第14話 伊那 19歳 自覚

 ロウはたいてい、水曜の午後にはカフェーにいたが、その日はロウもおらず、ヤドヴィカもおらず、レオンもいなかった。伊那が今日は一人ぼっちだなと感じてテーブルに座っていると、アンドレが声をかけてきた。

「今日はさみしいね、イナ」

「そうね」

「イナは、ロウに恋しているの?」

 突然アンドレにそう問われて、伊那は戸惑った。伊那は自分の感情をはっきり理解できているわけではない。それで、アンドレに逆に聞き返してみた。

「どうしてそう思うの?」

「どうしてって、最近のイナは綺麗だからさ」

 そう言ってアンドレは軽くウインクしてみせた。アンドレがすると、こんなしぐさも嫌味にならない。

「そうなの?」

 伊那は戸惑いながら返事をした。

「そうだよ」

 アンドレは笑った。

「ロウさえいればイナは満開の花みたいに笑っているからね。今日、イナがさみしそうなのはロウがいないからだよ。そのアンニュイな感じが恋する女性だよ」

 アンドレは、恋する相手が僕じゃなくて残念だよ、と軽口をたたきながらあちらに行ってしまった。


 ヤドヴィカ以外の人に言われたのは初めてだけど、私は恋している女性の目でロウを見ているのか。

 もちろんロウのことは好きだ。輝くような黄金の声は、相変わらずそばにいると心を躍らせるし、会話しながら自分の中で忘れていた、あるいは眠っていた感覚や感情が目覚めるのを感じる。ロウのはっとするような繊細で鋭い感性も、意外な茶目っ気も、笑うときにシワができる目じりも。だけど、誰だってあの人には惹きつけられる、そうやって誰だって惹きつけられる彼の魅力と、恋のどこが違うのだろう。


 そうやって考えているとき、伊那ははっと、フランスに来る前に、フランス語の教師に言われたことを思い出した。そもそも、どんな文章だったかは覚えていないのだが、

「イナ、それは感じる、ressentirを使う文章だよ。どうしてそんなに考える、penser、ばっかりを使うの」

 そう言って笑われた。

「イナはそもそも考えすぎだね。そのことについては、考えるものじゃない。感じるものだよ」

 ロウとそう変わらない年齢の男性教師だった。仕事はフランス料理のシェフだったが、午前中はときどきフランス語を教えていたのだ。

「そんなに考えてばかりいたら、伊那は恋をするときたいへんだね」

 そう言ってからかわれたことを思い出した。


 私は理屈で考えようとして、感じることを抑圧しているのだろうか。無理矢理、ハートより脳を優先させているのか。ハートより脳を優先させるクセのある人は、エネルギーで見ると頭でっかちでバランスが悪い。頭のエネルギーの重さのために、人生の道で転倒することがある。

 私もそうなっているのかもしれない、と伊那は気づいた。

 伊那はおそるおそる、ハートに意識を向けてみた。ただ感じるために。


 ロウの東洋人にしては掘りの深い顔、黒い鋭い双眸、でもその瞳はしばしば茶目っ気のある光が浮かぶ、そのときに現れる目じりの皺、空間を揺さぶるような黄金の声、繊細で美しく、はっとするような感性、伊那を見つけて笑うときの笑顔、イナと呼ばれるときの胸の高鳴り・・・

 そこには、ロウに対する愛しさと切なさ、惹かれているという感覚以外に何もなかった。


 どうしよう。


 伊那は思わずため息をついた。自覚しないほうがよかった。これから、どんな顔してロウと会話すればいいんだろう。今までと同じように接することができるだろうか。だけど、ヤドヴィカもアンドレも気づいているのなら、そもそもロウにも気づかれているのではないのだろうか。あの人は私よりはるかに年上で、まったく人生経験の量が違う。私が自覚するより先に、とっくに気づかれているのかもしれない。


