第25話 伊那 21歳 夢を繋げる

 その夜、伊那が真夜中にふと目を覚ましたとき、ロウの右手が伊那の左手のそばにあった。伊那はそっとロウの右手と自分の左手を重ねてみた。


 人の過去の記憶の映像は左回りにその人のまわりを漂っている。前世の情報も同じ、左回転だ。地球の自転・公転と同じ方向だ。エネルギーとしては右手から出て左手に入る。だから、力を入れるためには対抗して右回転にする必要がある。情報の映像は、意図を持って逆回転にまわすことはできるし、どういう理由なのか、基本的に逆回りの人も存在する。人の右利きと左利きと同じようなものなのかもしれないが、右利き、左利きとは関係がない。


 いま、ロウの右手からもエネルギーが流れてくる。ロウも普通の人と同じように情報のエネルギーは左回転で流れている。だから伊那はいつも、ロウの左手側から流れに乗って映像を送ろうとしたがうまくいかなかった。ロウの中にすでに存在している多種多様なエネルギーを超える濃さで映像を送り、ロウに認識させるのが難しいのだ。

 伊那は、逆回転させて送ればどうだろう、と思いついた。いつも左手側から送っていたが、右手側から逆向きに送れば、ロウのエネルギーを超える濃さを持つ必要はない。それは現実世界の中に現れる幻のような儚さを持って、ロウに認識されるかもしれない。

 ロウは安らかな寝息をたてている。いま送ってもいいのかしら、と伊那は一瞬ためらったが、ロウの言葉を思い出した。夢の中で受け取ってもかまわない、とロウは言っていた。

 それにもしかすると、今から送る、と言ってしまうとうまくいかないかもしれない。送られる、と意識することが枷のようにエネルギーを止めるかもしれない。

 ロウの、草木の歌を聴きたいという希望を優先しよう、そう伊那は決心した。


 ロウの右手からエネルギーが流れてくる。慣れ親しんだ、ロウの温かくて強い愛に満ちたエネルギー。伊那はいつものように、ロウから流れてくるエネルギーに自分の波動を同調させた。しばらく同調させてから、伊那はそっと自分の中のエネルギーを逆に回転させた。ロウは静かな寝息をたてているままだ。ロウから流れてくるエネルギーの流れはそのままにして、伊那は逆方向のエネルギーにそって辿って行った。

 これってなんだか忍者みたい、と伊那は思った。

 ロウに気づかれないようにロウのエネルギーの中を辿っていく。でもそもそも、こうやって中に入れるのは、ロウが私を信頼してくれているからだ。普通は他者のエネルギーには防御線が張られている。防御線は弱い人と強い人がいて、ロウは明らかに強い。恋人でなければ、ロウの防御線の中には決して入れないはずだ。伊那はロウとは違い防御線が弱い。


 逆回転にたどっていくと、いつものロウの温かいエネルギーの外側に寂寥とした広大な荒野のようなものを感じるようになった。

 これは一体なんだろう。この荒涼な大地が、ロウの温かさを支えているというのか。伊那は自分の意識を荒涼な大地のほうへ広げていった。だが、果てがわからない。

 どうしたらいいんだろう。これ以上意識を広げたら自分を保てなくなりそうだと伊那は感じた。ともかく、もとの道を先に進んでみよう、そう思い伊那は意識を中央に戻した。

 外側に荒涼な大地が広がっていることを知った今では、中央の温かいエネルギーさえも違う種類のものに感じてくる。この先にいったい何があるのだろう。伊那の中に獏とした不安が芽生えた。伊那は深呼吸をし、不安のエネルギーに呑まれないように心の水平線を引きなおした。心を平静に保とうとするときにいつもしていることだ。

 そもそも、ロウに激しく惹かれたのは、この果てのない荒涼な大地のせいかもしれない。私が予知する範囲でしか思考も行動もできない男性に惹かれるはずもなかった、そんなことに伊那は思いを巡らせていた。


 中央のエネルギーを辿ってみても、なかなか目的地には到達しない。荒涼な大地は、少しずつ姿を変えていく。だんだん暗くなり、雨が降っているかのように湿度があがり、やがて雪のように冷たくなってきた。こんな荒野の中でロウは本当に平気なのか、と思ったが、中央に流れている温かいエネルギーはいつもと変わらないロウのエネルギーだ。

