第12話 伊那 19歳 数学の女神

 ある日、ロウは数字についてまた違う質問をした。

「たとえば、いつも見る時計の数字は?カレンダーの数字なんかはどうするの?」

「カレンダーの数字は組み合わせが決まっているので、改めて計算はしません。時計の数字は・・・」

 一瞬、伊那は言い淀んだが、

「時計の数字は事象をみるために使い、カレンダーの数字は今日のエネルギーを分析するために使います」

 ロウは目をしばたいた。

「なんのこと?」

 ヤドヴィカが横から助け舟を出した。

「イナの不思議な数字の世界の話よ。音楽にはエネルギーがあると思うけれど、数字にもエネルギーがあって、それを理解できる人も数学科の中にはいるの」

「私にはわからないが、たしかに数字にエネルギーがあってもおかしくはないと思うが、それで、事象ってなんのこと?」

 ロウが改めて聞いた。

「数字の組み合わせにはエネルギーがあって、なにか決めたいときに、時計の数字を見ればアドバイスになります」

「そうなの?面白いね。じゃぁ、たとえば今の時間のエネルギーは?」

 ロウは自分の腕時計を指した。

「あ、それはアナログなので、事象は読めません」

「どういうこと?」

 ロウは再び目をぱちぱちとしばたいた。

「デジタルの数字は組み合わせだけど、アナログの数字は動いているので数字の特定ができません」

「何のことなの?」

 ついにロウは笑い出した。

「私はいま、何語で会話しているのかわからなくなってきた。宇宙語かな」

 ヤドヴィカが続きを説明した。

「ロウの腕時計は針が動いているので、たとえばいまの時間は、15時23分398572497537・・・とかいう、小数点以下が永遠に続いていく数字を表しているということなの。だから、どこかで区切って『決まった数字』にすることができない、動いている時間です。

 デジタルの時計なら、1523、という固定した数字だけど、そのかわりに1523.1-1523.9までの少数点以下の数字を切り捨てた、止まった時間です」

「なるほど」

 ロウの表情が改まった。


「それは数学科としては、普通の認識みたいだね。私はどうやら、ト音記号とへ音記号は何が違うの?くらいに間抜けな質問をしたようだ」

「数学は音楽と違ってマイノリティなので、間抜けな質問とは思わないです。理解してもらえてうれしいわ」

 ヤドヴィカが微笑んだ。

「それで、デジタルの時計なら、数字に決まったエネルギーがあるから、アドバイスがわかるということだね。つまり、易のようなものかな?」

「そうですね。易といえば、それが近いかも」

「易ってなぁに?」

 ヤドヴィカが聞き、伊那はなんとか知っている範囲で答えてみた。ヤドヴィカは易についての説明を聞いてから、さらにロウに説明した。

「私は何度か、イナから時計のアドバイスをもらったけれど、まるでタロットカードのようだったわ」

「なるほど、西洋的に言えばタロットカードのようなアドバイスになるということだな。易とタロットは似ているということか」

 ロウはしばらく考えていた。

「そのことを『事象を読む』とイナは表現したのだね。そういう風に事象を読むのも、数学科ではよくあるの?」

 ヤドヴィカが答えた。

「イナのように事象を読むのは珍しいかな。でも数学界には、ラマヌジャンの奇跡、という不思議があります」

「それはどういうものなの?」


「ラマヌジャンというインドの天才数学者の話です。彼は数学界に大きな功績を遺した人ですが、彼に方程式を伝えたのは彼の故国のインドの女神だと、彼自身が言っています。彼自身も数学の天才でしたが、女神は彼に次々と『方程式』だけを伝え続けました。女神が伝えた方程式は実に数千に登り、すべてが数学界にとって新しい発見で、彼が死んだあともずっと取り組んでいますがまだ証明は終わっていません。現代のコンピューターの計算は、女神の方程式から生まれました。ラマヌジャンと女神なしでは、現代の情報社会の発展はなかったのです」


