第三章 赤常 金曜日
6 金曜日
午前中は、無いに等しい。起きた時刻はちょうど正午。家にはもう誰もいなかった。
金曜日は授業もなければ、バイトもない。午後になればサークルはあるが、それまでは一週間の中で唯一、家でのんびりする時間と言える。いくら外からは無限のバイタリティを持つ人間に見えても、所詮、俺は人間である。
起床後の
だが結局、あの背中に、振り向いてはもらえなかった。彼女の最後のメッセージは「もうすぐ着きそう」、昨日の13時20分のものだった。ここまでは、俺の知っている美咲である。
そしてこれからは、誰も知らない美咲だ。
一週間分のダラダラを消費するために二時間を
「なあ、美咲となんかあったん?」
一瞬の衝迫と共に、脳細胞が活動を始める。
「え、なんか言われた?」
おそらく、動揺を隠し切れていない。
「いや、今日授業来てたんよ、美咲。出席ないのに。その時間っていつも敬斗と遊んでる時間だろ? なのに今日は違うんだ、って思って」
別にわざわざ嘘に縛られなくてもよかったのに、と、心の中で呟きつつ、
「ああ、その時間、後期始まってからはほとんど会ってないよ。金曜はどうせサークルで会うから、ってことで」
その言葉に対し、質問主である雄輔は、半分は納得し、半分は不満げな顔で、
「ふーん。なんか、冷めてんな」
と言った。ぐうの音も出ない。
ここまで稀に登場し、先ほど惜しくも勘違いの質問を提示してきた雄輔は、他の人間と比べ、美咲とは近しい関係にある。と言っても、高校が同じで、そのときもサッカー部の選手とマネージャーの関係だったというだけで、男女の関係に発展したことはないというのが大方の見方である。ただ、彼個人が美咲に対して特別な感情を持っていることは、美咲と交際後の俺に向けられてきた言動から、容易に察しが付く。今のもその一つだ。
だが今回に関しては、彼の指摘は的を捉えている。「今日に限り、何らかの原因で俺たちが会わなかったから、美咲が講義に出席した」という方程式は成り立たないが、「俺たちが会わなかったから」を抜き、「今日に限り」を「今日」に置き換えれば、式は成り立つ。事実、「何らかの原因」が起きたことで、美咲はとても珍しいことに、講義に出席した。
その「何らかの原因」は、昨日、もしかするとそれよりずっと前から起きていたのかもしれない。さすがの雄輔もそこまでは見抜けなかったようだ。
いや、むしろ一番美咲を見えていないのは、自分ではないだろうか。
「そういえば、美咲って今どこ? 来てる?」
「たぶん四限出てる。もうちょっとで戻ってくるんじゃね?」
やはり美咲は、誰も知らない姿に変わりつつある。それが彼女の新しい道ならば、そっと背中から立ち去ることしか、俺にはできない。
そのとき、目の前に紙ヒコーキが飛んできた。
「あ、わりい敬斗。お詫びにそれあげるよ」
「なにこれ?」
「一昨日教室で拾った」
誰かがくれたその紙ヒコーキには、文字がびっしり書いてあった。思わず元の紙にすると、何かのチラシのようだった。どうやら我々の学部は、数年後に都心に移転するらしい。
「なにそれ?」
別の誰かが
「知らんけど、何かのチラシっぽい」
その誰かに答えた。
「あーそれ、見たことある。なんかのデモのやつでしょ? 今日昼休みにやってたわ」
「先週も、ちょうど金曜にやってたな」
誰かと、また別の誰かの、会話が弾んだ。
二人の注目は紙から外れたため、その紙をもう一度、よく見てみた。すると、明らかに印刷とは違う、芸能人のサインらしきものが書かれていることに気付いた。ほとんどが読めない崩されたアルファベットだったが、Kの文字だけははっきりとわかった。
おまけになぜか、女の子が描いたような花と、下手くそな月の絵が添えられていた。
意味はわからなかったが、なんとなくシンパシーを感じたので、鳥を書き足しといた。
「何してるん?」
雄輔が紙の存在に気付いた。
「いや、別に」
その紙を再び紙ヒコーキに戻し、適当に飛ばした。
思った以上に飛んだ。風に乗り、空気を蹴って、まるで鳥が羽ばたくように、開いていた窓の外に行ってしまった。
