第四章 灰常 日曜日

4 日曜日


 かすかな期待は打ち砕かれ、むしろ快晴といった日和ひよりの日曜朝だった。気温も普段より高く、活動日和この上ない。雪乃さんは大喜びだろう。

 朝6時半に起き、8時には家を出て、集合の二十分前には立川に到着していた。だが既に涼一さんも到着していたため、手持ち無沙汰にはならなかった。その後、続々とメンバーたちが集まり、集合時刻の五分前には残り一人を待つばかりとなった。

「石嶺くん、いつもは早いのに、今日どうしたんだろうね」

 またしても微かな期待が生まれたが、すぐに自制した。そんな風に思っては、いつかバチが当たる。

「おはようございますっ。すいません、ギリギリになっちゃって」

 9時ぴったりに集合場所にやって来た石嶺くんは、普段よりもテンションを抑えていた。いつもだったら既に一言二言話しかけられてもいい頃合いだが、明らかに私を避けるように涼一さんと話している。だが他のメンバーは特に気にせず、出発の準備を着々と進めていた。お陰で私は特にやることもなく、その場にたたずむのみだった。

 一通り準備が落ち着くと、荷物を車に積み終えた原田くんが話しかけてきた。

「今日さ、どっかで時間あったらちょっと話したいことあるんだけど、いい?」

 大方デモについてのことだと察したので内心嫌だったが、これ以上角を増やさないためにも、とりあえず受け入れた。

「よっしゃ、じゃあみんな乗ってー」

 準備を終えた涼一さんの声に促され、それぞれが車へと乗り込む。

「涼一さん、ちょっといいっすか?」

「ん? どうした?」

 そんな中、石嶺くんだけ、涼一さん個人に用を伝えにいった。


「それでねー、その教授がねー」

 いつも通り、移動の車での会話は葵さんが支配している。というか、ゆだねている。葵さんがいなければ、このサークルで生まれる他愛もない会話は半減、いや、八割は減るかもしれない。それぐらい、葵さんは発信力にけている。そこから発せられる無限の話題を隆道さんが処理しつつ、石嶺くんが色を加え、私が感想を言い、涼一さんが締める、それが我々の談話パターンである。やはりここは国営放送なのかもしれない。

 だが今日に関しては、いつもは原田くんが座っている観覧席、つまり助手席を石嶺くんが自ら希望したため、いつもと違う配置になっている。

 その所為せいか、葵さんが一人で話すターンが長くなっているが、むしろいつもよりやりやすそうにも見える。配置換えの関係で私の隣に座っている原田くんも、普段より話す機会が多い。その代わりに助手席に座った石嶺くんは、普段の原田くんよりも静かに、何かの作業に没頭している。おそらくそれが彼が助手席獲得のために用いた大義名分なのだろうが、一方で、いつもは観覧席を譲ろうとしない原田くんがあっさり折れたのも、未だにせない。

