第四章 灰常 土曜日

3 土曜日


 朝7時半、初期設定のアラーム音が鳴り、温泉に行く夢から覚めた。その反動か、今朝はやけに寒気がする。少し熱っぽいし、喉も痛い。だが、予定を変えるほどではない。本当はダメなのかもしれないが。

 諸々の支度を済ませ、9時に家を出た。向かった先は、家から歩いて十分くらいの場所にある喫茶店である。

「おはようございます」

「お、おはよう松井さん」

 店長に挨拶した。

「あ、そうそう。今度制服新しくしようと思うんだけど、松井さんにも意見聞いていい? デザインとか」

「え? いえ、私はそんな、店長さんが決められたもので大丈夫ですよ」

「でもさ、せっかくだし、松井さんももう半年近く働いてるわけだから、参考程度にするからよかったら聞かせてよ。ね?」

「うーん、わかりました。ホントに参考程度にしてくださいよ?」

「大丈夫大丈夫。たぶん帰るまでにカタログ届くと思うから、そのとき聞かせて」

「わかりました」

「おっはようございます!」

 ちょうど店長と話が終わったタイミングで、仲の良い職場の先輩の女性が出勤してきた。

「あ、雪乃さん。おはようございます」

「彩花おはよ! 今日もポニテキマッてるね! ついでに店長もおはようございます!」

「ついでにって……、まあいいや。椿さんもさ、この前話した新しい制服の件、今日カタログ届くと思うから帰るときに聞かせてよ」

「あ、あれ、やっと届くんですね。もう話無くなったのかと思ってましたよ」

「そうそうそれそれ。業者の人となかなか連絡取れなくてさ。んじゃ、よろしくー」

「ちなみにそれって、残業代出ます?」

「え? 嘘でしょ? 今時の子ってそんなにコンプラ厳しいの?」

「冗談ですよ。てかなんですかコンプラって。まあ、くれるんだったら貰ってあげてもいいですけど」

「なんだその悟空みたいな言い方。調子乗んじゃないよ若造が」

「うわ、それパワハラですよ? てか悟空って……、完全に世代出ましたね。ま、今回は特別にサービス残業してあげますよ。その代わり、可愛いのにしてくださいね? 全然新調しないから、彩花が着てるのなんて若干色変わってますし」

「そこは君たちのセンス次第だな」

「結局全部私たちに決めさせるつもりなんですね」

 開店準備に取り掛かるまでの数分間、店には南国のような空気が流れている。

 雪乃さんは今大学三年生だが、高校生の頃からこの店で働いているらしく、店長とはもう三年以上の付き合いになる。さらにご覧のような本人のキャラクターもあり、店長との絡みは葵さんたちをも上回ると個人的には思っている。そのような洗練された連携の前では、年の差の壁など見る影もない。

 それにしても、今日の雪乃さんはいつにも増して元気そうである。

「椿さん、なんか今日、いつもより元気だね。なんかあった?」

「それ、セクハラですよ?」

 気になっていたところで、ちょうど訊いてくれた。

 どんなに距離が近くなっても、仕事仲間は絶対に名字にで呼ぶことを含め、店長のこういうところが好きだ。そういうことを直接言ったとしても、変な勘違いをしないことも含めて。

「相変わらず、無駄に察しいいですよね、店長。まあ本当のこと言うと、大学の友達が最近ずっと元気なかったんですけど、昨日元気になったみたいで。それで私も一緒に元気になった、的な」

「ふーん。相変わらず単純で楽しそうだねぇ」

「あ、またバカにした。絶対いつか訴えてやる。そのお金でここも買い取ってやりますよ」

 いつにも増してほがらかに行なわれる掛け合いを見ていると、私の心まで温かくなる。

 ちなみに雪乃さんが言っていた大学の友達という人は、たぶん私も知っている女性だ。前からしばしばこの店にも来ており、勤務中の雪乃さんと楽しそうにお喋りしている姿を何回も見た。その度に店長は「よくあんな堂々とサボれるねぇ」と呆れていたが、その目は笑っていた。

