第10話 伊那 19歳 輝く声

 ロウの波動は、前に会ったときよりずっと柔らかかった。最初に会ったときのような圧倒するエネルギーはなかった。それでもロウと離れてみると、体のすみずみにロウの声が残っているような気がする。

 あの人が特殊な人だからだろうか。あの人は才能ある歌手で、声の美しさも、声の波動も傑出している。あの人自身が気づいているかどうかわからないけど、いや、気づいていないことはおそらくないだろう・・・。あの人は、自分の歌を通して、他者に感情や情景を届ける特殊な霊能力を持っている。たぶん、優秀な歌手、優秀な俳優など、舞台に立つ人はみんなあの人のような霊能力を持っている。だから、他者を感動させることができる。


 それとも特殊なのは私なのか。子供の頃から、他の人には見えないものを見て、聴こえないものを聴いてきた。感じないものを感じてきた。いまは子供の頃のように明確ではないけれど、それでも、なにかのはずみにくっきりとこの世に重なった別世界が顔をのぞかせる。樹木や草花からエナジーを感じたり、誰かのそばにいるときに、その人が思い出している過去の記憶がまるで映画のようにはっきり見えてしまったりすることも。そう、数字と言葉を交わすのも、私の特殊能力だ。

 それとも・・・私とあの人の組み合わせなのだろうか。あの人が発信する霊能力とすれば、私は受信する霊能力だ。

 そこまで考えてから、伊那は彼のことばかり考えている自分に気づいた。

 いったい、あの人と会ってから、どれくらいあの人のことばかり考えているのかしら。またヤドヴィカに、彼に恋しているって言われてしまうわ。あの人は私の二倍、いや二倍より三倍のほうが近い年齢なのに。


 ふと、伊那は、今日の数字に想いを馳せた。5月15日にロウと出会ってから、昔のように今日の数字のエナジーを感じようとしているのだが、朝は思い出しても、日中は忘れていることもある。今日は5月21日。ゲートの開く日だ。

 ああそうだ、ヤドヴィカとあのカフェーに行くことになるのだわ。水曜の授業ってどうなっていたかしら。


 ヤドヴィカに、ロウが友達と一緒においでと言っている、と告げるといつも物静かなヤドヴィカが珍しくはしゃいでいた。ヤドヴィカは音楽、とくにクラシック音楽に詳しい。ショパンはポーランドの英雄でもあるので詳しいのは当然だが、ヤドヴィカはショパン以外のクラシックにも詳しかった。もっともヨーロッパの人はみんな、クラシック音楽との距離の取り方が日本とはまったく違う。クラシック音楽がもっと身近なのだ。ストリートミュージシャンがクラシックだったときは、音楽に対する土壌の違いを感じた。

 ヤドヴィカの説明では、ロウは録音嫌いで知られていて、ほとんど録音をしていないのだそうだ。歌は瞬間の芸術であるという信念にもとづく、とも言われているけれど、と前置きをしつつ、本当は政治的背景のせいかもね、とヤドヴィカは付け加えた。

 伊那は、ヤドヴィカに聞いたり、自分で調べたりしながらロウの公的なプロフィールを追いかけてみたが、不思議なことに母親は日本人だという記載は一切なかった。中国人、としか書かれていない。なぜだろう。ヤドヴィカに聞いてみたが、ヤドヴィカも知らなかった。もっとも陸続きのヨーロッパの人たちの間では、他国との混血は珍しくなく、いちいちそこを追求したりしないようだ。ショパンも父方はフランス人だが、わざわざそういう風に記載されることはない。それに日本と中国の間に深い亀裂があったことは、ヨーロッパの人にとってあまり実感のないことだ。


 水曜の午後、伊那とヤドヴィカは連れ立って、カフェー・フロールに向かった。ヤドヴィカがなんだか緊張してそわそわしているのがおかしかった。カフェーの重い木の扉を開くと、アンドレがいつもと同じように明るく微笑んでくれる。奥のテーブルに輝く銀の髪を持つ人が座っていた。今日は待ち合わせなの、とアンドレが聞いた。ウィ、と伊那が答えると、そう、友達になったの、と言われた。友達、そうだろうか。もちろん友達以外に表現のしようもないけれど。

