第一章 白常 金曜日
3 金曜日
翌朝、8時にセットされたアラームは十秒ほど鳴り、口を塞がれる。その十秒後には既に、身体はベッドから消えていた。前日にすんなり眠りに落ちると、翌朝の寝起きが良くなるという法則が生物学的にあるのだろうか。
のんびり朝の支度を済ませ、9時18分頃に家を出る。なんでも余裕を持ちたがる僕は、家から定期区間の始まりである吉祥寺駅まで十二、三分で着くにもかかわらず、9時37分の電車に乗るためにこの時間に家を出ていた。なので、大体ホームに着いても電車の姿はまだなかったが、始発であったためホームで待つ時間は比較的短く、座る席も選び放題だった。この時間の始発駅では席に座ることへの抵抗は無く、むしろ座らない方がマイノリティである。
次いで目的地となる大学に向かうため、明大前で都心からどんどん遠ざかっていく電車に乗り換える。ここでも満員電車とは無縁だが、確実に席に座れるかというと、そうではない。大体調布辺りになると空き始めるが、次の乗換駅である
高幡不動からはモノレールに乗り換え、八王子市にある大学の名前が付いた駅へと向かう。しかし、このモノレールがなかなかの混雑具合なのである。いくら都心の雑踏からは切り離されている地区とはいえ、
我々の学校は日本でも有数なマンモス大学という訳ではなかったが、八王子という郊外の立地を惜しげもなく用いた面積は東京では屈指のものであり、それに従い、一つのキャンパスが抱える学生数も相当なものであったと思う。また同時に、広大な土地の隣にも違う大学があり、その大学の学生も同じ駅を最寄りとしていたことも、モノレールを膨らませた原因である。何より、このモノレールには構造上、車両が四つしかない。これが都下のほんの一画を、朝の上りの中央線の車内に変貌させた一番の要因である。
今、僕が乗っているこの車両も、講義の開始時間にピンポイントということで、髪の色や服装が
目的の駅に到着すると、車内は昼間の八王子の様相を取り戻す。その平穏を体感することなく、主流に乗って四年間身を預ける予定である建築物へと向かう。
入口で「おはようございます」と挨拶の言葉を送ってくれる用務員の人に
「よっ」と言って並んできた人物は、高校時代の同級生の風間
だが、彼らと会話をするかは別である。大学内にいる知り合いのうち、会話をするのは半分にも満たないだろう。特に自分から話しかけにいくような親しい人間は、もうその半分ほどである。知り合いに気付いても、気付かぬふりをするか、相手に気付いてもらうのを待つかというような馬鹿馬鹿しい受動性を身に付けたのは、ちょうどこの頃だった。
ただ今日に関しては、稀なパターンを引いたようだ。横に並んだ知り合いは高校時代同じ部活に所属し、なおかつ三年生のときに同じクラスだったので、話すことには抵抗のない存在だった。
彼は開口一番、「昨日バイトクビになった」と言い、驚嘆のリアクションを誘った。
「何したん?」
「遅刻しまくったのと、あと廃棄の商品食ってたのバレて居づらくなった」
「それクビじゃなくて自分で辞めただけだろ」
「まあ確かに」
別にどっちでもよかったが、なんとなくツッコんでしまった。この後彼が友人たちに「クビ」という言葉を使い続けることで、会話により張りが出る機会を奪ったとも考えたが、おそらく
その後も取るに足らない受け答えを繰り返しているうちに、教室のある棟の付近に
四階のフロアまでを階段で登り、教室の前まで来て、前の授業が終わるのを待った。高校の延長のような英語の授業は特別難しいわけではなかったが、英語や第二外国語などの語学の授業は大学のカリキュラムの中では稀少な少人数授業だったため、気が抜けなかった。
また、第二外国語は入学前に自動的にクラスが編成されたのだが、英語の方はどの教員の授業を履修するかは選択制だったので、
何を血迷ったのか、選択する時分の僕は、二つの必修のうち、両方を人気のある教員に応募した。元来抽選という制度を人一倍恐れていた僕からしたら、考えられない決断であった。
しかしこのときの一大決心が功を奏し、両方の抽選で当たりを引いた。抽選の模様を
11時から始まる二限の授業が終わり、学内の学修活動は一旦停止する。俗にいう昼休みというやつだが、この時間に多くの大学生は自分の立ち位置を感知する。混雑する学食の席を勝ち取り友人や恋人と過ごす者、次の科目が行なわれる教室で過ごす者、食事が禁じられた図書室や情報処理室で作業をする、または時をやり過ごす者、午後の課程を後にして学校を去る者、骨休めの過ごし方は宿る生命の数だけ存在する。
入学して一ヵ月で世の大学生の生き方を諦めた僕にとって、昼休みの過ごし方は最初の難関だった。本気で探せば誰かしらと時を共にすることもできたが、彼らには大抵、連れや別のコミュニティが付属していた。
その一番の要因がサークルの存在である。サークルは学校外のもののみだった僕は、大学での人脈は高校時代の知り合い以外、無も同然だった。しかしその知り合いたちは、新たなコミュニティを構築し、最後の青春を
このようにして単独の日々を送っていたわけだが、案外この様式は性に合っていた。そもそも大学という組織は、相互という方式に軽薄的である。管理課と個人を結ぶやり取りのほとんどがシステマティックに成り立っている。彼らが僕らについて知っているのは、名前や住所といった情報、フィルターを通した風貌、それから学業の副産物として発生する評価ぐらいだろうし、僕らがどのような過程を経てその評価に行き着いたのかということも、彼らは知る