 私も一度、雪乃さんの休憩中、アイスティーを片付けにいったときに話しかけられた。

「あなたが、彩花ちゃん?」

「え? あ、はい、そうです!」

「雪乃から聞いてるよ! 遠くで見てたときも思ってたけど、やっぱり可愛いなあ。バイト先にこんな可愛い後輩がいて、雪乃が羨ましいよ。面白さだったらウチも負けてないけどね」

「え、そんな、私なんか、全然……」

「あ、ごめんね! 急にそんなこと言われても困っちゃうよね。しかもバイト中に」

「いえいえ! あの、私もずっと美しい方だなあって思ってて、今日話しかけてもらえて本当に嬉しいです!」

「ふふっ、ありがと。でもこれ以上は邪魔になっちゃうだろうから、そろそろ帰るね! また遊びにくるから、そのときもよろしくね!」

「いえいえこちらこそ! あ、じゃあ雪乃さん呼んできます!」

「そんなに慌てなくていいよー。ふふっ、ありがと!」

 結局、それ以来彼女と話す機会はなく、名前を知る機会もなかった。最近も忙しいのか、会える日すらなかなか訪れない。

 しかし私ははっきりと、彼女に憧れを抱いた。それは私の外見への唯一のこだわりである髪型からも、ご想像していただけるだろう。


 駅から少し離れた場所に位置取る我々の喫茶店は、朝10時にオープンし、夜は21時まで営業している。行列ができるほど人気なわけではないが、店内からお客さんがいなくなるのを見たことがないくらいには忙しい。特に常連客が多く、中には黙々と原稿を執筆する中年男性や、おそらくお笑い芸人だと思われる若者二人組が打ち合わせをする姿など、私とは別世界の人々もおり、つい観察することもある。商売っ気の薄い店長は現状でもひいひい言っており、営業時間の短縮を私たちに検討してきたこともあった。ただ、雪乃さんの反対にい、その野望は呆気なく頓挫とんざした。

 ちなみに我々の店がそこそこ繁盛している理由の一つには、雪乃さんの存在がある。店長曰く、彼女がシフトに入っている日は男性客、特に若者が増えるという。思い返せば先ほど述べた若者二人組も、訪れたのは雪乃さんがいる日がほとんどだった。周りに他のお客さんが少ない日には、露骨に彼女に向けてネタ合わせをやっていることもあった。

 話を今に戻すと、開店してまだ三十分も経っていないにもかかわらず、席の半分は埋まりつつある。今日も忙しくなる予感がひしひしと湧いてきたが、店内の雰囲気は相変わらず落ち着いている。それがこの店の良いところでもあり、常連客たちが常連となった理由、と個人的には思っている。

 時計の短い針が頂点に向かうにつれて、空席も余裕がなくなってきた。いくら「落ち着いた雰囲気」を売りにしているとはいえ、ランチタイムはさすがにファミレス一歩手前と化すのが世の常である。それでも雪乃さんは楽しそうに、「店長、トイレ行くのめっちゃ我慢してる」とニヤニヤしていた。私も彼女ほどではないが、繁忙時間を冷静に対処できる余裕を手に入れてきた。それもこれも、店長や雪乃さんたちのお陰である。

 ランチタイムが終わり、ようやく休憩時間に入った。

 昼食を摂り終え、スマートフォンを見てみると、サークルのLINEグループに涼一さんから明日の最終確認の連絡が来ていた。葵さんたちにならって確認したことの旨を伝える返信をすると、その三十秒後ぐらいに石嶺くんの返信が続いた。偶然だと理解し、できるだけ何も思わないように努めたが、身震いするのを抑え切れなかった。他の誰かがもしその瞬間にグループを見ていれば、二人が一緒にいると誤解されても仕方がない。