 伊那は自分の気持ちを持て余しながら日々を過ごしていた。私がハートを無視している間に、ハートのほうが暴走していたんだ。そう感じた。

 脳とハートが逆転してしまうと、今度は脳のほうがうまく働かない。どうしたらいいかわからず、ため息をつくしかなかった。伊那の状態に気づいたヤドヴィカが

「今頃ようやく気づいたの、イナ?!」

 と驚きながら笑っていた。夏休みは終わり、秋が訪れていた。

「まぁいいじゃない。恋に悩むのも若さの特権よね」

 と、自分もまだまだ若い年齢なのに、そう言っていた。もっとも、ヤドヴィカは実際に五つも年上なのだ。


 伊那の感情は日によって揺れており、落ち着いているときもあったが、うまく数学に集中できないときもあった。数学に取り組もうとしても集中力があがらず、伊那はため息をついて立ち上がった。今日はどのみち解けないだろう、お散歩でも行こう、そう決めて伊那はいつもの散歩コースを、あの樹齢千年のイチョウの木に向かって歩いていった。

 イチョウの木は、今日も変わらずどっしりと聳えている。伊那はイチョウに近づき、イチョウの木を見上げた。秋が来て、少しだけ色を変えつつあるイチョウの木。伊那は深呼吸を繰り返し、イチョウの木のエナジーを感じようとした。


「本当にイチョウが好きなんだね」


 突然、背後から輝く声が響き、伊那は驚いて振り返った。ロウが微笑みながら立っていた。

「前にもここで会ったね」

 そう言ってロウは伊那に近づいてきた。伊那はどぎまぎしたが、ロウはいつもと変わらない笑顔で近づき、伊那の隣に立って、イチョウの木を見上げた。


 なぜよりによって、こんなところで会うんだろう、と伊那は思った。

 心の準備もできていないのに。予想もしていないのに。


「私もこのイチョウの木が好きだから、イチョウがふたりをひきあわせているのかな」

 ロウは伊那の動揺を知ってか知らずか、そんな軽口をたたいて笑っていた。

「なんだか私が君をつけまわしているみたいだ」

 ロウにそう言われて、伊那は

「私があなたをつけまわしている可能性もありますよ」

 と思い切って冗談で返してみた。ロウがははは、と笑った。

 伊那は、ふとある可能性を思いついて自分でドキッとした。私の霊能力は、かなり受信のみに傾いていて、発信がほとんどない。私の受信能力をすべてこの人に向けたら、エネルギーの強いこの人が今どこにいるかくらい、わかってしまうのではないだろうか。


「イナはこのイチョウの木のどこが好きなの?」

 ロウがそう聞いてきた。

「イチョウはとても寿命の長い木だから、イチョウを見ていると、小さな悩みがどうでもいいことに感じるから、それで好きです」

「そうか」

「私が生まれる前から、このイチョウはここで人々を眺めていて、私が死んだあとも、こうやって変わらずに人々を眺めているんだろう、って思うと落ち着きます」

 ロウは不思議そうに伊那を見た。

「イナは・・・なんだかときどき、若い人じゃない感性だよね。なんだろう。薔薇の図書館に行く人はそうなるのかな。時間に対する感覚が違うね」

「そうですか?」

「そうだよ。普通の若い人は、自分の生まれる前から、死んだあとの時間の長さでものを考えたりしないよ。もっと刹那的なものの考え方をするものだ。私だって、若い頃はそうだったと思う」

 ロウはそう言って、イチョウの木を見上げた。

「私がこのイチョウの木を好きなのは・・・やっぱり日本へのあこがれかな。いつか、日本を訪れてイチョウの並木道を歩いてみたいものだ。桜吹雪や紅葉の山、それからしんしんと降る雪・・・」


 ロウが語る日本へのあこがれは、伊那の胸をしめつけた。ロウに直接聞いたわけではないが、ロウは中国政府とトラブルがあり、中国へは帰れず、中国との関係に気を遣う国には行けないらしい、とヤドヴィカは言っていた。

 外国の人とは、基本的に政治問題、宗教問題を語ってはいけない、伊那は日本にいるときあらかじめそう諫められていた。平和な日本で育った人間には、外国の政治や宗教の問題の深刻さが理解できないから、と言われた。

 伊那は、この人を日本に連れていってあげたい、と強く思った。その思いと同時に、伊那の胸からロウへの恋心が鮮やかな輝きを持って広がっていった。


「イナはなにをそんなに悩むことがあるの?」

 ロウは微笑んで伊那を見た。まさか悩み事はあなただと当人に言うわけにもいかず、伊那は、いろいろあります、としか答えられなかった。ロウは、別に追求することもなく、そうか、と答えてイチョウの木を見上げる。


