第7話 伊那 19歳 数学と音楽

 ロウは話を続けた。

「私の母は、なんとか中国語は話せたが、語学が得意というわけではなくてね。いろいろな国に移動するたび、言葉のことでたいそう苦労していた。私は父と母の国が違ったせいか、どこへいってもその国の言葉をすぐに覚えられる。そして、それを日本語に訳して母に話すのは私の役目だった。子供の頃からずっと、日本語で話すことが私にはもっとも重要で大切なことだった。私は中国人だが、母語は中国語ではなくて日本語のように感じている。それで日本人だと思う人を見かけたらつい話しかけてしまうのだ」


 伊那はロウが語る話から、歴史に翻弄されながら生きてきたロウの母親の苦難の人生に思いを馳せた。異国を放浪しながら苦労して生きた古い日本の女性、物静かだけれども芯の強い、ロウに似た黒い瞳を持つ女性の姿が浮かんできた。

 中国は隣国といっても、日本とはいろいろな問題を抱えている。この人の年齢では、国交断絶の期間も長かったはず、と伊那は歴史を思い出した。太平洋戦争のあとで、日本の血を引く人は、中国内で悲惨な目にあったと聞くけれど、この人はどうだったのだろう。

「私は音楽家なのでもうずっとこの国に暮らしている。私の知る限り、この国以上に外国からきた芸術家に優しい国はないからね」

「わかります。友達がショパンの話をしてくれました」


 伊那は、ヤドヴィカが話してくれたショパンのことを思い浮かべた。ヤドヴィカはフランスにきて初めての友達で、ポーランドの留学生だ。華やかで勝気なパリジェンヌたちの、押しの強い発言や態度になかなか馴染めなかった伊那は、同じように留学生だったヤドヴィカと友達になった。ヤドヴィカはいったん社会人になってから、改めて留学してきたので、伊那より五つ年上だ。北の国の人らしく背が高く、薄い金色の髪、薄い青い瞳を持っていた。

 ヤドヴィカは日本にいい印象を持っていた。ロシア革命の頃、ロシアに連れ去られてシベリアに取り残されたポーランドの孤児たちを、なんの縁もゆかりもない日本人が救ってくれたのだという。アメリカもイギリスもフランスもポーランドの懇願を無視し、ポーランドはシベリア出兵している日本人に一縷の望みをかけたのだ。当時ポーランドでは、日本人は「感情がなく、人助けに興味がない国」と言われていたが、もはや日本に頼る以外の方法はなかった。そしてポーランドの予想に反して、日本はポーランドの孤児たちを救う決定を即刻下し、日本赤十字がシベリアから日本へとポーランドの孤児たちを連れ帰った。病気になった孤児たちを手厚く看病し、健康になってからはるばるポーランドまで送り届けたのだ。伊那はそんな話は聞いたこともなかった。

 ヤドヴィカは親しくなってから、笑いながら打ち明けてくれた。

「だから私は、伊那の感情がわかりにくくても平気よ」

 伊那は、たしかに日本人の中でも感情の起伏が少ないほうだ。それがなかなかこの国に馴染めない原因のひとつであることもわかっていた。


 逆に伊那が知っているポーランドの知識はというと、ポーランドの位置と、ショパンとマリー・キュリーの母国だということだけだった。歴史など、ほとんどなにも知らない。それでも、ヤドヴィカにいろいろな話を聞いているうちに、いつのまにかポーランドの人たちが好きになっていた。ヨーロッパとロシアの境界に位置するポーランドは何度もヨーロッパとロシアの抗争に巻き込まれ、幾たびも、幾たびも町は灰になり、瓦礫になり、そこから再び立ち上がってきた。だから、ポーランドの人たちはヤドヴィカのように優しく穏やかで、忍耐強いのだ・・・と、そう思っている。ポーランドからパリ大学に留学したのは人生で二度もノーベル賞を受賞したキュリー夫人と同じ、そして二人はキュリー夫人と同じキャンバスに通っている。伊那は、キュリー夫人もヤドヴィカのように優しく穏やかで、忍耐強い女性だったのだろうと想像していた。

 ショパンはポーランドが誇る芸術家だ。だがショパンの時代、ポーランドはロシアの圧政下にあり、それでショパンは人生のほとんどをパリで過ごし、結局一度も故国に戻らず亡くなった。だから、彼の音楽財産のすべてはフランスのものとなっている。国家財産の大部分を芸術資産で占めるフランスは、フランスに富を与えてくれる外国の芸術家たちを大切にしてくれる。

 伊那も、フランス留学の前には、パリに客死した日本の芸術家、藤田嗣治くらいは知っておくようにすすめられた。フランス人は文化を理解するかどうかで人を判断する、と教わった。そう、たしか藤田嗣治も、太平洋戦争にまつわることで日本にいられなくなり、日本から飛び出してパリに住んでいたはずだ。