 実際、もしかしたら……、いや、そんなこと考えないようにしよう。さすがに自意識過剰だ。

「どうしたの、松井さん。もしかして、体調悪い?」

 細やかに震えている私を見て、共に休憩していた店長が心配してくれた。実際に半分は正解なのだから、相変わらず店長の慧眼けいがんはすごい。

 ただ、散々お世話になっている以上、もう迷惑も心配も、かけるわけにはいかない。

「いえ、その、今怖い話見てたんですよ。それでちょっと」

「へー、松井さんってそういうの好きなんだ。なんか意外」

 一瞬私に興味を示してくれたが、店内からの呼び出しがあり、慌てて立ち上がった。

 そのまま行ってしまうかと思いきや、去り際に少し笑いながら一言だけ、

「でもホント、体調悪いなら無理しないでいいからね? こっちは大丈夫だから」

 やはり店長には、取って付けたような嘘は通用しない。何もかもお見通しのようにされて、結局甘えてしまう。

 だからこそ、今回の問題だけは、この店の人々を巻き込むわけにはいかない。たとえ明日が憂鬱でも、今日と明日は違う。確かに体調は良くない。それでも、今日は今日なのだから、今日をやり遂げないと。でないと、そのうちにガタが来る。

 そうなれば、私は遂に、全てを失ってしまう。


 昼も下がり、夕方が顔をのぞかせてきた。店内は随分落ち着き、まだ席は半分ほど埋まっているが、雪乃さんと近況を話す余裕すら出てきた。勤務時間もあと一時間を切り、雪乃さんのテンションは残りの時間とわかりやすく反比例している。

 時計の針が16時40分を指したとき、入り口のドアが勢いよく開いた。

「いらっしゃいま、せ、」

「お、やっぱこの店で合ってたんだ」

 やって来たのは、ラフな格好をした石嶺くんだった。

 彼はサークルが同じなだけの同級生、そう何度も自分に言い聞かせた。普通に接していれば、面倒なことにはならない、はず。

「お一人様ですか? こちらにどうぞ」

「ふーん、へー」

 寿命が近づいている制服をまじまじと見られ、かなり恥ずかしかった。そのとき初めて、ここまで新調を引き延ばした店長を恨めしくさえ思った。

 だが彼が次に来たとき、制服が新しくなっていることに触れられるのも、それはそれで嫌だった。

「ご注文は、まだ決まってないですよね?」

「彩花のおすすめでいいよ。俺、こういうとこあんま来たことないから、よくわかんないんだよね」

「私のおすすめですか……。うーん、それでしたら、一応当店ではアイスティーが人気メニューとなっているので、いかかでしょうか?」

「うん、じゃあそれにする。他はまた持ってきてくれたときに頼むよ」

「かしこまりました。それでは少々お持ちください」

「あ、あとさ、接客じゃなくて、普段通り接してよ。なんか、気持ち悪い」

「え? でも……」

「まあいいや。とりあえずアイスティーよろしく」

 注文を伝えにキッチンに行くと、雪乃さんに話しかけられた。

「あれ、知り合い?」

「え? まあ、はい。一応サークルが同じで、でも特別仲良いってわけじゃ……」

「やりづらかったら、私行くよ?」

「いえ! 大丈夫です! 自分で行きます!」

「うーん、なんか引っかかるんだよなあ。まあいいや、なんかあったら遠慮なく言って」

「はい、ありがとうございます」

 雪乃さんは店長と同等か、それ以上に察しがいい。だからこそ、この状況が空前絶後の大ピンチなのである。何とかして、何事もなく彼に帰ってもらわなければならない。

 これ以上、私にとって唯一無二の人たちに気をつかわせるわけにはいかないから。

「お待たせしました。アイスティーです」

「サンキュ。それにしてもさ、やっぱ調布っていいよなあ。駅着いたらさ、バン!ってでっかく『映画の街』って書いてあったよ。俺、あれにはさすがに感動したな」

「はあ」

 彼が私にしつこく映画の話をするのは、私の住んでいるこの街が大きな原因のようだ。個人的にはピンと来てないが、住所が調布だと初めて伝えたとき、彼は目を輝かせて食いついた。以来彼は、前述の通り、私の趣味趣向に関係なく、事あるごとに物事を映画で例え出した。

 しかし、事が現れる法則はまだ判明していない。

「映画館も寄ってきたけど、やっぱ良いよなあ。ああいう映画館でぜひ『風と共に去りぬ』とか『天井桟敷てんじょうさじきの人々』みたいな名作を観たいもんだよ。リバイバル上映の噂とか聞かない?」