 ロウは伊那とヤドヴィカを認めると、にっこり笑ってBonjour!と言った。ロウが一言発するだけで、音の波動が空間の輝きを変えてしまう。二人はロウのテーブルのそばにやってきた。伊那はふと、そういえば礼儀的には必ず男性を女性に紹介するのだっけ、と思い出した。でもこの場合、すでにヤドヴィカはロウのことを知っているのだけど、どうしよう?と一瞬迷った。一応、礼儀に従っておこう、そう思って伊那はまずロウをヤドヴィカに紹介した。


「ヤドヴィカ、彼がファーン・ピョォウです」

 ヤドヴィカの手前、伊那はフランス語でヤドヴィカを紹介した。が、ロウの名前はどうしてもうまくいえず、つっかえながら発音した。ロウは微笑んで伊那とヤドヴィカを見た。

「よろしく、ファーン・ピョォウです。ロウと呼んでください」

「ロウ、こちらは私の友達のヤドヴィカです」

「はじめまして、ヤドヴィカ・ヴィシニエフスキです」


 ヤドヴィカがロウにフランス式挨拶のリップキスをし、ロウも挨拶のキスを返した。伊那がまだマスターできないフランス式のキスだ。何度もヤドヴィカから教わったのだが、どうもうまくいかない。フランス式の挨拶のキスは、頬にキスしているように見えるが、実際には頬に口づけてはいない。頬と頬を近づけるだけで、キスしたような音を口で軽くチュっとはじく。伊那がやると、どうしてもこちらの人のような軽やかな高い音が出ないのだ。キスの発音ができないなんて、どういうことだろう。たしかにキスには慣れていないが、実際にはキスではなくキスの音なのに、やっぱり難しい。


「ヴィシニエフスキ・・・ポーランドの人かな」

「そうです、ポーランドです」

「そう、マリー・キュリーと同じコースだね」

「はい」

 ヤドヴィカは嬉しそうに笑った。

「私はポーランド語を話せないのだが、ポーランドの歌は歌えるよ。君たちがお茶を飲む間にポーランドの歌を歌おうか」

「まぁ、本当ですか?すごく嬉しいですわ。こっちにきてから、母国語を聞くことなんてなくて」

 ヤドヴィカが目を丸くした。

「そうだろうね」

 ロウが立ち上がってピアノに向かうと、カフェーの客が気づいて拍手した。ロウが軽く手をあげてそれに答える。ロウはカフェーの客に向かって言った。

「ショパンの春を歌うよ」

 今度は伊那が目を丸くした。

「ショパンは歌なんて作っていたの?」

「そう、あんまり有名ではないけれど、歌曲もあるのよ。ショパンは『ピアノ曲以外作曲できない』って陰口をたたかれて気にしていたの。本当は歌曲もあるけれど、ほとんど有名ではないわ」

 ピアノの詩人であるショパンに向かって、「ピアノ以外作曲できない」という悪口を言う人がいたことに伊那はびっくりした。才能ある人と同じ時代に生まれるのは幸せなことではないのか。その幸福に気づかず、才能をねたむほうにまわってしまうなんて、なんて愚かなことなのだろう。


 ロウはピアノの前に座ると、たしかにショパンらしい哀愁をおびた旋律を奏で始めた。ロウの輝く声が、翳りを帯びた声になる。パリよりはるか北に位置するポーランドの春はまだ冷たい。春がきても人々は陽気に笑いさざめくわけではない。いつになったら暖かくなるのだろう、そう思いながら春を過ごすのだろうか。パリの明るい五月の中に、ポーランドのひんやりした冷たい空気が、春が来ても浮き立つことのできない哀しみが流れてきた。


