第17話 二日目
霧香は枕代わりの丸めたナップサックから頭を上げた。
思ったより深い眠りに落ちていたようで、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなっていた。
長い悪夢を見ていたが内容は思い出せなかった。
自分がなかば遭難中という現状を思い出すとややがっかりしたが、(いやいやわたしは任務遂行中だ)と自分に言い聞かせ元気を奮い起こした。
(いいこと考えよっと)
厄介なトラブルに巻き込まれることもなく一晩過ごせたのは良かった。標高二万フィートの山頂や極地ほど過酷ではなさそうだ、という意味だ。定期的に安眠休息可能なら生存率はずいぶん上昇する。
一日二食と決めていた非常食の朝食を済ませ、テントを畳んで出発した。順調ならあさってには目的地点にたどり着けるだろう。
トーテムポールの林は夜通し燃え続け、朝になってもまだ燻っていた。幹の半分ほど燃えてしまったようだ。根本には炭化して剥離した幹の一部が堆積している。あれが土になり、いずれ芽吹く次世代の養分となるのだ。酸素を大量に含んだ熱帯気候では腐敗は急速に進む。生命誕生初期の性急でダイナミックな生態であった。
この世界で安全を図るには、食物連鎖の序列を見極めることが重要だ。
つまり簡単にいうと、霧香を昼食と見なしかねない生物の存在を知ることだ。
ところが、携帯端末に納められた科学者たちのレポートは、アカデミックすぎて意味が掴みにくい。ヘンプⅢの生物関連構造を手っ取り早く説明した論文が都合良く見つかる、あるいはこれこれこの生物は危険、近づくべからず、といった観光ガイド的なテキストなんていくら捜しても見当たらず、霧香はがっかりした。
ヘンプⅢは古くから律儀に不可侵領域として認定され、旅行者用の現地ガイドは編纂されなかった。同じ地球型惑星でもクエルトベル31やマーハンほど人類の注目が集まらなかったのだ。そして科学者たちははたとえ猛毒の類でも無味乾燥な化学記号で記すのだ。不自然に連なったNやOは身体に毒だ、あるいは六角形をなしていない分子構造式がまずいというのは理解できる。だが異世界の分子記号を含んでいるとなると、霧香の知識では半分も理解不能だ。
だが、こういうのはどうだ。
――ダンドリオンロールの球胚は硬殻種子の密集体であり、根核には高密度のメタンが溜めこまれている。高密度ガスの吸収は浮遊胞子と同じくヘンプⅢに生息する高等生物全般に見られる特徴であり、それらは種子をまく際の燃料となる。硬殻種子は爆発的に膨張するガスにより高速度で周囲にまかれる。その初速は最大200メートル/秒に達する。その構造は昆虫による種子の搾取に対抗する役にも立つようだ――。
突然弾けて弾丸のように種を飛ばす植物が存在するわけだ。天然の対人手榴弾である。気をつけなければコスモストリングでも防ぎきれないだろう。
ヘンプⅢの植物がどうやって高密度の水素やメタンを溜めこむことが可能なのか、それだけでも理解できれば、ヤバそうな植物を見分けて危険を回避する術もあろうが、それもまた極めて専門的な論文にまとめられている。読んでみても、ある種の寄生バクテリアを介して水と激しく反応する触媒……たとえばマグネシウムを精製するように進化したらしいということ、圧縮されたガスによる冷却と大気との温度差をエネルギーとして利用しているということを漠然と理解できただけだ。
(キリが無い)
どのみち、ヘンプⅢの研究は十分なされていない。1世紀のあいだ研究者はわずか10人あまり。そして異星人と接触した今は生物学者の関心は余計薄れている。
結局はフィールドワークでじかにヘンプⅢ生態系の驚異を体験するしかないわけだ。そんなのは命が九つあってもおぼつかない。
霧香はそれでも口端に笑みを浮かべていた。古典SFのステージツリーを思い出していたのだ。天然のロケットによって宇宙空間に種子を撃ち出す植物、というのが大昔のSF小説に登場する。ヘンプⅢもそんな進化を辿っているように思えた。
ひょっとしたら、腐食ガスの海にそそり立つテーブル台地しか生存の場が無いことをヘンプⅢの動植物は原始的本能で感じ取ったのかもしれない。そのためにスターシードを生み出すような進化を辿っているとしたら……
ただし残念ながら、ステージツリーらしき植物は発見されていない。
(たとえ存在したとしても、都合良く人間ひとりかふたりぶんの余分なペイロードを乗せて飛ぶのは無理だろうけど……)
生物の進化とは必要ギリギリに発達するのであり、無駄な助長性を獲得する余地はない。
もっともステージツリーが存在していたとしても、そんなものを利用するつもりはない。ただ打ち上げの瞬間を見てみたいだけだ。大昔の固体燃料ロケットのように壮大な花火……さぞ興味深い眺めだろう。
霧香はまだそれほど切羽詰まっていないと思っていた。
それはまちがいだった。
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