第9話 敵の懐へ
電脳人格を死者と見なすのはエチケット違反だが、霧香はすでに亡くなった人がコントロールしている船に乗るのは初めての経験だ……
ゴースト、VP……地域によって呼び名は異なるが、電脳化した人間は徐々に現実世界との接点を失うのが普通だ。サーバーの中の仮想現実『4.0』でセカンドライフを満喫しているうちに「外界」に興味を失うからだ。
『4.0』は当時のあらゆるネットワークゲームやメタバースシミュレーターを統合して900年ほど前に誕生した電脳人格の住処だ。いわば娯楽満載の電子天国。そしてファストタイムで時間が進む……住民は不死の理想社会に満足して現実世界には見向きもしなくなるという。
ブルックス夫妻のような例は少数派だった。
メアリーは船を華麗に転進させると30秒間噴射を行った。
〈メアリーベル〉は秒速100メートルでアントノフに向かった。
加速Gを感じるのは正真正銘初めての経験で、尻をくすぐるような力で背中のバーに押しつけられたときはわけもなく緊張した。普段であれば、宇宙船に乗っているあいだに加速を感じることは、慣性航法システムに何らかの異常事態が持ち上がっていることを意味するからだった。
船が前進し始めると警報が鳴った。前方の他船とのコリジョンコースに乗っているという自動警告だ。ブルックスはすぐに警報を止めた。
海賊であれなんであれ、相手の船までは数分だ。すでに望遠鏡がアントノフの姿を捕らえていた。
ブルックスはレーダーをいちどちらりと見ただけで、あとはのんびりしていた。アルコールは抜けていないはずだが、操船作業はしっかり踏んでいる。操船がほとんど生活の一部となっているのかもしれない。
自由落下のあいだに霧香は届いた荷物を引っかき回し、それらしい作業服に着替えていた。
作業服の下にはコスモストリングをつけている。本当に必要なのはGPDの制服であるストリングとブーツ、それに目立たないポーチに仕込んだ七つ道具だけだ。
相手の目を逸らすために余計な装備を上着のポケットに詰め込んだ。
〈メアリーベル〉がふたたびとんぼ返りするように180度向きを変え、減速の体勢に移った。じつに滑らかだった。地面の向きが変わるたびに手足を踏ん張ってなんとか姿勢を維持しながら、人工重力無しの船も案外面白い乗り心地だと霧香は思った。
「楽しんどるようじゃな」
「え?」霧香は戸惑った。「どうして?」
「おまえさん、笑っとった」
「そ、そうでした?」
「おっかなくないんか?」
「もちろん不安はありますよ」霧香は反射的に答えた。が、内心首を傾げた。
(本当にびびってるか?)
老人は霧香の生返事を勝手に解釈した。
「若いのう……。勇ましいのも結構じゃが、ほどほどクールにな」
「はあ……」霧香は顔をこすった。そんなにニヤニヤしてたかな?「……気をつけます」
老人は皺だらけの顔をくしゃくしゃにして悪鬼のような笑みを浮かべた。「まあ3Gを体験してみるこった。笑ってなんぞいられんから」
(なんだ)とんちんかんな話をしていると思ったら、霧香が加速Gを楽しんでるのをちゃんと承知していたのだ。食えないおじいさんだ。
加速時よりも緩やかな噴射で、メアリーベルはアントノフからきっかり三百フィート離れた脇にぴたりと制止した。
霧香は観測窓から相手の船を眺めた。年季の入った角張った船だ。
六角形のコンテナをふたつ並べてそのあいだに船体構造物を詰め込んだ形をしている。
『エアロックを繋げって言ってる。ゆっくり寄せるわ』
ずん、というかすかな音が船体を伝わり、エアロックが接続されたことを告げた。
さあいよいよだ。
ブルックスと船倉まで漂い、エアロックの前に立った。
「それでは行ってきます」
「おう、待て。わしも着いていくぞ」老人は壁際に取り付けた道具箱から散弾銃を取り出していた。電力に頼らずフォースフィールドに対して貫通力のある火薬式火器は自衛武器として人気が高い。
それはともかく霧香は慌てて言った。
「ダメよ!危険すぎるわ。それに武装していくなんて」
「べつに武装するなとは言われておらんようだが」
「それは……」
「本物の海賊だ。ぜひ一度お目にかかりたいと思ってたんじゃ」
「遊びに行くんじゃないんですよ……」霧香は宙に向かって言った。「メアリー、なにか言ってください」
『その人頑固なのよ』
「そんな……」
「なに、妻はわしが早く電脳化するよういつもせっついておるんじゃ。心配要らんぞ」
「そんなむちゃくちゃな……」
「はよ行くぞ保安官。あんたみたいな若いお嬢ちゃんをひとりで行かせたりしたらみんなの笑いもんになっちまう……妻に軽蔑されるのは言うまでもない」
「仕方ないなぁ……」
『そうよマリオン。諦めて。ここで見ていてあげるから、気をつけて行ってらっしゃい』
なんだかママにピクニックに送り出されるみたい……霧香は妙な成り行きに困惑しながらエアロックの扉を開けた。
初仕事だというのにこれでいいのか。
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