 荒野のようだった外側のエネルギーは、もはや荒野ともいえない種類のものに変わっていく。あまりにも荒んでいて、戦場のようだ。死体や武器があるわけではないが、白刃が斬り結んでいるような、殺気にも似たエネルギーだ。でも中央の温かいエネルギーは変わらない。


 伊那は、これがロウの人生なのか、と感じていた。生まれる前から、父母の国の間に横たわる戦争に否応なく巻き込まれ、半分ずつの血に悩んだり苦しんだりしながら生きてきたのだろう。その中で音楽への情熱だけがこの人を支えてきたのだ。それがなければ、とっくに人生を放棄しているのかもしれない。

 だが、殺伐とした空気の中をどれだけ進んでも目指す目的地には到達しない。伊那は疲弊してきた。本当にたどり着けるのか。そもそも目的地はどこだったのだろう。なにを目的として私は進んでいるんだろう。そうだ、ロウの希望を叶えようと思ったのだ。

「できるよ。君は僕の恋人だから」

 ロウはそう言った。

 進もう。先はまだ見えないけれど、ともかく進んでいこう。

 延々と続く暗闇、その殺伐とした空間の向こうに、突如、きらめく星が姿を現した。


 星だ、星がまたたいている・・・!


 そう感じた瞬間、ロウがくるりと寝返りを打ち、伊那はベッドの上の世界に引き戻されて目を開いた。ロウは右手で自分の額を抑えて呻いていた。


「彪、彪、大丈夫?!」


 ロウは顔をしかめて荒い息を吐いている。伊那は思わずロウの頭を抱きしめた。ロウの額から冷たい汗が流れている。伊那は、ロウのエネルギーを荒らしてしまったのか、壊したのか、どんな悪い影響を与えたのかと、あれこれ考えながら動揺していた。

 寝ている間にエネルギーを逆回しにするなど無謀すぎたのだ。ロウに何かあったらどうしよう・・・。

 伊那はゾッとした。


 ロウはしばらく荒い息を吐いていたが、やがて落ち着いてきて、口を開いた。


「聴こえたよ、イナ」

「えっ?」

「君が送ってくれた音楽が」

「本当に?」

 伊那は驚いてそう確かめた。

 そもそもそう意図したのは確かだが、最終的に「音楽を送る」作業をした覚えがなかった。見えない世界では、行動より意図のほうが優先されるのだろうか。

「どうしてイナが驚いているの」

 ロウはそう言って微笑んだ。いつものロウだ。

 よかった、と伊那は安堵した。

「意図はしたけれど、ちゃんと送った覚えがなくて」

 伊那はそう答えた。

「それより、体の具合は大丈夫なの?すごく辛そうに見えたけど・・・」

「うーん、新芽の歌を聴いている間は、体の感覚もまったくなくて、なんていうのかなぁ、音楽の中に溶けているみたいだったよ。自分という感覚もなくて、新芽と一緒になって、同じ歌を歌ってた。幸せという言葉なんかじゃ言い表せないな。幸せの一億倍くらい、上等だったよ。僕は詩人じゃないから、これくらいしか表現できないな」

 ロウはそう言って笑った。

「だけど、その上等な世界から、急激に転がり落ちるようにこっちに引き戻されたんだ。その落ちている最中に、頭が割れるように痛くなってきて」

 ロウは頭を押さえた。

「うん、だけど、もう大丈夫だ。あの新芽たちの歌を忘れたわけではないし。僕の望みを叶えてくれてありがとう、イナ」

 ロウは優しく伊那を抱きしめた。

「イナは最高の恋人だ」

 伊那は安堵ともため息ともつかない息を吐いた。

「新芽たちの歌を送れたのはよかったけど、危険な方法だったみたい。彪が無事でよかったわ。誰か教えてくれる人がいればいいけれど、いつも手探りだから・・・」


 伊那は、誰か師匠みたいな人がいればいいのに、と思った。イチョウはいろんなことを教えてくれるが、人間同士のことはわからないし、日本にいれば、神道や仏教の世界にそういう教えがあるかもしれないが、ここはフランスだ。

 

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