 立川を出てから約一時間、目的地であるキャンプ場に到着した。まだ子供たちの姿は見えないが、主催の運営スタッフは既に準備を始めていた。

「おはようございます」

「あ、どうも! いやあ、今日はホントに、来てくれてありがとね」

「いえいえ、何かと迷惑かけるかもしれませんが、よろしくお願いします」

「こちらこそ! それにしても、暖かくてよかったよね。まあ今日はそんな参加人数多くないから、のんびりやっていきましょう」

 涼一さんを先頭に担当の方との挨拶も済み、我々もそれぞれ、準備へと取り掛かった。

 普段であると私は、葵さんと石嶺くんと共に子供たちを担当することが多いため、その二人とお出迎えのスタンバイに入る予定だった。

「あの、涼一さん。今日なんすけど、俺、涼一さんのサポート回っていいっすかね?」

「うん? まあ、原田がいいなら俺はいいけど、どう?」

「僕は全然大丈夫ですけど、葵さんがオッケーするかどうか」

「どう? 葵」

「ええもちろん。私は良いと思います」

「オッケー。じゃあ今日は、石嶺は隆道と一緒にこっち来て、原田は葵と彩花と一緒に子供たちをよろしく。これでいいかな?」

「はい、わざわざありがとうございます。原田もサンキュ」

「全然」

 もしかして初めてか、原田くんと石嶺くんが会話しているところを見た。会話といっても、本当に一言二言だったが。

 子供たちが来るまではまだ時間があるらしく、葵さんがいつもと違う空気を確認するには充分な間だった。

「やっぱ今日の石嶺くん、いつもと違うよね?」

「まあ、そうですね」

「もしかしてだけど彩花ちゃん、なんかあった? 実は昨日、二人で会ってたとか」

「……」

「い、いえ! 昨日はバイトしてましたから!」

「そうだよね。シンプルに体調悪くてテンション低いだけかもしれないし」

 幸いなことに、葵さんはこれ以上深掘りしてこなかった。

 一方で、珍しいことに、原田くんが我々の話に耳を傾けていた。特に葵さんが「実は昨日、二人で会ってたとか」と言った際には、動きが一瞬止まった。

 そういえば昨日、私がグループに返信した瞬間、付いた既読数は2だった。


「じゃあこれから、みんなで川行きましょう!」「はーい」

「ねえねえ。お姉ちゃんって、カレシとかいるの? もしかしてあの男の人?」「もう、そんな言葉どこで覚えたのよ」「否定しないってことはそうなんだー!」「違うって。彼氏なんかいないよ。ほら、彩花からも言ってあげて」

「すいません、あの、そのポニーテールって、どうやってるんですか?」「え!? これ? 別にそんな難しくないけど、よかったら後でやってあげようか?」「いいんですか!? ありがとうございます!」

 イベントも中盤が経過し、子供たちとも良くも悪くも打ち解けてきた。ここからの川遊びの時間にかけて、益々我々の出番は増えるだろう。

「あんまり遠く行かないでねー」

 葵さんが声を掛ける。その隣にいた私に、男の子が元気よく話しかけてきた。

「ねえ! 川って入っていいの!?」

「え? 特に言われてないけど、寒くないの?」

「大丈夫! 水着も着替えも持ってきたし、今日暖かいから!」

「そうなんだ、すごいね」

「お姉さん、さっきのなんですけど、」

「あ、そうだったね。ごめん原田くん、ちょっとこの子たち見といてくれる?」

「ん? ああ、いいよ。了解」

 腕白わんぱくな男の子たちを原田くんに任せ、先ほどの女の子と共に、川からは少し離れた場所へと向かった。他の女の子も何人かついてきた。

「彩花さんって、今何歳なんですか?」

「十九歳だよ」

「へー。じゃあまだお酒飲めないですね!」

「そうだね。まあ、あんまり飲みたいとも思わないけど」

「何月生まれですか?」

「六月」

「もしかして双子座ですか!?」

「うん。そうだよ」

「私もなんですけど、実は双子座って、来週運命の出来事が起きるらしいんですよ!」

「運命の出来事?」

「はい! 今日の朝、テレビでやってました! あ、でも、良いか悪いかは人によって違うみたいです」

「なんかそれ、怖いね」

 二分の一を引き寄せる自信は全くない。

「ちなみに彩花さん、好きな人っています?」

「うーん、あんまり考えたことないなー」

「えー! ウソー! 絶対彼氏いるでしょ! だって彩花さん、超可愛いもん!」

「やめてよ。でも、ホントに私、今まで付き合った人とかいないんだ。ごめんね、なんか幻滅させちゃって」

「そんなこと言ってー、実はボランティアの男の人の誰かと付き合ってるんでしょ?」

「……あのさ、いい加減にしないと、お姉さん怒るよ?」

「え、ごめんなさい……」

「嘘嘘! 冗談だから、ね。あ、ちょっとやり過ぎちゃったかな?」

「もー! 今一瞬、ホントに怖かったんだから!」

 小学生女子との接し方も、十中八九尋ねられる異性関係についてのなし方も、だいぶ心得てきた。

「彩花ー! そろそろ戻るって! みんなも来てー。お、そのポニーテール、やってもらったんだ。可愛いじゃん!」

「はい! 彩花さん、ありがとう!」

 女の子の満面の笑みと共に、束の間の初々ういういしいガールズトークの時間が終わった。


「せーの……、今日はありがとうございました!」

 二十人ほどの子供たちの合わせた声が、夕焼けの空に響き渡る。

 あの後から子供たちの世話に合流してきた涼一さんと、一日中バーベキューの準備などの雑務に回っていた隆道さんと石嶺くんも揃って、イベントの終了に立ち会った。最後に各々の子たちが世話になった人に感謝を伝え、正式に一日が終わる。

