第二章 青常 金曜日 午前

6 金曜日 午前


 歯が抜ける夢を見た。しかし、目覚めは良かった。

 二限に行くつもりはなかったが、予想外に早い時間に起きたため、行くことにした。LINEを確認してみても、新規通知は公式アカウントだけだった。店のグループラインも、あれ以来通知はない。自分の返信の既読数を見ると、全体の人数よりも二つ少なかった。予測していた状況が足音を立てて近づいていることをまざまざと感じる。


 憂鬱な気持ちが家を出ることを躊躇ちゅうちょさせたが、無の感情がそれを上回った。はっきりと情景を脳内に映し出した頃には既に、モノレールの車内にいた。都下を結ぶモノレールは、いつも以上に混雑していた。時間に余裕があったため一本飛ばしたのだが、それでも後続のモノレールに乗り込んだときは、吊革に掴まるのがやっとだった。

 途中の多摩動物公園駅で混雑に巻き込まれた親子連れが降りようとしていたが、なかなか抜け出せずにいた。だが、女性らしき人物が機転を利かし運転手にそのことを伝え、それにより親子が無事に降りられるまで、電車は駅に停車した。母親は降りる直前、運転席の方を向き、何度も頭を下げていた。結局、その女性の姿を確認することはできなかったが、母親の満足そうな顔は、僕の位置からよく見えた。これを漫画にできる技術があれば、僕のSNSのフォロワーは倍増したことだろう。

 人波が解体され駅のホームに降り立つと、前方に知り合いの姿が見えた。彼と僕は三年間同じ部活で、三年生のときは同じクラスでもあった気の置けない人物の一人だった。かと言って、三年間常に一緒にいたというほど親密なわけではないが、彼の敵を作らないほがらか人柄と、どんなバカ話でも相手にしてくれるその柔軟性は、今の空っぽな僕に必要な要素だと感じ、駅を出た辺りで声をかけてみた。

 彼は僕の声に気付くと、「よっ」という言葉と共に並んで歩き始めた。近藤とのやり取りを思い出させるようななんでもない世間話を数度繰り返した挙句、バイトの話題の口火を切った。

 だが、真実は口から出なかった。いくら元々は近藤と同じくらい親しい間柄とはいえ、今現在、学部もサークルも違う彼と会う機会は頻繁ではない。そんな彼にいきなりあの話を武勇伝のように語るには、まだまだ整理の時間が足りていなかった。もしかしたら話すことである程度楽になっていたかもしれないのに、結局僕は、虚偽の道化に逃げた。

「それクビじゃなくて自分で辞めただけだろ」

 この言葉を聞いたとき、新たな後悔の念が生じた。それはすなわち、虚偽に逃げている限り、彼の中の僕は一週間前の僕と何も変わらないということだ。環境が変わって内面が心理的影響におかされても、他人から見えるのは結局外面である。その機会をたった今、数少ない気の置けない相手に逃したのが、本当の現実である。殻を破るという言葉をずっとバカにしてきたのだが、その原因がはっきりとわかった。

 結局、彼と別れるまでの時間に「本当は」という言葉は出ず、その瞬間が訪れることはなかった。


 昨日より、授業を聞く気概があった。しかし内容の八割は右から左へ通り抜けていたのは言うまでもない。捉え方によっては通常運転に戻ったとも言えるが、心の中にあるフワフワしたものが消えることはなかった。

 半分が横文字で埋め尽くされたレジュメを見ながら、ふと週末のことを思い描いてみる。土曜日のサークルも、日曜日のバイトも、今となってはただの休日と化した。明日以降、家に入り浸ることになる大学生の我が子を見て、母はどう思うだろうか。これまでのように無関心を貫いてくれればベストだが、どう想像したって、サークルとバイトが同時に消失した事実に疑問を抱かないわけがない。それも息子は、いずれの日に警察の事情聴取を受けることになる。そうなれば、どうつくろったって無関心を維持するのは不可能だ。僕のような大学生にとっての親の存在は、こういう厄介な状況に限って頭角を現す。これこそが罰なのだろうか。一難去ってまた一難とはまさにこのことだ。いや、去った一難などなかった。

 昼休み、出席が必要な残り二コマの授業を前に教室で腹ごしらえをしていると、教室の反対側に西井の姿が見えた。一緒にいたのは同じサークルの連中だった。当然に生じてくる複雑な感情と共に、誰もいない世界に取り残されたような、終末的な絶望感を味わった。もしかしたら僕の考えていたことは全て的外れだったのではないかという、一種の敗北感が酷く膨張し、自己嫌悪を最高潮なものにしつつある。

 そして自覚した。主観と客観の違いを。僕から見た西井は主観で、西井から見た僕は客観だということを。薄々勘付いてはいたが、やはり日に日に堕落な僕に嫌気が差していたのだろう。それを今回の失踪を契機にすれば、何も生み出さない僕と手を切れるだけでなく、他のつどいに参入する土産みやげ話にもなる。

 自分の判断で行動した結果、一番得をするのは、いつも自分ではなく他人だった。だからこそ長いものに巻かれようとするのだが、それで生じた他人の判断でも、巻き込まれるのはいつも負の場合のときだけだった。

 僕が得するときと言えば、昨日の昼下がりのような芸術家御用達ごようたしの、不釣り合いなものばかりだった。その度に、この瞬間を世界の無駄にしていると自己嫌悪にさえ陥る。世界というものを創り出せる人間が心底羨ましい。いっそのこと『地獄変』のように、僕の死に様を芸術にしてもらい、この世から風と共に去った方がマシだとさえ感じる。そういった専門の画家を探し当てることをこれからの生きがいにしていこう。