 ふと、ロウが木に向かって片手を差し出した。その手のひらの上に、風に舞ったイチョウの葉っぱがすっと滑り込んだ。

「木からイナへのラブレターだよ。元気だしてって」

 ロウはそう言って笑ったが、伊那はその瞬間に直感した。ロウが自分と同じように、イチョウから友達と認められている人間だということを。しかも、ロウのほうが伊那よりイチョウに近い。私はこんな風に現実的な事象を通じてイチョウと会話できない。

「今までもらったラブレターはどうしているんですか?」

「大切に保管しているよ。私の家には、木からもらったラブレターがたくさん飾ってある」

「見てみたい!」

 伊那は思わずそう言っていた。

「じゃぁ、家に来るかい?」

「はい」

 伊那は反射的にそう返事してからはっとした。とんだことを言ってしまった、どうしよう。しかし、いまさらノーと意見を翻すのは余計おかしいのではないか。ロウは伊那の動揺など先刻承知なのか、まるで頓着しないのか、そもそも気づかないのか、いつ来るの?いつなら予定が空いてるの?と、あっさりと訪問日を決めた上で、さっさと立ち去ってしまった。


 結局、イチョウのそばには、ここに来る前より深い懊悩を抱えた伊那だけが残された。

 どうしてこうなったんだろう。イチョウに癒されたくてここまで来たのに、前より悩み事が大きくなってしまった・・・。

 どうしようもなくて、伊那はイチョウの木に向かって心の中で文句を言っていた。


 あなたがラブレターをくれたりするから、悩み事がさらに大きくなったじゃないの。


 伊那はなんだかイチョウが苦笑しているような気がしたが、それこそ気のせいだったかもしれない。


 伊那はヤドヴィカに、イチョウの木のそばでロウに会ったこと、それからロウに家に誘われたことを打ち明けた。


「二度もイチョウの前で会ったの?!」

 ヤドヴィカはそちらを驚いていた。

「どう考えたって、イナの運命の男性はロウのように思えるわ。イナは彼に惹かれているのだから、なにも問題はないと思うけど」

 いったん、そう言いながら、ヤドヴィカは考えていた。

「国が違えば、恋愛に対する常識も違うし、恋愛以外の男女関係に対する常識も違うものよ。イナからいろいろ日本の恋愛の常識を聞いたけれど、びっくりするところもあるわ。一番驚いたのは、恋愛するのに、いちいち男性側がプロポーズみたいにお伺いをたてないといけないところよね。ヨーロッパの男女関係はもっとフランクだから。私の国の男性はヨーロッパの中ではシャイなほうだと思うけれど、それでも、いちいちお伺いをたてることはないわ。

 だって、男性が自分を愛しているかどうかなんて、目をみればわかるじゃない。まさか日本の女性はわからないってわけじゃないでしょ?」

 ヤドヴィカはそう言って笑った。

「あ、この話はロウの話ではなくて、日本の恋愛の常識のお話ね。イナがそもそも、どういう恋愛の常識を持っているか、を理解しないと話が次へ進まないから。日本の恋愛事情は謎だなぁって思うのよ。日本の男性って、愛情を目ですら表現できないの?」


 ヤドヴィカのツッコミに、伊那は悩んでしまった。たしかに日本人はヨーロッパの人に比べると感情表現が薄いといえば薄い。だが、それはわかりにくいだけで、決して「感じていない」わけではない。

 そうだ、そもそも日本は「感情がない国」とポーランドで言われていたのではなかったか。ヤドヴィカも同じことを思い出したようだった。

「そうだ、日本って、感情を誤解されやすい国だったわね」

 そう言ってヤドヴィカは首をかしげた。

「でも、それは文化の違いで、私たちにとっては日本人の感情がわかりにくいけれど、日本人同士はわかりあっているのではないの?それとも、日本人同士も、やっぱりわかりあいにくいの?」

 伊那は考えてみた。だが、感情のふれあいという意味では、やはり日本はヨーロッパの国々より薄い気がした。日本ではお互いの体に触れないように、お互いの感情に触れることもあまりない。かといって、人間関係が希薄なわけではないが、感情のかわりに日本人が大切にしているものはなんだろう?すぐには答えを思いつかなかった。