 春になったのに、あの人はかえってこない。

 春になったのに、街は戦争の残骸を残したまま、建物は壊れ、人々はうつむいて歩いている。

 春の青空から光がさし、小鳥たちが高い声で歌いかける。

 でも人は空には飛び立てない。


 カフェーの客たちの拍手に、伊那は我に返った。

 まただ。ロウの歌を聴くと、伊那のまわりの世界は歌の情景そのものになってしまう。ポーランド語はまったくわからないが、きっとポーランドのまだ寒い、悲しい春を歌っているに違いない。

 ロウは、イナたちの席には戻らず、そのままピアノの前に座って、しばらく沈黙していた。

「じゃぁ、次は五月のパリが好きを歌うよ」

 カフェーの客が歓声をあげて拍手を送った。五月のパリが好き、はシャンソンだ。伊那は、ロウはカフェーにポーランドの淋しい春が流れ込んだのを気にしたのかな、とふと感じた。

 軽やかな明るい旋律が流れてくる。


 J’aime Paris au mois de mai

 Quand les bourgeons renaissent

 Qu’une nouvelle jeunesse

 S’empare de la vieille cité

 Qui se met à rayonner


 僕は五月のパリが好き

 新しい芽が生まれ

 新しい若さが古い都に満ち溢れる

 都が輝き始める・・・


 ロウが歌うと、伊那が知っている「五月のパリが好き」とは全く違う歌のように聴こえる。もっと軽やかな歌だと思っていたのに、強い圧力を持って、ロウの輝く声が喜びの光のように放射される。カフェーの中に春の華やぎが降り注いでいく。


 J’aime Paris au mois de mai

 Quand l’hiver le délaisse

 Que le soleil caresse

 Ses vieux toits à peine éveillés


 僕は五月のパリが好き

 見知らぬ人々があふれ

 魂が息を吹き返し

 太陽が輝いている幸せ・・・


 ロウの声が空間にキラキラと広がっていく。そのきらめきはまるで踊っているようだ。ものすごいスピードで、歓声をあげながら音が舞っている・・・。踊っている。音符だ、音符が踊っている。


 歌が終わり、カフェーの客たちは大きな歓声と拍手を送った。空間を跳ねながら踊っていた音符たちは、拍手の音にかき消されていなくなった。

 ああ、消えてしまった。どこかにいってしまった。いや、まだ残っている。ここに、私の体の中に。


 伊那はじっと自分の手を見つめていた。


「どうしたの?」

 テーブルに戻ってきたロウが日本語で言った。

「なんだか細胞が踊っているみたい」

「サイボウ?」

 ロウが怪訝な顔をした。

 伊那は変なことを言った、しまったと思った。

「細胞か!」

 ロウの顔がぱっと輝き、破顔した。

「細胞か、それはいい!」

 ロウは明るい華やかな声であははと笑った。

「どうしたの?」

 今度はヤドヴィカがフランス語で聞いた。

「なんでもない・・・」

 伊那はちょっと憮然として答えた。ロウはさらに笑いながらフランス語で答えた。

「私はいろんな誉め言葉を受けたけど、いまのが一番よかった、傑作だ」

「イナ、何と言ったの?日本語じゃ私はわからないわ」

 伊那は仕方なくフランス語で説明した。

「だから、その、細胞が踊っているみたいだって」

「サイボウ?」

 ヤドヴィカも単語を聞き逃して悩んでいた。

「だから、つまり、医学の中のcytology(細胞学)のcell(細胞)だよ」

 ロウが英語で言いなおした。

「ああ!」

 ヤドヴィカの顔がぱっと輝いた。

「イナらしい面白い表現ね」

 ヤドヴィカも微笑んで伊那を見た。ロウはまだ笑っている。伊那はなんとなくバツが悪かった。ロウの歌にあわせて、空中を音符が踊っているように見えたのだ。その音符は小さく散って私の体の中に溶けていき、次は細胞が踊っているように感じた。まただ。またこの人の魔法にかかってしまった。