 ロウは伊那の発言を受けて答えた。

「そう、ショパンだけじゃなくて、いろいろな外国の芸術家が、母国ではなくてパリに暮らしている。日本人では、藤田嗣治もそうだよね」

 伊那はうなずいた。やっぱり藤田嗣治の話題は出るんだ、と思いながら。

「ロウさんは、どんな歌を歌っているんですか?」

「私はオペラの歌手だよ」

「オペラ・・・」

 伊那にとっては、オペラはほとんど印象のない音楽だ。ショパンのピアノは美しいと思うし、ヴァイオリンやチェロなどの弦楽器の音色も美しいと思うが、オペラを聴いて美しいと思ったことはなかった。というより、むしろ知らなかった。でも、いま、この人が歌った歌はオペラという枠組みを超えて、直接、伊那の胸に迫ってきた。

「日本ではオペラはそんなに人気がないようだね。それは日本の人から聞いたよ。あまり知らない?」

「オペラを観たことはありません」

 伊那は正直に言った。

「そうか、じゃぁ、機会があったら観てほしいな。君は何科の学生なの」

「私は数学科です」

「数学科、では君は哲学者だね」

「えっ?」

「私の知る限り、数学を専攻する人はみんな哲学者だよ。ひとつの問題をどこまでも考える。必ず道はあると信じて。君はどんな難問でも逃げ出したりしないだろう。問題がある限り答えがある。そのことを信じられるからこそ、数学を追求できるんだ。私も学生のときは数学が好きだったな」

 思いもかけず、数学の真実に触れたような感覚に陥って伊那の感情がざわっと波だった。数学の成績がいいことを面と向かって咎めるような人はいなかったが、いつでも変人扱いされていた。奇異の目で見られること、距離をおかれることはしょっちゅうだった。同じ数学科の仲間以外に、数学をもっと知りたいという願いをわかってくれる人はいなかった。両親だって、反対はしなかったものの、「どうして女の子が数学なんかに夢中になるんだろう」と思っていることは感じていた。伊那がフランスを選んだのはパリ大学に伊那が学びたい数学分野の研究をしている教授がいたからだ。数学を学びたいという理由で、フランス語から学ぼうとする伊那のことを理解してくれる人はいなかった。同じ数学科の学生以外には。


「どうかしたかい?」

 ロウに声をかけられて伊那ははっとした。

「いえ、その・・・数学を選んだことをほめられることがなくて」

 ロウの瞳に茶目っ気のある輝きが浮かんだ。

「そう、私も数学は好きだが、数学を選ぶ人には共通した弱点がある。それはひとつの道を探すことに集中するあまり、世界が狭くなることだよ。数学を理解できない人々を、自分を理解できない人々のように感じてしまうみたいだね。そういう純粋さがいいところでもあるのだが」

 数学を理解できないというのは、数学を愛する気持ちも理解できないということ、数学を愛している私も理解できないということなのじゃないかしら。それで世界が狭くなるのだろうか。


「数学の何が学びたくてパリに来たの?もっとも聞いてもわからないかもしれないが」

「最初は・・・その、円周率が理由です」

「エンシュウリツ?」

「あの、円のまわりの長さを計算するための数字です」

「あ、3.14のことか」

「そうです」

「それがエンシュウ・・・?字を教えてくれる?」

 伊那は、円周率、とノートに記した。

「なるほど、円のまわりをひきいるんだね」

「ひきいる?」

「この漢字はひきいると読むのではなかったかな?」

 伊那は改めて、率の漢字を見てみた。そういえば、率の字は、率いる:ひきいるというときにも使うのだ、引率、統率、率先など。伊那にとって『率』の漢字は、円周率、確率、比率、どれも数学を思い出させる漢字だった。

「私は数学の漢字だと思っていました」

 伊那は思わず笑った。

「なるほど、君には数学を思い出させる漢字なのだね。円周率か。私の日本語辞書にない単語だったな」

 ロウも一緒になって笑った。


「それで、円周率がどうしたの?」

 伊那は目の前にいるオペラ歌手だという人にどう説明しようか迷った。数学科の仲間以外にこの話をしたことはなく、理解してもらえるかどうかわからない。でもこの人が、数学を選ぶ人は世界が狭くなりがちだ、というのであれば、受け入れてくれるのかもしれない。

「私は小さい頃から、円周率の数字を美しいと感じていたんです」

「円周率を?それは不思議だが、数学を選ぶ人というのは、そういうものなのかな。君以外にも、円周率を美しいと思う人はいるの?」

「私のまわりには、誰も円周率を美しいと思う人はいなかったし、自分は変だと思っていました。それが、新聞にある日、世界的に有名だという数学者の話が載っていて、その人が『この世でもっとも美しいのは円周率の数字』と言っているのを読んだんです」