 ロウが真剣な顔になった。

「音楽にも、天使が現れて作曲したとか、天国に誘われたとかいう話はある。有名なところでは、ベートーベンの歓喜の歌は、天使の合唱を聴いて書いたと言われている。だが、数学の世界にも似たような話があるとは知らなかったよ。結局のところ、この世のすべてのものは、見えない世界の存在が司っているのかな」

「ラマヌジャンは、神なくして方程式は意味がないと言っています」

 ヤドヴィカはそう言って微笑んだ。

「音楽も、神なくして意味はないよ。同じだな」

「音楽は美しいけれど、数学も美しいんです」

 伊那はそう言った。数学を美しい、と表現できたことがうれしかった。


 Les mathèmatiques sont belles


 伊那が一度も日本語で言ったことのない言葉だ。


「君たちのおかげで少し数学の世界が垣間見えたな」

 ロウは感慨ぶかそうな顔をした。

「時間の意味を読み取るのはイナ特有じゃないかしら。他の数学科の人たちはイナみたいに感じないみたい」

「どこまでが数学科特有で、どこからがイナ特有なの?」

 伊那とヤドヴィカが顔を見合わせた。

「改めて考えたことなかったよね」

 二人はしばらく考えていたが、ヤドヴィカが先に口を開いた。

「円周率の数字を美しいと感じるのは、数学科特有ですね」

「それは前にイナから聞いたことがあるな。数学科としては珍しくないみたいだね」

「円周率の公式には、さっき話したラマヌジャンの公式が出てきます」

「女神の公式だね」

「ラマヌジャンの公式はどれもすべて美しいけれど、この公式のおかげで円周率の計算は飛躍的に早くなりました」

「どんな公式なの?」

 ヤドヴィカは紙を取り出してラマヌジャンの円周率の公式を記入した。


 1π=22–√992∑n=0∞(4n)!(n!)41103+26390n3964n


 ロウは、うーんとうなってしまった。

「これはいくらなんでも私が理解するのは無理だよ。まさしく宇宙語だ」

「そうですよね」

 ヤドヴィカが笑って言った。

「音楽家の人は、楽譜を読みながら美しいと感じるでしょう。私たちにとっては楽譜のほうが・・・」

 と言いかけて、伊那はいいたとえ話を思いついて、にっこり笑った。

「楽譜はまるでカエルの子供なのに」


 ロウもヤドヴィカも「カエルの子?」と不思議そうな顔をした。カエルの子と言ったのは、単におたまじゃくしのフランス語がわからなかったからなのだが、伊那はラマヌジャンの円周率の公式の隣に、おたまじゃくしの絵を描いてみた。

「カエルの子って、音符みたいでしょう?日本では楽譜のことを、おたまじゃくしが川の五線紙の中を泳いでいる、という表現をします」

「初めて聞いた!」

 ロウは目を輝かせた。

「なるほど、川の中をカエルの子が泳いでいるのか!」

「私も初めて聞いたわ。日本人の感性っておもしろいのね」

「川の中をカエルの子が泳いでいる絵から、音楽家の人たちは美しさを感じ、喜怒哀楽の感情、人生の機微や歴史を読み取るのでしょう?私たちの公式と同じくらい不思議なことだと思います」

「楽譜を読む力は人それぞれだけどね。オーケストラ譜を一瞬で読み取る人もいれば、ソリストの中にはほとんど読めない人もいたりする。楽譜を読む能力と演奏する能力は比例しないところもある。でも確かに、楽譜というものも、音楽家でない人にとってはただの記号でしかないな。方程式と同じか」

「ロウはどんな風に楽譜を読むの?」

 ヤドヴィカが質問した。

「私か、私は、そうだな。小説を読むより楽譜を読むほうが楽しいよ」

「カエルの子の絵ですよ」

 伊那が言い、三人はそろって笑った。


「私は楽譜を読むときは、楽譜が音楽になって頭の中で演奏されるのだが、君たちは公式を読むとき何を感じるの?」

 ロウが質問し、伊那とヤドヴィカは顔を見合わせた。

「そんなこと話し合ったことなかったね」

 二人はしばらく考えていた。先に伊那が話した。

「私は、数字が花びらみたいに泉の中を散っていき、それぞれの花びらが、たとえばルートや虚数みたいな記号の風に巻き上げられたり、渦に呑まれたり・・・そのうち静寂が戻ると公式の道ができているような、そんな感じです」