ぼんやりそれを眺めていると、誰かの声が響いた。
「そろそろグラウンド行こうぜー」
それ以降、その紙ヒコーキを大学で見ることはなかった。
「ほら、早くグラウンド出てー」
次の団体が使うため、終了の19時までに全員がグラウンドから出なければならない。もしこの入れ替わりが遅れ、後の団体に迷惑がかかると、最悪の場合、グラウンドの貸し出しが受けられなくなってしまう。そのため、毎回この時間になると練習中より慌ただしくなる。
「やっべ、今日バイトあるの忘れてた」
「アホ過ぎるだろ」
「てことで、
「いや待って! 行くから! 今から店長に電話するわ」
「おとなしくラーメン作りに行ってろ」
人目も
「19時45分に多摩センだからな。遅れんなよー」
サークルを主に仕切っている先輩がそう声を掛けると、十人十色の返事がその場で生まれた。中にはふざけて裏声で返している者もいる。
「あれ? 今週って高幡不動のとこ行くんじゃなかった?」
「ああ、あの店、レイキャンの奴らが何かやらかして、大人数の予約できなくなったらしい」
「ええ!? マジで!? あそこってそんなヤバい集団なんだ」
「身内でハメ合ってんのは勝手だけど、他所に迷惑かけんのはさすがにやめてほしいよな」
彼らとは別に更衣室で着替えを終えた俺と雄輔は、世間話をしながら、彼らが着替え終わるのを待っていた。すると、先輩が声を掛けてきた。
「敬斗と雄輔も、こいつら放っといて早く行った方がいいぞ。どうせ遅れるから」
そのアドバイスに一応従い、その場を後にした。
駅までの長い道のりを世間話にも満たない小話で潰していると、前に女子マネージャーたちの集団が見えた。その中にはもちろん、美咲もいる。
「なんとなくだけど、美咲、今日、いつもより元気そうだったな」
「え?」
おそらく、反応としては最悪だった。
だが、雄輔の一言はそれほど、俺にとって思いがけないものだった。
「え? 逆に最近元気なかったの?」
反応としては当然である。
「いや、そんなことないけど、まあ……」
「間に合ったー!」
後ろから寿が勢いよく肩を組んできた。内心、雄輔の「やっぱ美咲となんかあったの?」という問いの芽を摘んでくれた彼に感謝した。正直、雄輔だけには、美咲との今の関係を悟られたくない。雄輔に逆転の隙を与えるだけである。
「電話済んだん? 店長に」
「やべ! まだしてなかった!」
「やっぱこいつアホだ」
間違いない。やはり寿は阿呆である。
次々と合流してきた友人たちと共にモノレールに乗り、多摩センターに到着した。大学から近く、なおかつまあまあ大きな駅であるこの多摩センターは、我々のような大人数のサークルや団体にとっては、貴重な飲み場だった。他のサークルともよく鉢合わせるのが何よりの証拠である。
予約していたのもあるが、我々のような集団の扱いに慣れた店員のスムーズな
それぞれの座卓が形を成していく中、美咲は先ほどの先輩と同じ座卓にいた。だが、その表情は明らかに曇っている。それもそのはず、この先輩は酒癖の悪さで有名であり、しかも
我々が入店してから約十分後、別の集団が来て、店内はすぐに満席になった。金曜の夜らしい盛況ぶりの隙を見て、時々美咲の様子を
約一時間半が経過した頃、用を足すために席を立つと、我々の後に入店してきた集団の席の横を通りかかった。そこには知り合いの姿もいくらか見え、その中には西井もいた。どうやら西井が所属するサークルらしい。一応
席に戻る途中、西井のサークルのメンバーと思われる女子に声を掛けられた。
「あの、すいません。鳥飼くん、ですよね?」
「え? はい、そうっすけど」
「あ! やっぱり!」
そう言うと彼女は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「私、実は、鳥飼くんのこと前から知ってるんです! 西井くんとか、辞めちゃったけど風間くんとかと前からよく話してましたよね? それで気になって、西井くんから名前聞いて、今日たまたま会えたから、思わず話しかけちゃいました!」
