第8話 伊那 19歳 銀の獅子
伊那はなんとなく後ろ髪をひかれながら、カフェーから出て大学に向かった。大学へ向かう並木道、五月のプラタナス並木の木々たちは、新芽が出てきて鮮やかな緑に変わりつつある。パリの美しい春がやってきていた。
ロウから離れてみると、ロウの輝く黄金の声が、なんだか体のすみずみ、細胞のひとつひとつに染み込んでいるような気がした。
目の前にいるときは普通に話しているつもりだったけれど、声がまだ残っているように感じるなんて・・・あの人、すばぬけた美しい声を持った、すごい歌手なのだわ、と改めて思った。伊那は音楽が好きだったが、数学のほうが忙しく、そこまで熱中しているわけではない。もちろん彼のこともまったく知らない。
それにしても、私が「運命があの扉から現れる」と感じたイメージはなんだったのかしら。彼のけた外れなエネルギーの強さを、あの扉を越えて感じただけなのだろうか・・・。
「イナ、どうしたの、ぼうっとして」
ヤドヴィカに声をかけられて伊那ははっと我に返った。伊那は授業のために大学の教室に座っていた。
「昼休みにフロールのカフェーに行ったの。そうしたら歌手の人が来ていて、歌を歌ってくれたの」
「それは素敵ね。なんだかこれぞパリって感じ」
「そうね」
「知っている人なの?」
「有名な人みたいだけど、知っている?ええと、中国の人で、難しい名前のファーン・ピョォウという・・・」
「ファーン・・・?もしかして銀の髪の?」
「そう!たしかに銀の髪だった」
「もちろん、私は大好きな歌手よ。素敵ね、私も聞きたかったわ。何を歌ってくれたの?」
「在那遥遠的地方よ、中国の歌ね」
「その歌は知らない。イナは知っているの?」
「聞いたことはあるわ。でも、彼が歌うほうがはるかに素敵だった」
「そりゃそうでしょう。なんてたって銀の獅子ですものね」
「銀の獅子?」
「彼のニックネームよ。たしか、彼の名前は獅子って意味があるのでしょう?」
伊那は、ロウの名前「彪」の漢字を思い浮かべた。日本ではあまり使わない漢字だが、虎という意味だ。獅子は空想上の生き物だが、虎と似ているといえば似ている。虎、たしかにあの人らしい名前だ。あの迫力、空間を圧する声。
「彼の髪はとっても若いときにあの色になってしまったらしいわ。でも、彼の迫力では銀色に輝いているように見えるわ。あの髪の色も彼の魅力よね」
「そうね・・・」
伊那はロウの姿を思い出した。背の高い堂々とした体躯、鋭く強いパワーを放つ目、そして今も体に残っているような輝く声。ぼんやりしている伊那にヤドヴィカが微笑んで言った。
「イナ、彼に惹かれたの?」
「え、違うわ。年がまったく違うし」
「ノン、イナ、年齢なんて恋には関係ないわ。彼がどれだけ魅力的な男性だと思っているの。誰だってあの人には魅了されてしまう。男も女も老いも若いも関係なく。彼はひとたび舞台に立てば、観衆全員を魅了できる男性よ。イナが魅了されてしまってもなんの不思議もないわ」
そうなのだろうか。私がいつまでも体に声が残っているように感じるのは、彼の声のパワーではなくて、私の意志なのだろうか。私が望んだのだろうか。ヤドヴィカはつけたした。
「彼のパートナーはフランス女性だったのだけど、二年前にガンで亡くなっているわ。そのとき、彼は看病のためにしばらく舞台に出なかったのよね。だから、彼は現在、独身よ」
そうなのか、と伊那は思った。彼はひとりなのか・・・。
「ああ、でも私も本物の銀の獅子の歌を聴いてみたいわ。またフレールにいきましょうよ。会えるかどうかわからないけれど」
「うん」
その日、伊那はアパルトマンに帰ってから、ロウが書いた「潘彪」の漢字をもう一度眺めてみた。美しく力強い漢字だ。子供の頃、学校で書道の授業があったが、見本に書いてある漢字は、ロウの漢字とは違って整えられていて品がよく、綺麗ではあったがパワーはなかった気がする。ロウが書いた漢字は、文字にまで彼のエネルギーが流れているようだ。伊那はじっと漢字を見つめた。
『潘彪』の黒い文字が霧のように砕けて広がり、ベールのようにまわりを包む。その向こうに透けてみえてくるものは・・・獅々だ。銀色の獅子が気持ちよさそうにゆったりとねそべっている。つややかに輝く毛並み。うっとりと閉じた瞼。獅子が安らいでいる。その向こうにきらめく水辺が見える。水辺に憩う獅子・・・。
驚いた伊那がまばたきをすると、そのヴィジョンはゆらりと揺れて消えていった。
この感じ、そうだ、円周率と同じだ!
円周率の数字の美しい流れの向こう側にも別の世界が広がっている。今ではもう行けないけれど。
円周率の向こう側の美しい世界、伊那は久しぶりに昔の感覚を取り戻せてどきどきした。
そう、私はただ数字が好きなのだ。どうやら他の人にはあまり見えないみたいだけど、数字は美しい世界につながっている。そこにいるのが好きだから数学を選んだだけなのだ。子供の頃に遊んでいた見えない世界の友達たち。もう一度会えるだろうか?私はすっかり大人になってしまったけれど。
伊那はもう一度ロウの文字を見つめたが、今度は何も起こらなかった。伊那は改めて円周率の数字を取り出してしばらく眺めてみたが、昔のように、円周率から違う世界へ行けることもなかった。それは少し残念だったが、それでも、忘れていた感覚を思い出せて伊那はうれしかった。
今日は何日だっけ。伊那は改めて「今日の数字」に想いをはせた。
子供の頃は、そんな風に毎日、「今日の数字」と遊んでいたのに、いつのまにか数字と遊ぶことからは遠ざかった気がする。数字は学問に変わってしまっている。
今日は5月15日。5は変容の数字だ。5から6に向かうとき、数字はいったん捻じれて小さな不調和の形から調和を目指す。
だから五月には、なにかざわざわした、蠢くようなエナジーが漂っている。そのエナジーに従って、地中の生き物も動き出し、地上の植物も花を咲かせるのだろう。五月の明るい太陽に誘われて、恋に落ちる人も多い。もっともその影のエナジーとして、精神変調をきたす人も多くなる。エナジーには必ず光と影がある。太陽に照らされて影ができるのは、この地上の法則だ。
伊那はなんだか、自分のエナジーがいつもと違う気がした。
そうだ、あの人の、ロウのおかげだ。あの人のけた外れのパワーに触れたからだ。漢字には命が宿っていると語るあの人の。あの人のそばにいたら、もっといろんなことが起こりそう。
どの分野でも一流の人はみんな超能力者だ。自覚しているといないに関わらず。湯川秀樹博士だって言っていたというではないか。最先端の科学を新しく切り開くのは超能力以外の何物でもない、と。
でもきっと、あの人のそばにいたいと感じる人は私だけではない。たくさんの人があの人のそばにいたいと感じるのだろう。今度はいつ会えるのだろうか。
「彼に惹かれているの?」
ヤドヴィカの言葉が蘇った。惹かれているといえばそうかもしれないけれど、ヤドヴィカが言うように、あの人に魅了されない人なんていないだろう。あの声を聴き、あの歌を聴いたら、誰だってあの人に魅了されてしまう。私も他の人と同じようにあの人に魅了されただけなのだ、伊那はそう考えた。
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