「それは美しいな」

 ロウは心から感動している様子だった。

「私はイナみたいに、花びらや風というイメージではないわ。でも、たしかに数字と遊んでいるというか、場合によっては格闘しているというか、数字の世界の中を泳いでいるような感覚ではあるのかな」

 ヤドヴィカが首をかしげながらそう言った。

「私は今日、数学の神秘に触れているような気がするよ。イナ、それで、カレンダーの日付はどう読むの?」

 ロウが尋ねた。


「月の数字と日の数字は、それぞれ独立した別のものです。月の数字の1と日の数字の1は同じ1だけど、それぞれに月の世界と日の世界の中にいて、そのふたつの数字がお互いにエネルギーを投げます。その数字には幾何学模様と回転方向があります」

「幾何学模様?」

「こんな感じです」

 伊那は図に記してみた。ラマヌジャンの公式とおたまじゃくしの横に、さらに幾何学模様が加わる。

 1は円

 2は直線

 3は三角形

 4は四角形と十字架

 5は五芒星

 6は六芒星

 以下、頂点を数にあわせた星型が続いていく


「一番わかりやすい1月1日は、月の世界からも日の世界からも円が投げかけられます。奇数は右回転、偶数は左回転なので、どちらからも右回転の円が投げられるということです」

「回転の方向には理由があるの?」

「奇数は陽なので右回転です。偶数は陰なので左回転になります」

「奇数が男性、偶数が女性というのは、数学科として普通の認識ですよ」

 ヤドヴィカが横から口を出した。

「そうなんだ。でもちょっと待って。たしか、東洋の画数判断でも、奇数は陽だったような気がするな」

「あ、そうです。西洋と東洋と関係なく、奇数が陽、男性です」

 伊那が答えた。伊那自身も、昔その事実を発見して、真実には東洋と西洋の別がないことに感心したのだった。奇数が男性に割り当てられるのは古代ギリシャ数学から変わっていない。そして中国四千年の歴史の中で、姓名判断が始まったときからも同じだ。


「それで、どうして奇数が右回転になるの?」

「地球の地軸が左回転、公転も左回転だからです。つまり、力というパワーを得るためには、回転に対抗して進む必要があります。重力があるから人は立てるのと同じことです」

「そんな壮大な話なのか!」

 ロウの目がキラキラと輝いていた。

「現在の科学はほとんど男性によって発見されましたから、すべてが右回転なのでしょうね。もしも女性が時計を発明していたら、時計は左回りだったかもしれません」

「確かに、男というのは対抗するのが好きかもしれない。右が対抗の方向で、左が流れとともにある方向なのか、なるほど。時計が左回転なのは落ち着かないが、単純に慣れているだけ、とは違う理由もあるということだな」

 ロウはしばらく首をひねって考えていた。


「そうやって、月の数字と日の数字が、互いに回転している幾何学のエネルギーを投げる、か。それで今日の日ができあがっているんだね。もしも月の数字と日の数字が、そもそも違う楽器なら、同じメロディでも違う音になる。そして同じ楽器でも、メロディが変われば違う響きが生まれる。そうやってお互いに違う楽器で違うメロディを投げかけながら、ひとつの『今日の日付』の響きを生み出しているとすれば、それは協奏曲に似ているかな」

「わぁ、綺麗な表現!」

 ヤドヴィカが感心して声をあげたが、伊那もロウの感性の美しさにどきどきした。月の数字と日の数字が互いにエネルギーを投げかける様子は、たしかに協奏曲のようなものかもしれない。

 ロウはさらにこう言った。

「音楽の世界には絶対音感というものがあるが、イナは絶対数感があるみたいだな」

 絶対数感。伊那はロウが言ったその言葉を反芻した。ロウの輝く声が放つその単語は、伊那の胸の中に明るく温かい光を灯した。

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