その勢いに押され、少しずつ姿勢が後退していく。
「あの、もしよかったら、LINE交換してもいいですか?」
完全に尻尾を握られた。されるがままに彼女の要求を呑み、解放され席に戻ったものの、案の定、その姿を友人たちに見られていた。
「誰? さっきの
「わかんねー。いきなり話しかけられた。なんか、知り合いの知り合いらしい」
「なんだよそれ。ロマンスの神様みたいだな」
「どんな例えだよ」
「なんていう娘?」
「あ、名前聞いてねえや。LINEは交換したけど」
「なんじゃそりゃ。ぐちゃぐちゃやな」
そうこうしていると、先ほどの彼女が他の女子数人を連れて、俺たちのいる座卓にやって来た。
「あのー、私たち、クラッキっていうフットサルサークルなんですけど、よかったらご一緒しませんか?」
我々は断る理由などない性別と年頃である。
「どうぞどうぞ! 狭いけど大丈夫?」
「はい! それじゃ、お邪魔しまーす!」
男四人、女三人の合計七人が、四人掛けのテーブルに身を寄せ合っている。文字通り、本当に身を寄せ合わないと座れない。
俺の横には先ほどの彼女が、必要以上に身体をもたれかからせ、たまに下半身に手を回してくる。先ほどはわざとらしく、俺のお酒を間違えて飲んだと言ってきた。
だが、場の雰囲気は最高潮に達していた。
「へー、くれはちゃんっていうんだ。漢字どう書くの?」
「紅白の紅に、華があるみたいなときに使う華って書いて、
「へー! めっちゃかっこいいじゃん!」
「紅華ちゃんって前から敬斗と知り合いだったの?」
「うん! そうだよねー、敬斗!」
いつの間にか、呼び方も下の名前になっている。
雰囲気を壊さぬよう、ある程度のアプローチを受け入れていると、彼女のギアはどんどん上がっていった。そろそろ片方の腕が巨人族になる頃合いではないだろうか。
「敬斗くんって、彼女とかいるの?」
「え?」
紅華以外の女子からの不意な問いかけに、思わずたじろいでしまう。横で右腕に胸を当てている紅華の視線も、自然と俺の口元に集まる。
「あそこにいるよ。な? 敬斗」
想定外の方向から飛んできた返答と、その主である寿の指差した方向が交差し、女子たちの目線は混乱していた。だがすぐに寿の指の方向に注目が固定され、五人が一斉に美咲のいる座卓を見た。すぐ後に俺の視線が合流し、その二秒後ぐらいに、ゆっくりと視線を動かす紅華の姿が見えた。
満を持して美咲を見つけた紅華は、一瞬ほくそ笑み、テーブルの下で柔らかく触れていた俺の
「あれ? これもしかして、言っちゃダメなやつだった?」
おちゃらけて言う寿の言葉に、笑い声が生まれる。
「初対面の女子と飲むときは、秘密にするって約束だろ?」
ノリで返した俺の言葉が、笑い声を相乗させる。
ただ、紅華だけは、笑い声を発さなかった。その代わり、耳元に
「ねえ、最近、上手くいってないんでしょう?」
先輩たちと時計の針と同じ速度で時間を共有する美咲の姿に、横にいる女性は何を感じ取ったのだろうか。
「答えは後で聞かせてね。鳥飼敬斗くん」
そう言うと、紅華は体勢を戻し、元いた座卓の方を見て、
「ごめんね。ウチらそろそろ出るみたいだから、じゃあね!」
不満声を漏らす寿たちの引き留めに目もくれず、他の女子たちと身を寄せ合いながら元の座卓に戻っていった。
「LINEぐらい教えてよー。ねえ、紅華ちゃん」
「充電なくなったから無理。あと私、たぶん君より年上だよ?」
寿の粘りも虚しく、負けた後の渋谷の日本代表サポーターのように、女子たちはあっさりとその場から退散した。
「寿、もうやめとけって」
「えー、でもさー」
「ねえ、さすがにしつこいよ?」
「あ、すいません」
一瞬語気を強めた紅華だったが、座卓で残ったグラスを飲み干している俺に、隙を見て片目で合図を送った。その口角は上がっていた。
「なんか、最後の紅華ちゃん、怖くなかった?」
「そうか? 去り際俺らにウインクしてたの見てなかったん?」
「勘違いすんな。どうせ忘れ物ないか見てただけだろ」
