第一章 白常 木曜日

2 木曜日


 翌日は空白と言ったが、厳密に言えば正解じゃない。午後、それも17時からコンビニのアルバイトが入っていた。しかしシフトは22時までの、たったの五時間だ。

 一日の予定としては達しないほどの微々たるものである。それでも僕はこの五時間のために、一日を用意する。もうあと三時間でも伸ばすものなら店長としては助かるのだろうが、こういうときに限って、僕は学生の身分を利用する。どうせ他の空き時間も、前日に出た英語の課題を終わらせるだけで、大した活用ではない。動機はただのエネルギー確保に過ぎない。そうは言っても、これが僕の生き方なのだから仕方ない。動機のことは店長に言えるはずもないが、今後それを詰問きつもんされることもないだろう。悟られたとしても問題はない。もしそうなっても、「今時の若者」に紛れればいいだけだ。


 僕の勤めているコンビニは、所属しているメインの店舗と、たまにヘルプで入る店舗の二種類があり、今日はヘルプの方の店舗だった。だがその二店舗には、用いるエネルギーに大きな差がある。

 まずは敷地面積。通行量の多い道路沿いに面していたメインの方には、車が十台以上も停められる駐車場があり、それに従って店内も広かった。店内が広いということは、取り扱う商品の数も自然と増える。そうなれば管理する分野が増え、レジ打ち以外の仕事も多かった。さらに客数も、周辺にライバルとなるコンビニがなかったためか、車で来る客も含めかなりの数がきた。ほぼ毎回来る常連客も、二十か三十ほどの数の顔を記憶している。本当は違反なのかもしれないが、お小遣いをくれる老人の常連客もいた。お小遣いと言ってもコーヒー一杯分の百円程度だが、節約のために一駅分くらいなら平気で歩くケチな僕にとっては、ありがたい臨時収入だった。

 一方ヘルプで入る方の店舗は、敷地面積も客数もメインの店舗と比べればだいぶ小規模だった。敷地面積はメインの三分の二ほどであり、また客数も西荻窪駅近くの立地にもかかわらず、入り組んだ場所にあったため、店内に五人以上の客がいることはほとんどなかった。駅近でありながらここまで客が少ないという事実は、僕からすれば一年に二、三度ほど起こり得るスポーツ界の奇跡と同じくらいの衝撃だった。

 はっきり言えば、仕事量の少ないヘルプの店舗の方が気楽だった。たまに時給を返上しても妥協できるくらい、暇な時間帯もあった。暇の怖さをまだ知らない僕は、その時間をありがたく受け入れていた。したがって、今日の勤務は気楽だった。

 だが僕にとって最も精神的な負荷が軽重する要素は、相方の存在である。僕の勤めているコンビニでは、同時間にシフトに入る人数は基本的に二人だった。よって相方の存在は、その日の仕事での動きを大きく左右する。仕事と言っても大したことはないが、人間の意気というものは、そういう要素で簡単に上下する。

 かと言って、特別嫌な同僚もいなかったので、最も気にしている要素とつづったのは嘘になるかもしれない。最初は知らない人とシフトに入ることは憂鬱ゆううつだったが、始めてから半年以上も経てば、そのような人間は新人か新たに配属された社員の二択であり、仮に嫌な出来事が起きても、それを愚痴ぐちに換えることができる土壌は既に形成できていた。

 強いて言えば、空いた時間に会話が弾み、なおかつ面倒くさい仕事を引き受けてくれる、同年代の異性であればこの上ない。ただ、そんなわがままが言える権限も、そもそも選択肢すらもなかった。そしてそれは欲望にも満たない、あわい所望に過ぎない。


 いつものようにレジを打ち、いつものように品数を数え、いつものように廃棄を処理していると、ほどほどの体感で五時間は経過した。

 こっちの店舗では数少ない常連客の中に、おそらく近くのインド料理屋に勤めている愛想の良い外国人がいる。大方インド人だろう。彼はいつも同じタバコを買っていくので、同僚のほとんどは彼が来た瞬間にそのタバコを手にする。自分もその一人だ。最初は片言だった彼の注文内容を理解するのに戸惑ったが、流れに乗れば注文を聞かずとも済む、とてもいい買い物である。そのスムーズさに、彼も満足そうな表情で店を後にする。そんな風に穏やかに接客が終わる瞬間を、僕は気に入っていた。

 だが同時に、何か一つの初歩的なミスで日常が壊れてしまうリスクを常に感じていた。愛想の良い常連客ほど、店を出ていく瞬間にホッとする。そういうトラウマがあるわけではないが、自分の中の人間関係という観念が、接客の仕事を通じて変化していることを感じる機会が多かった。それはおそらく、客と店員というお互いのことを何も知らない他人同士が、一瞬でも何かを共有するという事象を何度も肌で体感していたからかもしれない。

 逆に言えば、嫌な客のことは一生忘れなかった。


 やり過ごすほどもなく、一日が終わった。

 五時間×千円の通帳の額と、わずかな経験だけ進展させ、平均的な寿命と言われる三〇〇〇〇日のうちの一日があっさりと過ぎ去った。もう既に十九年は過ぎ去っているので、正確に言えば二三〇〇〇日ほどであるが、どうせ八十年も生きられないのだから、気にしても仕様がない。

 運命という言葉は寿命と深い関連性があるという認識だが、それに従えば、寿命は明日かもしれないし、今日かもしれない。そんなテーマを掲げる漫画がどこかにあるのだろうが、僕の小さなアンテナでは、天井桟敷てんじょうさじきの人々の心を揺さぶるような稀有けうな作品を身に流し込むことはできない。キャッチしたその頃には、大衆の濁流だくりゅうを浴びることでテーマは肥大化し、たくさんの「作者」が現れている。そうして次第にテーマは作者の元から離れていく。そんな現象がSNS上では起こっているらしい。

 だがそれによって、ただ読む以上の満足感を得られる者たちがいるのだから、SNSはすごい。一人で作り始めたものを皆のものにし、最終的には皆で作り上げることで大衆から支持される。自分には到底入り込めないすごい世界である。SNS上であれば誰もが創作に加わり、あまつさえ満足感を得られる。

 そんな民主主義的発案を、どうか大事に維持していってほしい。

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