 私の元にも、河原で話した女の子たちが来てくれた。

「じゃ、葵と原田と彩花は子供たち見送りに行ってあげて。俺らはまだちょっと片付けあるから」

 涼一さんに促され、子供たちが帰る電車の駅まで見送りに行く。これもいつものことだ。

「バイバーイ! 彩花さん! また会おうねー!」

 時間ぴったりの電車に乗り込んだ子供たちが、窓越しでも聞こえる声で叫びながら、手を振っている。それに応えて私たちも、大きく手を振る。

 この瞬間があるから、どんなに日々が忙しくても、ボランティアはやめられない。

「今日の子供たちも、元気いっぱいだったねー」

 腕白な男の子たちになつかれた葵さんは大変そうだったが、一日を終えた今の方がむしろ、朝より元気そうだった。

「あ、私ちょっとスタッフの人に個別で話あるから、二人先に戻ってていいよー」

 そう言うと葵さんは、一緒に子供たちを見送りに来ていたスタッフの人の元に駆け寄った。それを見届けた私は、方向を変え、涼一さんたちの元に戻ろうとした。

「あ、松井さん。朝に言った話のことなんだけど──」

 背筋が固まる。不意だったか、想定内だったか、自分でもよくわからない。

「人目につかなそうな場所見つけたから、そこで話していい?」

 まだまだ暖かい空気が居座る中、一陣いちじんの涼しい風が空気を変えた。


「なに? 話って」

 原田くんはなかなか話し始めない。沈黙に耐えられなくなり深呼吸をすると、それは連鎖した。

 しかし原田くんのそれは、決心の意味だったようだ。

「昨日、石嶺と一緒にいたよね?」

 言葉が詰まる。出そうと思っても出てこない。どんな嘘をついても、彼には通用しない。

 しかしなぜ原田くんは、そんなことを訊いてきたのか。

「それは、LINEのこと? それとも、今日の石嶺くんの様子?」

「どっちも」

「それだったら一つだけ訂正させて。LINEの返信が重なったのはたまたま。あのときは一緒じゃない。それは本当」

「僕がそれで一緒じゃないかって思ったの、よくわかったね」

「そういうこと、言われ慣れてるから」

 私の言葉を聞いた原田くんは、苦笑した。

「逆に訊きたいんだけど……」

 小指から出したような細々とした私の声に、原田くんは耳を貸した。

「なんでそんなこと訊いてくるの? 前は、言ったらあれだけど、ほとんど喋ったこともなかったのに。石嶺くんの様子も変だけど、私からしたら原田くんも、いつもと違う」

「石嶺を変にしたのは松井さんだろ?」

「確かに、石嶺くんとは昨日色々あったけど、でもそれとこれとは関係ない」

 初めて彼の目を少しだけ見た。

「そんなに私を、デモに誘いたいの?」

 それを聞いた原田くんは、笑った。

 今まで見てきたどんな人間の破顔よりも、いさぎよく、清々すがすがしく、爽快に。

「松井さん、やっぱ君、最高だよ! 見込んだ通りだ! まあ確かに、一昨日は誘ったけれども」

 笑い続ける原田くんを見る私は、呆気に取られる他なかった。

「松井さん、今日呼んだのはデモの話じゃないよ。それは全く関係ない。全くってほどじゃないけど」

 未だに彼の言っていることの意味がよくわからない。

 いや、そんなことない。伏線は充分揃っていた。想像することを避けていただけだ。

「じゃあ、はっきり言うね。僕もこのときを待ってたから」

 もう戻れない日々を想像する。もう繰り返せない日常を想像する。

 私はこのときを、恐れていた。

「松井さんのことが好きです。付き合ってください」

 そのとき、人影がもう一つ現れた。

「おーい、そこで何やってんの? 彩花と……、原田?」

 鳥の羽ばたく音が、鳴り響く鼓動を奪っていった。


「石嶺、くん?」「お、石嶺」

 二人同時のリアクションに、さすがに彼も動揺を隠せない。

「戻ってくんの遅いなって思ったら、こんなとこいたのか。で、何やってたの?」

「僕が話があるって、ここに松井さん呼んだんだよ」

「話、って? お前が?」

「うん。あ、この際だからちょうどいいや。石嶺にも伝えておくよ。君にも重要なことだろうから」

 誰かが唾を飲み込んだ。私か石嶺くんのどちらかだ。

「松井さんに告白した」

「え? は!? おま、何言ってんの!?」

 今日一番の声を張り上げながら、石嶺くんは狼狽うろたえている。