 すると突然、スマートフォンに電話が入った。

 表示された女の名前に、一瞬、男の息は止まった。


「……はい、もしもし?」

「風間、くん……?」

 約二週間ぶりの声だったが、初めて聞いたときと全く同じような、心躍る感覚が全身を駆け巡った。

「……お久しぶりです、内井さん。電話出るの遅れちゃってすいません」

「ううん、大丈夫だよ。……もしかして授業中で、わざわざ外出てくれた?」

「ああいえ! 教室にはいたんですけど、昼休みだったんで全然大丈夫です!」

 確かにそれは事実だが、あくまでその原因の一部に過ぎないことも事実である。

 教室を出る前、僕は数秒間フリーズしていた。それが授業中に慌てて教室を出たのだという錯覚を引き起こすタイムラグの本当の原因だった。

 だがそんなことより、今の僕の率直な心情は、先ほどまでのネガティブ・シンキングを全て吹き飛ばすほど、鎖が解けたように解放されていた。

「とにかくありがとね! あと、ごめんね、いきなり電話かけたりして。ビックリさせちゃったでしょ?」

「いえ、そんな、ホント内井さんのこと心配だったんで、声聞けてホントうれしいです!」

「そっか、ありがとう、風間くん。心配してくれて」

「もう今、ホント、泣きそうですもん。もう一生会えないかと思ってたから」

「ふふっ、それは大げさだよ。別に死んだわけじゃないんだから」

 逆に今は死んでもいいと思った。こんなにちゃんと内井さんと言葉を交わすのは初めてかもしれない。同じシフトに入る機会も多くはなかったし、いつも尊敬の眼差しで見ていたから、僕から話しかけることはほとんどなかった。と言うより、話しかけられなかった。

「でも確かに、昨日までは辛かった。一瞬本当に死にたくなったりもしたんだ。だけど昨日一日色々あって、一日色々考えて、それで風間くんに勇気出して電話してみたの。だから、もう大丈夫! ありがと! 話してくれて!」

 しかし何よりも、内井さんの中に僕の存在がちゃんと残っていて、その残像が、内井さんの口から漏れた心の隙間を耳にしていることが、信じられなかった。

「それでね、急で申し訳ないんだけど、会えないかな? 今日」

「え?」

「ううん、無理だったら全然いいの! ただ、話したいこと色々あって。でも学校あるんだよね?」

「いえ! 内井さんに会えるなら飛行機乗ってでもどこでも行きますよ!」

「ふふっ、ありがと。でもホント無理しなくていいからね?」

「大丈夫ですって! 所詮大学生ですし。えっと、場所は武蔵浦和ですかね?」

「それなんだけどね。今大学行ってて渋谷にいるんだけど、その後も行かなきゃいけないとこがあって、武蔵浦和帰れないの。だから出来ればでいいんだけど、渋谷まで来れないかな?」

「渋谷っすね。了解っす。すぐ向かいます!」

「ああそんな、私も時間あるし、授業終わってからで大丈夫だよ?」

「いえ、内井さんが大丈夫ならすぐ行きますよ。ちなみに何時からなら大丈夫ですか?」

「私は何時でも大丈夫! 実は私も授業サボってるんだ!」

「マジっすか! それは……、いけないっすね。……ええと、たぶん14時くらいには渋谷着くと思います!」

「了解! 待ってるね!」

「はい!」

 動揺が抑えられないからか、内井さんなりのジョークに碌な返しができなかった。

 だけど今はそんな細かいミスを後悔している余裕はない。電話に出たとき以上の勢いで教室を飛び出し、駅に向かった。周りにいた人間にとって僕の行動は、イーストウッド監督から直接最新作への出演オファーが届いたかのような有頂天ぶりだっただろう。だがたった今、僕にとってそれ以上に価値のあることが起きた。仮にこの後の欠席の代償にレポートが課されたとしても、一万字でも二万字でも書き切る気概が湧くほどだ。

 駅へと急ぐ足を、何とか平常に落ち着かせた。どうせモノレールは十分に一本しか来ず、その次の一本にもまだまだ余裕があったが、体はキャンパス内を疾走するようけしかけてくる。気持ちばかり先走るこの衝動を抑えることに苦労したが、なによりもその苦労が心地良い。

 途中、看板や弾幕を掲げながら、何かを訴えている集団が目に入った。そのうちの一人の女性が近づいてきた。

「ちょっといいですか? これ、よかったらお願いします!」

 彼女が渡してきたビラには、「法学部 都心移転反対! 地域と伝統を守るために立ち上がろう!」などと書いてあった。よく見れば、看板などにも同じような文言が書いてある。噂は耳にしていたが、辞めたサークルのその後以上に関心がない話題だった。

「ちょっと急いでるんで」

「あっ、そうなんですね。じゃあビラだけでも──」

 その瞬間、強い風が吹き、彼女が手渡そうとしていたビラがどこかへ飛んでいった。

「あ、大丈夫っすか?」

「ごめんなさい、気つかわせちゃって。こっちは気にしなくていいので、どうぞ行って下さい!」

 少し気になったが、一言だけ声を掛け、その場を後にした。振り向いたときには、彼女はもう視界から消えていた。

 代わりに目に映ったのは、ある日どこかで見覚えのある、女性の俯きだった。しかし、前と違う箇所が一つあった。

 その人は、まるで内井さんを彷彿ほうふつとさせるような、みやびたポニーテールをなびかせていた。

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