だが僕は、決して一人で大学生活を乗り切っているわけではない。毎回の講義で取るノートを共有する代わりに、僕の知らないコミュニティで手に入れられた過去の試験問題をお裾分けしてもらうといった関係が自然にできていた。講義に通うことを苦としなかった僕にとって、領域外にあるそのブツは石油も同然だった。逆に言えば、大学生の中には通学することが石油である者もいる。
自由という制度は時代が進むにつれて、止め処なく拡大解釈されているみたいだ。なんにせよ、僕としてはウィンウィンな関係であることに変わりはない。彼らの価値観が今後も変わらないことを祈るばかりである。同時に、それを祈る主体が社会ではないとも願う。
「署名にご協力お願いします! こんな一部の人間が得する行為を、一部の人間の意思で決定してはなりません! 絶対に止めましょう!」
昼休み、キャンパスを行き交う人々の中で、数人の男女がビラを配りながら何かを主張していた。早く昼飯を食べたかったので足を速めると、ちょうど目の前にそのビラが一枚飛んできた。誰かが貰った後に捨てたのだと思いスルーしようとしたが、あまりにも目の前に落ちてきたため、思わず拾ってしまった。
するとメンバーの一人と思われる、茶髪でショートヘアの眼鏡をかけた女性が、こちらに駆け寄ってきた。
「すみません、それ、風で飛んじゃって。ありがとうございます!」
このときまでは、拾ってよかったと思っていた。
「よかったらそれ、貰っていただけます? あっ、でも落ちたのじゃ嫌ですよね? 新しいの差し上げるので」
「ああいえ、これで大丈夫ですよ」
「そうですか!? ありがとうございます!」
紙面に目を落とした瞬間、嫌な予感がした。
「じゃあこれで」と退散しようとしたが、微妙なリアクションを勘付かれたのか、彼女に尻尾を掴まれた。
「もしかして、法学部の方ですか?」
「え? ああ、はい」
「でしたらこれ、ご存知ですよね?」
「まあ一応」
「おかしいと思いません? こんなの、大学の偉そうな連中が、目先の利益に釣られてやったに決まってますよ」
何がおかしいのかはよくわからないが、一つ言えることは、彼女は怒っている。さらにはその怒りを僕にぶつけている。綺麗な女性だと思い、中途半端に話を合わせたのが
「でも僕、この頃にはもう卒業してると思うんで」
「そういう意識じゃダメですよ! せっかく大学入ったんですから、自分の頭で考えないと! 八王子に思い入れとかないんですか?」
「ねーよ」と心の中でツッコんだが、この心中は察してもらえなかった。なので彼女らと同じく、主張することにした。
「あーすいません。ちょっと友達待たせてるんで、そろそろ失礼します」
「あっ、そうだったんですね。ごめんなさい、お時間取っちゃって」
「いえいえ。じゃあこれで」
「よかったら連絡先交換しません?」
「え? いや、ホントに急いでるんで、すいません」
「そうですか。よかったらお友達にもビラ見せてあげてください!」
最後の一言は聞こえていたが、反応はしなかった。こうして僕は、漸(ようや)く、一人の時間を取り戻した。
彼女と別れて数歩、足早を元に戻した。そうして辿り着いた友達がいるとされる場所は、次の講義の教室である。僕は昼休み、大抵学食内にある売店で購入した簡易な昼飯を
このようにして僕は、大学生活最初の難関を突破した。そういえば売店で思い出したが、朝会った彼も、一昨日くらいに売店の列で見かけた気がする。徐々に同じ考え方の人間が増えると、そのうち教室内も窮屈になるのだろうか。いや、あれは気のせいだろう。彼みたいな人種は、昼休みが終わっても学食に入り
金曜日の昼休み後の三限は、出席率が
加えて教授は私語以外を
しかし僕は、真面目に参考書を開き、内容を読解していた。それどころか、参考書の先の箇所を読み進めることさえしていた。この行動を異端のように扱うこと自体おかしいのだろうが、事実、あの教室内で参考書を開いている者は少数派だった。それ故、前列に座る人間など絶滅危惧種である。全ての講義で前列に席を取っているポニーテールの女性が今日も前列にいたが、彼女以外のほとんどが、僕を含めて半分より後ろの席で羽を伸ばしているのが今日この頃である。
かと言って、少数派の僕ら、及び彼女がこの教室内で浮くことはない。当然と言えば当然だが、世の中はそこまで腐り切ってはいない。だが実際は、この教室内に限り、誰も他人のことに関心がなかったというのが落としどころだろう。よほど余裕のない者でなければ、そういう意識を持つ年頃は
金曜日は一昨日と同じく五限まで授業があるため、家に帰るのは大体19時半前後になる。帰りの京王線は上りにもかかわらず、調布ぐらいまで来ると乗車率は一〇〇%を越えてくる。下り方面は想像したくもない。
車内は世の中の常流に逆らっているためか、様々なカテゴリーの人々が慣性の法則に身を
同時にもう一つ、背筋が伸びることを思い出した。彼女から貰ったあのビラを、教室に置いてきてしまったのだ。なぜそんなことを懸念するのか、理由はただ一つ、僕はあの紙に、暇つぶしの
しかし電車に揺られながら、妄想好きな僕はこうも考えた。誰かがそれを紙ヒコーキにして、学校を飛び出し、街中を飛び回り、世界のどこかで密かな都市伝説になることを。
そして気の利いた誰かが、僕のところに辿り着くことを。
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