 無理もない。私ですら、未だに何が起こっているのかわからない。

「え、で、彩花はなんて?」

「まだ聞いてない。ちょうど僕が言ったときに、君が来たから」

 一斉に二人が私の方を見る。その勢いに、思わずたじろいでしまった。

「彩花! まさかこんな陰気臭い奴の告白なんか、応えないよな!? そもそもこいつ、俺と彩花の関係知ってて、あえて告白してるんだぜ? 最低だろ!?」

「君は別に、松井さんに直接告白したわけじゃないだろ? せこせこと周り使って、外堀埋めてただけじゃないか。それに僕は、君にも堂々と宣言してる。一体どっちが陰気臭い?」

「ほら! こんな理屈っぽくボソボソ話すような奴、一緒にいても楽しくねえよ! 俺との方が絶対良いって!」

「君と話していたときの松井さんは、お世辞にも楽しそうには見えなかったけどね」

「なんなのこいつ!? そんなわけねえだろ! 俺たち上手くいってるよな? なあ、彩花?」

「じゃあなんで今日、君たちは気まずくなっているんだい? 上手くいってるんだろ?」

「うっ、それは……」

 一心不乱に原田くんと対峙していた石嶺くんは再び、私の方を見た。

「ごめん。昨日のことについては謝る。俺が悪かった。だから、その、また前みたいに戻れないかな?」

 二人の舌戦ぜつせんに圧倒されていた私は、曖昧な返事をした。

 個人的には、特別避けているつもりはなかった。だが今日一日、悪い気はしなかった。それはおそらく、彼の方が私を避けていた結果だ。

「まあとにかく、松井さんの返事を聞こうよ。これ以上言い争ってもらち明かないから」

 場は落ち着いたが、私にとっては良くない状況へと変異した。

 答えを出せば、その瞬間、何かが壊れる気がする。或いは、もう壊れている。

「……私、なんて言えばいいの?」

「うーん、告白に対する松井さんの気持ちを、そのまま言ってくれればいいんじゃない?」

「お前、なにカッコつけてんだよ。てか彩花、俺たちもう半年の付き合いだろ? そろそろ関係性はっきりさせようと思ってたんだよ。な? 俺もいろいろケジメつけるからさ。だからこの際、正式に俺の彼女になってよ。彩花だって、俺に気があったから、ずっとついてきたんだろ? あのコンパの後から」

「え?」

「おい、あんま一人でべらべら喋るなよ。君の話なんか聞きたくないから」

 原田くんの制止で、ようやく私のターンが回ってきた。むしろ、一生喋っていてほしかった。

「あの、原田くんの、あ、二人の気持ちは嬉しいんだけど……、えっと、なんて言うか、私、そういうの苦手で、たぶんできないから、……やめた方がいいと思う」

「ん?」「は?」

 自分でも何を言っているかわからなかった。だが、言いたいことはまとまっていた。

「そうだよね。はっきり言った方がいいよね。私、二人の気持ちには応えられない。原田くんの内に秘めた思いも伝わったし、石嶺くんの気持ちも、その、長い間、わかってた。でも私、ダメなの。誰かと付き合うとか、好きになるとか、昔からダメだったし、今でも避けてる。おかしいっていうのもわかってる。だから、二人のこと裏切るようで申し訳ないけど、ごめんなさい。でもできたら、二人とは今まで通りの関係性でいたい。今まで通り、友達同士で」

 いつぶりだろう、こんなに長く喋ったのは。小学生のときの作文発表会以来かもしれない。

 そういえば、それの後だったっけ。私の膜が破られたのは。

 ということは、あの日以来なんだ。私が恋愛できなくなったのは。

「そっか。ありがとう、はっきり言ってくれて。やっぱり松井さんは、い人だね。僕はもちろん──」

「ふざけんなよ!!」

 声の正体は言うまでもない。

 紛れもなく、今日この山で一番の大きな音が、花を散らした。


「さっきから黙って聞いてりゃ、気色悪いことズケズケとぬかしやがって」

 呆気に取られる私と、冷静に声の主を見る原田くんは、酷く対照的だった。

「『私、恋愛とかできないんです』? なんだそりゃ。悲劇のヒロインにでもなったつもりか? どこまで良い子演じて周りの人間泳がしとけば気が済むんだ? いい加減にしろよ。『私には無理です』とか、『可愛くなんてないです』とか言って可愛い子ぶって、今時女子中学生でもやってねえぞ、そんなキャラ」