「うーん、私、あんまりあそこ行かないから」

「ええ!? もったいないよ! じゃあさ、これから行かない? もうそろそろここ上がるでしょ? 今さ、ちょうど観たい作品やってるんだよね。一見『ホテル・ニューハンプシャー』っぽい作風なんだけど、『フィラデルフィア物語』のワンシーンがオマージュされてるらしくてさ、マジで気になってんだよ。どう? これから。いいでしょ?」

「え、でも、明日早いし……」

「大丈夫だって。もし遅刻してもさ、あいつら待たせたって大して怒られないよ。あ、なんなら彩花の家泊まらせてよ! それなら彩花が寝過ごしても、俺が起こせるじゃん。俺、早起きは得意だからさ。いいだろ?」

「まだ行くって言ってない……」

「俺、彩花が上がるまでここで待ってるからさ。じゃ、また後でな」

「そんな、勝手に決めないで……」

「お客様、失礼します」

 いつの間にか、雪乃さんが横にいた。

「大変申し上げにくいのですが、お代は結構ですので、ご帰宅願えませんか?」

 その立ち姿や表情は、非常に丁寧な言葉遣いを含め、とてもあの雪乃さんとは思えないほど、真剣だった。

「は? どういうこと?」

「ですから、今申し上げた通りです。はっきり言いますと、迷惑です。我々のスタッフがこんなに嫌がっているのに、何度も何度も追い詰めて、常識的に考えておかしいと思いません?」

「嫌がってる? 彼女は俺の友達だよ? 友達として普通に誘ってるだけじゃん。嫌なら断ればいいのに、何がおかしいの?」

「とにかく、もう帰ってください。これ以上居座るなら、警察呼びますよ?」

「あーはいはい。わかりましたよ、帰ればいいんでしょ」

 露骨に大きな音を立てて、石嶺くんは席から立ち上がった。

 それと同時に、ささやくように言った。

「前にもあったよな、こんなこと。あれ、四月だっけ。なんかのインカレの新歓コンパかなんかでさ。あんときは俺が助けたんだよな。彩花、サークルの人たちに無理やりホテル連れてかれそうになって、それで──」

「帰って!!」

 店中にとどろく雪乃さんの声にさすがに怖気づいたか、石嶺くんはそそくさと帰っていった。

「大丈夫? ごめんね、大きい声出して」

「ごめんなさい、本当に、すいません……」

 店中の注目を集める恥ずかしさも、雪乃さんに対する計り知れない引け目も、一瞬のうちに消えていった。

 なぜなら、雪乃さんに肩を抱かれた途端、目の前が真っ暗になったから。


「あ! よかったー! 心配したよ!」

 店長の声がぼんやりと耳に入ってきた。

「ごめんね。本当は病院連れて行ってあげたかったんだけど、なかなか空いてなかったみたいでさ。代わりに病院の人が来たんだけど、軽い貧血だから横になれば大丈夫って言ってたから、とりあえずここで寝ててもらってたんだ」

 目覚めた私は、店内に置いてあったはずのソファーで横になり、さっき買ったと思われる新品の毛布を掛けられていた。お陰でただでさえ狭いバックヤードは、もうほとんどスペースがない。

 最悪だ。ボーっとした寝起きの脳みそでも、一瞬で状況を把握できた。それは私が最も恐れていた展開だったからである。迷惑も心配もかけないと心に誓いながら、結局両方を、それも想定していた何倍もの重さでかけてしまった。

「……ごめんなさい、本当に、迷惑かけてしまって」

「なんで松井さんが謝るんよ。まあ、そのさ、こういうことって、あるから」

 歯切れが悪いのはもしかすると、「こんなに負担掛けさせちゃったんだから、謝るのはこっちだよ」などと下手にフォローすることで、余計私に責任を感じさせる選択肢を取らないように、慎重に言葉を選んだ結果なのかもしれない。自意識過剰な思い過ごしかもしれないが。

「まだ気分優れないかもしれないけど、夜ご飯、食べてく?」

 時計を見ると、19時少し前だった。確かにあまり食欲はなかったが、キッチンからのディナーの香りが、無性にお腹を空かせた。それを食欲と呼ぶのだろうか。

「いえ! これ以上迷惑かけられませんから、できるだけ早く帰ります!」

「あのさ、これ、人生の先輩としてのアドバイスね。もっといい加減に生きな? そういう風に考えちゃうから、何でも背負いこんじゃうんだよ。人ってさ、甘えられるのが嬉しい人もいるから。少なくとも、俺と椿さんはそう。彼女も前はそうやって一人で悩んでて、だけどそれを乗り越えたから今あんなに強くなったことは、君も知ってるでしょ?」