「たしかに日本人同士でも、あまり感情を露わにはしないのよ。かといって人間関係が薄いわけじゃないわ。でも、あんまり考えたことなくて、すぐには答えが出てこない」


 伊那は、ゆっくり考えてみようと思った。フランスにいると、改めて日本のこと、自分の中にある日本人の血のことを考えることになる。日本にいたときは、まわりに馴染めないような気がしていたのに、違う国で暮らすと、自分が紛れもなく日本の一員だということを思い知らされる。

「そうそう、日本人同士の話ではなくて、ロウの相談だったわ。どこの国にもプレイボーイはいると思うけれど、誠実かどうかなんて、普段の行動見てればわかるでしょう。ロウは間違いなく、プレイボーイではないわよ。プレイボーイなら、とっくにイナに手をだしているわ。

 それにプレイボーイにひっかかるのは、愛情に対する欠乏感がある女性よ。イナは自分が確立しすぎていて、プレイボーイがひっかけようと思わないから大丈夫よ」

「それは褒めているの?」

 伊那は笑ってヤドヴィカに言った。ヤドヴィカも笑った。

「もちろん褒めているのよ。私はイナのそういうところが好き。もしもロウがイナに惹かれるのなら、それはイナの本質に惹かれているのだと思う。ただ、ロウの本心は図りかねるわ。

 彼は若い頃からずっとフランスに住んでいるのだから、男女関係の常識はフランス式かもしれないとは思うけれど、もとが中国の人だから、そこはわからないわ。私は中国に詳しくないし・・・。彼の男女関係の常識が中国式なのかフランス式なのかもわからないし・・・。

 フランスの男性の恋愛への考え方は私には理解不能だけど。恋に命がけの情熱を注いでいるのに、びっくりするくらいドライなのよ。どうなっているのかしら」


 北の国の真っ白な肌と美しい青い瞳を持つヤドヴィカは、いろんなフランスの男性から言い寄られていたが、そばにいる伊那がびっくりするくらい冷たく突き放していた。ヤドヴィカが「Non!」と告げる冷酷な口調に伊那が思わず、もう少し優しく言ったほうが、とたしなめたことがある。

「いいのよ、あの人たち、あれくらい言わなきゃわからないんだから」

 とヤドヴィカは言っていたが、たしかにフランスの男性たちは一向にめげていないようだった。ヤドヴィカだけでなく、魅力的なフランスの女性たちも言い寄る男性には冷たい。あの「Non」を一回言われたら、日本の男性なら二度と立ち上がれなさそうだけど・・・と、伊那は思っていた。

 そもそも、日常会話でほとんど「いいえ」を使うことがない日本人と違い、フランス人は些細なことでも簡単にNon!と告げる。そのうちに、とか、考えてみる、とかいう日本的な婉曲な断り方というのは存在しない。日本人は、真正面からNonの言葉を突き付けられることに慣れていない。フランス人と会話していると何度もNon!の言葉を突き付けられるので、Non!に過剰に反応してしまうことを、日本人社会では「NonNonシンドローム」と呼んでいた。Non!の言葉が怖くて、うまくフランス人とコミュニケーションできなくなる症状のことだ。


 ヤドヴィカは話を続けた。

「私はいつも考えるけれど、文化の違いは、お互いに誤解が解けるまで話し合ってみるしかないのよ。相手の言葉を自分がどうとらえたか、自分にとってはどういう意味を持つのか、それを伝えてみないとわかりあえないわ。イナが行きたいなら行けばいいし、行きたくないなら行かなければいいし、彼の行動がわからなければ、そのときに聞けばいい。そうじゃない?」

「そうね・・・」

「イナは行きたいの?」

「行きたい」

 伊那は正直に言って、ヤドヴィカと一緒になって笑った。木のラブレターのコレクションがどうなっているのかも見たかったし、ロウがどんな暮らしをしているのかも見たかった。

「じゃぁ行けばいいじゃない。一応、念のため言っておくけど、男性の家に遊びに行って、手を出されることを想定してなかった、はダメよ」

「わかった」

 伊那は肩をすくめた。

「伊那が彼に惹かれているのはわかるけど、正直彼はわからないわ。彼は長くこっちに住んでいるけれど、東洋人はやっぱりわかりにくいのね。彼の家ってどこにあるの」

「十三区よ」

「十三区? そうか、中華街があるのだったわね。それに場所によっては高級住宅もあるし。どんな家なのかな。あとで教えてね」

「うん」

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