「寿、見事に最後まで紅華ちゃんに避けられてたな」
「は? 黙ってろ」
西井たちのサークルが店を出た二十分後、我々のサークルも店を後にした。最後にトイレに行こうとしたとき、こちらに向かってくる美咲の姿を見たが、完全に泥酔したあの先輩に絡まれ、行く手を
そのときに見た重い表情以来、その日は彼女を見ていない。
「敬斗くーん、待ってたよ!」
その甘ったるい声は、すぐに俺の背筋を伸ばした。
「あの娘、いないよね? やっぱりそうなると思った」
冷たさを垣間見せた残響に換わり、遂に鳥肌が立った。その隙を突かれ、完全にペースを紅華に握られた。
「この後、空いてる?」
長袖から半分だけ出した紅華の左手が、俺の右袖を少しずつ引っ張る。
「その正直な眼、嫌いじゃないよ」
ついに手を引っ張られた。しかし彼女の言う通り、身体は抵抗していない。心も不思議と彼女の強引な
「どこ行くつもり?」
「決まってるでしょ」
若気と平穏が入り乱れるこの眠らない街が、二人を大人の世界に導いていった。
「やっぱり、しばらくしてなかったんだ」
午前1時16分、ホテル・ニューフィラデルフィアの薄暗い一室には、未だに二人の
その行為に思わず赤子のような声が出てしまい、それを見た紅華は上目
「なんで、わかったの?」
誤魔化すように尋ねる。
「同じ店に恋人がいるのにあからさまな誘いを避けないって、普通に考えたら自殺行為でしょ? だから、別にそう思われてもいいんだろうなー、そう思った」
思えば俺は、店の段階から彼女の誘いを受け入れていた。身体は誤魔化せない。
「で、今はどんな感じなの? 明日も私と会ってくれるぐらい、決心はついてるの?」
既に一通りの営みは終わっているため、室内の熱気は落ち着きを取り戻している。
その分、耳の痛い話が頭上に現れた。
「昨日さ、カラオケで美咲、ああ彼女にね、迫られたんだけど、できなかったんだ。もちろんカラオケ部屋だったっていうのもあるけど、でも、なんか違うな、って」
紅華は黙って、再び肉棒を口に運んだ。
「だからやっぱり無理なのかな、そう思ってたんだけど、それから妙に意識しちゃってて、今はよくわからない。なんか、今までと違う美咲に見えて、それが怖いっていうか、何というか」
両手で
「私、あなたのこと好き。あなたの持ってるものも好き。だから私と一緒になって。お願い」
目を逸らした。紅華はそれと同時に、
「せめて直接言いたいから、次会うまでは──」
「それっていつ?」
その反応の速さに、寿に見せた陰を思い出した。
「日曜。いろいろあって吉祥寺で会うんだけど──」
「吉祥寺!?」
勢いよく顔を上げた彼女の歯が、一瞬肉棒に直撃した。
「家近いんだけど!? すご! 偶然! 行っちゃおっかなー?」
運命的なものを無視しつつ、さすがにそれには、はっきりと拒否の意思を示した。
「嘘嘘。冗談。でもなんでわざわざ吉祥寺なの?」
「その日にそっちの方で試合あってさ」
「ふーん、そのついでってことか」
相変わらずこの分野に関しては、彼女は一を聞いて十を知る。おそらく、今発した言葉以上のことを、頭の中で処理しているのだろう。
「試合見に行くのもダメ?」
「できれば一区切りつくまでは我慢してほしい」
「うーん、わかったよー」
そう言うと紅華は、未だに天井を向く肉棒の上に、肉壺を置いた。
「何週間ぶりか、もしかしたら何ヵ月ぶりかもしれないけど、久しぶりなんだから、もう一回ぐらいいけるよね?」
彼女の予測は正しかった。
再び紅華の赤に呑まれた俺は、そのまま少しの間、放心していた。
次に我に返ったのは、紅華のスマートフォンから着信音が鳴った瞬間だった。だが、紅華はそれに目もくれない。三十秒ほど経過し、音は鳴り止んだ。
「出なくていいの?」
「いいの。どうせあいつからだから」
「じゃ、またね!」
朝になり、始発が動き出すと、紅華は素直に帰っていった。
休日の京王線の窓の外はもう、朝焼けが
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