 何も言えなかった。それと同時に、お腹が鳴った。

 慌てて誤魔化そうとしたが、店長の表情を見た瞬間、無駄だとかった。

「ちょっと待っててな、すぐ作るから。店内の方行ってていいよ」


 十分くらい経ち、店内の一人用席に座っていると、店長がオムライスを運んできた。

「お待たせー。久しぶりだから、あんまり味は期待しないでね?」

 早速口に運んでみると、言葉にならないくらい美味しかった。もし他のお客さんがいなかったら、確実に号泣していたと思う。

「お疲れ様でーす、今戻りました! あれ!? 彩花! よかったー! もう大丈夫なの!? って、早速食ってるし!」

「あ、雪乃さん! 本当にすみません、ご迷惑おかけして」

「いいっていいって。そんなこと気にしないでよ! てかさ、これって、誰が作ったの?」

「たぶん店長さんだと思います」

「ええ!? マジ!? 珍しー! こんなこともあるんだねー! 明日雪降るよ、マジで。どうしてくれんのよ、友達と遊びに行く予定なのに!」

 口には出せないが、かすかに期待した。そうなればボランティアは中止になり、家から出なくて済む。

「そうそう、今これ買いに行ってたんだけど、」

 そう言うと雪乃さんは、持っていた袋の中身を机の上に並べた。薬やスポーツドリンクなど、体調不良のときに欲しいものばかりだった。

「思ったより元気そうだからいらないかもしれないけど、せっかくだし持ってってよ。あと、もう無理しちゃダメだからね?」

「ありがとうございます。私のためにわざわざこんな遅くまで残ってもらって、それにこんなものまで頂いて。感謝しても、し切れないです」

「彩花……」

 雪乃さんは何か言いたそうに、言葉を詰まらせた。

 その表情には見覚えがある。そうだ、さっきの店長と同じだ。

「お、椿さん、戻ったね」

 一瞬の沈黙は、キッチンから戻ってきた店長によって破られた。

「あ、出た。ちょっと店長、これ、どういうことですか!? 私もう一年は作ってもらってないんですけど!」

「料理は一年に一回って決めてるからね。料理の神様は君を選ばなかった、それだけだ」

「いい年こいてなにカッコつけてるんですか。完全に店長次第でしょ」

 いつもの風景が戻ってきたことが、何よりも元気になれる。

「雪乃さんもよかったら、食べます?」

「ええ!? えー、どうしよっかなー。でもこれ、彩花のだし、えーでも食べたいし……、うーん、じゃあ、一口だけ!」

 そう言って雪乃さんは、別の席からスプーンを持ってきて、先に目一杯のオムライスを乗せた。

「じゃ、いただきます! ありがとね、彩花!」

 スプーンからこぼれ落ちそうなほどのオムライスを頬張ほおばった雪乃さんは、少し時間を取ってから、

「うーん、まあまあかな」

「なにこの娘、もう絶対作ってやんねー。あ、松井さんは言ってくれればいつでも作るから、遠慮なく言ってな!」

「ちょちょ、店長! 謝ります! 美味しかったです! だから私にも作って!」

「謝ってねーじゃねーか」

 「落ち着いた雰囲気」というキャッチコピーは、今日だけは機能していない。


 家に帰ると、もう21時に差し迫ろうとしていた。明日に備えて早く寝るため、お風呂にだけ入って、普段やっていることはできるだけ省略した。そのお陰で、床に就いたのは22時過ぎだった。

 しかし結局、就寝まで至ったのは0時まで及んだ。根拠のない雪への期待と、今日の出来事、さらには明日起こり得る出来事をぐるぐる回転させると、無限に目が覚める。起きる時間と立川までの道のりを何度も確認して、時間を潰した。

 夜をこんなにも恨めしくも、愛おしくも感じたのは、初めてかもしれない。

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