。

 そんなことを、何でも言い合える相手ができた。手の届くところに。

「あ、そうなんですね! よかったー! もう不安で不安で」

「そうですよね。本当、すみません。こんな非常識なことしてしまって」

「いえいえ! それで、今日はどうされます?」

 さようなら。たった一日半の付き合いだったけど、楽しかったよ。オシャレで、新鮮で、続けていれば都会でもやっていける、そんな自信を与えてくれた。

 それでも私は、やっぱり、

「黒に、戻してもらえます?」

 自分らしく、生きたい。

「え? ああ! わかりました! でもいいんですか? せっかく思い切ったのに」

「いいんです。やっぱり、黒の方が自分らしいかなって。自分らしく生きるって、決めたんです」

 いつかまた、雪乃さんや葵さん、そして憧れのあの人にえたら、訊いてみたい。少しは成長できたかって。少しはあなたたちのような、強くて素敵な女性に近付けたかって。そんなこと訊かれても困っちゃうだろうけど、一つだけ、はっきりしたことがある。

 私はやっと、灰色から抜け出した。何かを得るために何かを犠牲にし、そのために、何かに悩む。そんな迷いから生まれた灰色の日常から、ようやく抜け出した。

 じゃあ今、私の日常は何色だろう。いや、自分で決めなくていい。自分らしく生きれば、必ず、何かしらの色が付く。必ず、自分色の行き先に辿り着ける。

 だけど強いて言うならば、私は白を選ぶ。

 なんでかって? 答えは一つ。画用紙は真っ白の方がいい。


 これから、思う存分、二人でえがこう。新たな日常の色を。

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