 そのときの衝撃は今も覚えている。世界で自分しかいないと勝手に決めつけて孤独を感じていたことが、ただの思い込みでしかなかった発見と安堵、自分の生きる道を見つけたような喜び。では、私は数学を選べばいい。そこから伊那の数学科への道が始まったのだ。数学科を目指す途中で出会った仲間たちには、円周率が美しいと言っても、誰からも奇異の目で見られることはなかった。

 そして、この数学者のもとで学びたいと調べ続けているうちに、伊那は二番目の発見をする。泉の中に花びらを散らすように数字を撒いて、そこから答えを導き出す伊那独特の方法は、古代エジプト数学にその元がある。すべての数字は素数の組み合わせでできている。すべての素数はひとつひとつが異なる花びらのように美しい。泉の中に、素数という花びらを撒いて、そこから浮かび上がってくるカタチをとらえて解への道を導き出す方法は、遠い過去に存在した、確立した正式な数学の手法だったのだ。そしてこの新聞に載っていた高名な数学者の研究テーマの中に、古代エジプト数学もあった。

 つまり、この高名な数学者と、魂のルーツが同じだということだ。伊那は、この数学者の研究をしながら、自分の内にある数学の才能と、古代エジプトに関わる前世の両方を理解した。古代エジプトの中で、ピラミッド建築に関わっている自分を発見したのだ。そこには多くの仲間がいて、多くの愛と友情、情熱があった。古代エジプト数学は、いまの数学よりもっと幅広かった。たんに数学を研究しているわけではなく、そもそも「数学」という概念はなかった。それは宇宙の真理の一部であり、太陽や月、星、そして地球自身の運行を数学として表現するという意味で地学、天文学を含み、宇宙から人間界全体や個人が受ける影響という意味で占星術や霊性も含んでいた。ピラミッドを作ったのもこの数学による。ある意味では、現代に伝わっていない失われた叡智ともいえる。


 伊那がどうしてもこの人に学びたいと願った、ガストン・コルディエという名前のその数学者は、スイスのフランス語圏出身で、現在はパリ大学で教授職についている。

 身なりに構わず、いつも髪はぼさぼさ、服装も奇妙なことが多いが、数学にかける情熱、学生に教えるときの人間味のある温かさは、多少の変人ぶりさえも愛すべき長所としてみんなに受け入れられていた。伊那はまだこの教授と親しくはなかったが、彼の講義に触れられるのはうれしかった。


「円周率が美しいと感じる人に出会って、やっと仲間を見つけたようで嬉しくて、それでその先生のところで勉強したくてパリに来ました」

「そうか、きっかけは円周率なんだね。私はさすがに円周率を美しいと思ったことはないが、他にも共通するところがあったの?」

「先生は古代エジプト数学を研究していて、その独特な解き方も私の解き方と似ていたんです」

「古代エジプト数学というのは、どこが違うの?これも聞いてもわからないかもしれないが」

「数字をまず分解します。まずすべて約数にするんです」

「ヤクスウ?」

 伊那は、ロウは日本の教育を受けていないことを思い出した。伊那は約数とノートに記してロウに見せた。

「たとえば6だと、1×6,2×3になるでしょう、こういうのを約数といいます。つまり、その数字が何の数字からできているか、ということに戻ります」

 エジプト数学では、数字はすべて約数から発生し、公式は分数から発生している。伊那は最初から数字の約数と分数が自分の中に存在していた。かなり大きな数字であっても、その数字が何の数字から成り立っているのがわかるのだ。古代エジプト数学では、4桁の数字までの約数は日本の九々のように記憶する対象だった。それは伊那のイメージの中で、泉の中に散っていく花びらのように美しいかけらとして存在していた。転生を超えて持ち越した伊那の能力だ。


「何からできているか、か・・・」

 ロウはしばらく考えていた。

「つまり、オーケストラ譜が、それぞれ何の楽器のどんな音からできているかまで分解する、みたいなことかな。無理矢理に音楽にあてはめて考えたよ」

 伊那もしばらく考えてみた。伊那は小さい頃ピアノを習ったことはあり、ある程度の音楽の知識はあった。多くの楽器が奏でているオーケストラの音楽を、ひとつひとつの楽器に分解する作業と、素因数分解は似ているかもしれないと感じた。

「似ているような気がします」

「そう。ちょっとは理解できたかな」

 ロウは微笑んでさらに続けた。

「じゃぁ、イナは古代エジプトに生きていたのかもしれないね」

 そんな風には言ったが、そうした話題を追求することなく、ロウはすぐ次の話題に移った。

「今日は授業の途中?」

「はい、午後から授業です。じゃぁ、私は大学へ行ってきます」

「そう、いってらっしゃい。またここで会ったら日本語でしゃべりましょう」

「はい、さようなら」

「さようなら」


 アンドレが微笑んで近づいてきて、帰るの、と言った。授業に戻る、と言うと、がんばって勉強してね、と声をかけてくれた。

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