 夕焼けが異常な速さで過ぎ去っていく気がした。

「挙句の果てにボランティア? なんだそれ。自己満足の塊じゃねえか。こんなことやって将来何の得になるんだよ。就活の餌か? くだらねえ。バイトしてた方がよっぽどマシだわ」

「君もやってるじゃないか」

「こいつがいたからに決まってんだろ」

 原田くんの横槍もお構いなしに、石嶺くんはギアを上げる。そろそろ、バウンドし始めそうだ。

「でもはっきり言って、ホントに時間の無駄だったわ。クソみたいなボランティアもそうだけど、こんな性質たちの悪い女に時間費やしてたなんて、今思うと反吐へどが出る。てめえなんか顔がちょっと良いだけの、身体だけの女だろ? 本当は恋愛できなかったんじゃなくて、相手にされなかっただけだろ? お前みたいのを偽善者っていうんだよ。そういえば、そんなこと言ってる映画もあったな」

 今日初めて、映画が登場した。ただ、例えとしては用いていない。

 依然として原田くんは、黙って石嶺くんを見つめている。

「そういやお前、法学部内でバカにされてるらしいな。なんだっけ、『鋼の精神』だっけ」

「ぇ……!?」

「俺らが知らないとこだとそんなキャラ演じてんだな。まったく大した奴だよ。原田もこのこと知ってんだろ?」

「まあね。僕はデモ仲間から噂聞いただけだけど」

 一瞬、息が止まった。そのまま永遠に止まってしまえばいいのに。

「何でも、全ての講義で一回も休まず最前列に座って、しかも教授にもどんどん意見する。ついたあだ名は『生徒会長』。なにそれ、政治家でも目指してんの?」

「僕は松井さんのそういうとこが好きだよ。松井さんのこと気になりだしたのも、その話聞いてからだし」

「なんだこいつら。揃いも揃って気持ちわりいな。でも原田、残念だったな。それ、全部演技だぜ? 裏では教授に身体売って単位貰ったって噂もあるし。今までのこいつ見てりゃ、大方事実だろうな」

 塞いだ口が開かない。もはや何もかもが渇いている。目の前に映るのは案山子かかしか、偶像か、それとも鏡か。

「あとさ、なんだよ昨日の女。あの女好き女とそっくりじゃねえか。そうやってバイト先だとまもってもらうキャラ演じてんだな。ホント、そんだけ使い分けられるのは才能だよ。詐欺師やったら絶対成功するって」

 よくあるドラマや映画の見所シーンのようにまくし立てて、石嶺くんは満足そうだった。

 そうして最後の口撃に備え、大きく息を吸った。

「あの日、やっぱそのまま無理やり連れ込んどけばよかったなー。つまんないサークルまで入ってやったのに、結局デートすら一回も行ってくれねえんだもん。借りとかさ、そういう考え方、ないの? そのまま俺らに犯されてた方が、今頃もっとマシな女になってたんじゃね?」

 そう言い捨てて、石嶺くんは去っていった。

 捨てられた言葉を一言一句拾い上げるあわれな肉塊かいは、未だに現実しか見ていない。

「うーん、そっかー。石嶺、松井さんみたいな生き方嫌いなタイプなのか」

 妙に得心しているもう一つの肉塊は、虚空こくうとの会話を楽しんでいる。

「いろいろ言われて動揺してるかもしれないけど、気にしなくていいと思うよ。さっきも言ったけど、僕は松井さんみたいな『意識高い』人、好きだから」

 思わぬところから槍が飛んでくる。そういうのが一番、急所を突きやすい。

「とりあえずさ、みんな待たせてるだろうから、戻らない? 行きみたいな感じなら、石嶺と話さなくても済むし」

「先に戻ってて。後から行くから」

「え、でも一人にするのは──」

「独りになりたいの! それとも何!? あなたも私に言いたいことあるの!? なら言ってよ!!」

 正真正銘、私の声だ。動揺などしていない。その段階は、うに過ぎ去った。

 躊躇しながらもその場を去った原田くんが完全にいなくなったことを確認して、その場で仰向けになった。

 気が付けば、空はすっかり暗くなった。自然が堪能できる場所だけあって、星辰せいしんが綺麗に輝いている。しかし、こんな綺麗な夜空でも、主人公が不在であれば、花は咲かない。

 なぜ今日が、今日に限って、月は姿を現さない?