 笑っているヤドヴィカの薄い金色の髪に、カフェーに差し込んだ昼下がりの陽の光が反射していた。そうか、金色の髪というのは光を反射して輝くんだ、伊那は改めてそう思った。その向かい側に座っているロウの銀の髪も光を反射して輝いている。光線の中で、唯一すべての光を吸収してしまうのは、黒だけだ。黒は反射しない。この人の髪が昔は黒かったのは不思議なことだ、と伊那は思った。光線を跳ね返して輝いているほうが、この人らしい。ヤドヴィカの薄い金色の髪は、きっと白髪になってもほとんど変化はないだろう。輝く髪の二人が並んでいる図はまるでおとぎの国の挿絵のようだ。

 伊那は不思議な気持ちになった。

 パリのカフェーの中で、金と銀の髪の人とお茶を飲むなんて、不思議なめぐりあわせだわ。


「久しぶりにポーランド語を聞けてうれしかったです。ありがとうございました」

 ヤドヴィカが改めてお礼を言った。

「私も久しぶりにショパンを歌えて楽しかったよ。あまりショパンを歌う機会はなくてね。ショパンを得意とするピアニストになりたいと思ったこともあるのだが」


 伊那は、そうだ、この人はピアノ専攻だったっけ、と思い出した。だがもしこの人がピアニストになっていたとしたら、ショパン弾きではないような気がする、とも思った。ショパンを得意とするピアニストたちとはなんだかエネルギーが違う気がするのだ。ショパン弾きと言われるピアニストたちは、この人のように迫力があるタイプではなくて、ショパン自身のように、線が細くて繊細な人が多いような・・・。


「どういう歌詞なの?」

 伊那はヤドヴィカに聞いてみた。

「そうね、長い歌なのだけど、だいたいの意味を言うと・・・春が来て、花が咲き、光が輝く。でも僕は悲しみの思い出の中で涙を流している、ヒバリが空で鳴いている、遠い空に飛び立ってしまった。そんな感じかしら。ショパンは美しいけれど、悲しい曲が多いわね」

 伊那は、やっぱりそういう歌なんだ、と思った。ロウの歌から受け取った情景と同じだ。

「ショパンの墓には行ったの?」

 ロウがヤドヴィカに尋ねた。

「はい、もちろん。ショパンがいまもフランスの人たちに大切にされていることがわかりますし、安心します」


 伊那もヤドヴィカと一緒にショパンの墓に行ったことがある。ショパンの墓へ行くのは、墓参りというよりむしろ観光に行くような感じだ。墓も墓の周囲も色とりどりの花で埋め尽くされ、明るく華やかで、人々からショパンへと向けられた愛に満ちた空間になっている。亡くなって百五十年も経つというのに、いまも世界中からファンが集まり、毎日毎日、生きた花を手向け続けているのだ。


「あの墓は音楽家にとっての理想だね。死してなお、ファンに音楽を愛され続けるというのは、うらやましいことだ」

 そうロウが口にした。

 伊那は、どうしてこの人は自分の墓のことを考えているのだろう、と思った。伊那よりはるかに年上ではあるが、死を考えるには早すぎる気がした。なにか、死を考えなければならない理由があるのだろうか。健康で丈夫そうだけど。


 それから伊那とヤドヴィカとロウは、連れ立って、カフェー・フロールの近くにあるイチョウの木のところまで歩いて行った。

 音楽のこと、数学のこと、大学のこと、パリのこと、ポーランドのこと、日本のこと、いろんな話題を紡ぎながら、三人は楽しい時間を過ごした。ヤドヴィカは決して口数が多いほうではないのだが、よく話していた気がする。ロウは話題豊富で、いろいろなことを知っていたし、話を聞きだすのも上手だった。

 カフェー・フロールから近いところにあるイチョウの木は、樹齢500年くらいだとロウが教えてくれた。伊那のアパルトマンのそばにあるイチョウほど大きくはないが、立派などっしりした木で、少し若い分、力強く重厚なエナジーが感じられた。


 いつのまにか、伊那もヤドヴィカもすっかりロウに打ち解けていた。またカフェーで会う約束をして、ふたりはロウに別れを告げた。


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