「あ! よかった! 迷子になったんじゃないかと思って心配したよ!」

 運悪く大遅刻のお出迎えは、勘の鋭い葵さんだった。

「……すみません、だいぶ待たせちゃいましたよね?」

「ううん。なんか意外と片付ける物多くて、ちょうどさっき終わったみたい。実は私もさっき戻ってきたんだ。スタッフの人と話し込んじゃって」

 悟られないように必死で視線を逸らす。とりあえず人並みになるためには、時間と孤独が必要だ。

「お、彩花、やっと戻ったか。よし、じゃあ帰るか」

 しかしまたしても運悪く、その視線の先には車に荷物を積み終えた涼一さんがいた。同時に開いたバックドアから、既に助手席に座っていたあの人が見えた。

「ん? どうした彩花。目、真っ赤だぞ?」

「あの、すみません。今日私、電車で帰ってもいいですか?」

「どうしたの? 彩花ちゃん?」

「ちょっといろいろあって」

「彩花がそうしたいなら構わないけど、その様子だと一人で帰すわけにはいかないな。葵、悪いんだけど、一緒に帰ってあげてくれない?」

「いえ! あの、一人で帰れます! だから大丈夫です!」

 我々の会話が聞こえているにもかかわらず、助手席の彼は微動だにしない。

「ダメだよ。何があったかわからないけど、こういうのは誰かと一緒にいて、話すのが一番なんだよ。葵、悪いけど頼んだ」

「本当に大丈夫です! 一人で帰れますから!」

 本気で教師を目指すなら、この人はまず精神医学を学ぶべきだ。このままでは、鬱病うつびょうの子供に頑張れと言い続けかねない。

「彩花、人生の先輩として言うよ。俺たちと一緒に帰るか、せめて葵と一緒に帰れ。とにかく今の彩花は、独りにさせられない」

 笑わせないで。たった三年の誤差で先輩面? 私に先輩面したいなら、誰かさんみたいにせめて十年はないと、説得力ないよ? そうやってこれから子供たちにも、時代遅れの感情論押し付けて、愉悦に浸るんでしょ。ああ、気持ち悪い。こんなところ、早く抜け出したい。

「本当にごめんなさい! 今日は独りで帰りたいんです! だから帰らせてください! 今日一日、ありがとうございました! 失礼します!」

 そう叫んだ私は、そばに置いてあった自分の荷物だけ持って、大学の階段で鍛えたなけなしの脚力で駅まで走った。

 やってしまった。もう完全に、あそこには戻れない。でも仕方ない。それが私の#ツケ__・__#だったんだ。私は、みんなを騙していたんだ。

 駅に着くと、ちょうど電車がやって来た。何も考えずに乗り込んだが、運良く帰りの方向だった。青梅線? 初めて聞く電車だ。しかも立川に停まるらしい。しかしダメだ。立川で降りたら、誰かと遭遇してしまうかもしれない。

 結局、回り道をして家まで辿り着いた。そのお陰で、もう22時近くになる。明日も二限から講義があるので早く寝なくてはならない。しかし、寝られるはずがない。

 家に着いた私は、ご飯も食べず、お風呂にも入らず、ただひたすら鏡を見つめていた。


 今日、石嶺くんに言われたことを思い返す。「どこまで良い子演じて周りの人間泳がしとけば気が済むんだ?」、うん、確かにそうだ。自分でも面白いくらいに納得している。だから何も言えなかったし、何も感じなかった。昨日なんかまさにそうだ。コツコツと貯めていた貯金のお陰で、大失態を切り抜け、おまけにタダ飯までありつけた。サークルでも、普段は雑用ばかりやっている隆道さんや原田くんと違って、私はいつも子供と遊んでばっかりいる。そう考えると、私、今までどれだけ楽な生き方をしてきたのだろうか。想像するだけでも怖くなる。

 その一方で、私にはもう一つの顔がある。どんな講義でも前列に座り、教授の問いかけにもしっかり答え、前期ではしばしば自分から質問をしに行き、サークルもボランティアサークルという、まさに、、な大学生だ。一昨日、原田くんの言葉を聞いて動揺したことを思い出した。「こういう活動、好きでしょ?」、確かに私が今までやってきたことは、ああいう活動に直結すると考えられてもおかしくない。そう考えれば、もう一つの顔も、顔として機能してきていると言える。その副作用として周りからバカにされていることも、重々理解している。

 しかし結局、私の本性は前者なのだ。無意識のうちに周りに取り入って、自然と楽な環境を形成する。よくよく考えれば、最低な人間である。確かに石嶺くんの言う通り、そんな女は身体だけで、碌に相手にもされない。同性に嫌われるのも、しいたげられるのも当然だ。

 だからこそ私は、「新しい私」を求めた。その結果が、後者である。そしてそれは、自分のために、「前の私」から変わるためにやっている、試練の時間だと思っていた。嫌いな過去を振り返ることはなお嫌いだが、いまを生きるために、過去の私を忘れることはできない。掴みつつある「新しい私」を自分にするために、どんなあざけりにも耐え、「新しい私」を死守してきた。

 でももし、「新しい私」の姿が「こういう活動」の渦の中にいる人物像なのだとしたら、これだけははっきり言える。私は、そんな人間にはなれない。誰かと敵対し、何かを主張し、勝ち取る、そんな勇気、到底持ってない。でも人々の瞳にはそうやって映っている。

 ということは、私がやってきたことは、全て偶像? 最初に思い切って始めたことをやめる勇気すらなくて、ダラダラと嫌々続けてしまっている、そんな最悪な設定?

 うん、確か前に、そんなこと言ってた気がする。今まで通りにわらわれるよりも、やめたことで変な噂が立つ方が嫌だ。そんな消極的動機だった気がする。

 あれ? でもさっき、「新しい私」を自分にするため、とか言ってたよね? それって要は、身体だけの最低女から、中身のある芯の通った、「強い私」に生まれ変わりたいってことだよね? それだったら、原田くんの言ってることも一理ある。ていうか、そうやって映ってるなら、「強い私」になれたってこと?

 でも、そんな自分になんかなりたくない。強くなったらその分大変そうだし、第一、絶対なれっこない。別に弱いまんまでも生きてはいける。今まで通り生きてれば、誰かしらは愛してくれる。店長とか、雪乃さんとか、葵さんとか、たぶん、名前も知らないあの人も。

 でも私、「弱い私」から変わるために、あの日、前列に座ったんだっけ。ああ、なんて余計なことしてくれたんだろ。普通に後列に座っておけば、今頃はこんなことに悩まない、普通の女子大生で居られたのに。

 でもあのときの少女は、紛れもなく私だった。てことは、あれは本心?

 でも、って、何回「でも」って言ってんだ。そうだよね。あれは私だったんだから、こういう生き方をしたかったんだよね。強くなりたかったんだよね。他人から注目されることが大の苦手で、だからいつも置いてかれる、しまいには存在してなかったことにされる。そんな私は、もうりだったんだよね。

 じゃあいいじゃん、今まで通り過ごしても。今の私、すごい注目浴びてるんだよ。私は名前を知らないような人でも、私の名前は知ってくれてる。そんなこと、今まであった? 置いてかれてるどころか、今は先頭だよ。そんなこと、今まであった? 生徒会長? 意識高い系? 「百方美人」なんて陰で言われるより、よっぽどマシ。もっと酷いあだ名を先生間で言われるより、よっぽどマシ。これが「変わる」ってことなんじゃないの?

 そう、私は変わったんだよ。私は強くなった、それでいいじゃん。

 そうやってこれからも、前列座って、問いかけにも愛想良く答えて、また質問も再開させて、どうせなら学内一の知名度を目指そう。ゆくゆくは学校新聞とかパンフレットなんかで特集組まれて、それがお偉いさんの目に留まって、何かでデビューして、いろんな人から尊敬され、愛される、そんな生き方。


 無理だ。だって、もう疲れたから。

 あのとき、いっそのこと、素直に犯されておけばよかったな。それでなければ、助けてくれたお礼に、彼にヤらせてあげればよかったな。

 そうすれば、もっと素直に生きられたかも。二回目は案外、気持ちよかったのかも。


 これから私は、どうやって生きていけばいいの?

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