第24話 伊那 21歳 草木たちの歌
ある日、伊那は幾重にも幾重にも重なる、豊かな合唱の声に眠りを揺り動かされ、目覚めた。
目覚めてもはっきり聴こえる壮麗な美しいハーモニーの重なり。伊那はベッドから急いで滑り降り、うっすらと朝日が差し込み始めた窓際から半ば夢心地で圧倒的なハーモニーを全身に浴びていた。
それは、五月の新芽たちの合唱だった。
地球上の植物すべてが全力で讃美歌を歌っているがごとくの、歓喜に満ちた壮大なハーモニー。そのあまりにも豊かで美しいハーモニーに伊那は言葉もなかった。
伊那が飛び起きた気配を感じて、ロウも目を覚ました。
「イナ、何かあったのか?」
ロウは伊那の背後から声をかけた。ロウには、新芽たちの合唱は聴こえていなかった。
「新芽たちが、歌っている!」
伊那は、振り向かずに答えた。新芽たちからの、圧倒的な愛と喜びのハーモニーが伊那の全身を震えるような喜びの輝きで染めていくようだった。
「新芽たちが?」
ロウもベッドから降りて近づき、伊那の背後から窓の外を眺めた。
伊那は全身に新芽たちの合唱を浴びながら、壮大なハーモニーに圧倒されていた。
圧倒的なハーモニーは、朝日が色濃くなるとともに少しずつ遠ざかり、やがて静寂が戻ってきた。伊那はほぅっと感動のため息をついた。
ロウが口を開いた。
「僕には聴こえなかったな。どんなだったの?」
「表現するのは難しいけれど・・・地球上の植物すべてが集まって、全力で讃美歌を歌っているような・・・天使たちが何億人も集まって合唱しているような・・・地球上のすべてが歌で満たされて輝いているような・・・」
「へぇ・・・」
ロウは背後からそっと伊那の身体を抱きしめた。
「うらやましいな。そんな美しい合唱なら、僕も聴いてみたいよ。僕の歌よりよかった?」
伊那は返事に窮した。
「えっと・・・合唱だから比べられない」
「心配しなくても、植物界にケンカ売るほど身の程知らずじゃないさ」
ロウはそう言ったが、伊那は、いやこの人のことだから、植物界にケンカ売ることもあるかもしれない、などと思いを巡らせていた。
ロウはしばらく黙って何事かを考えていた。
「イナ、僕にも聴かせてほしいな」
「えっ?」
思いもかけないお願いをされて伊那は戸惑った。
「僕は君みたいに敏感ではないし、君みたいに受け取るということは得意ではない。僕はそうだな、たとえていえばエネルギーの送信が得意、君は受信が得意で、それで僕たちは対のようになっている。
でも、君のそばにいると、僕から流れ出たエネルギーが君の中を通過して、そしてもう一度戻ってくることをはっきり感じることがある。エネルギーが交流している、というだけではなくて、僕は君の敏感さを自分の中に受け入れているのではないかという気がしているんだ。君が繊細に感じている見えない世界のこと、未来や過去、宇宙や星、神や精霊のことが感じられるときがあるんだよ。人の周りに漂うエナジーが見えるときもある。とくに君に触れた次の日は」
伊那はロウからそうした打ち明け話を聞くのははじめてだった。ロウの言う通り、ロウは発信するエネルギーで伊那は受信するエネルギーだ。だから、自分のほうが一方的に影響を受けているような気がしていた。ロウは影響力の強い人で、それが歌手であり俳優である職業につながっている。
「私は彪からたくさん影響を受けているけれど、私がそんな影響を与えているとは思わなかった」
「僕はたくさん君から影響を受けているよ。僕の歌が最近変わったって言われているのを知らないのかい」
ロウはからかうようにそう言った。もちろん、伊那がほとんどロウの舞台を観ないことに対して言っているのだ。伊那には、舞台のロウの歌がどう変わったのかは知りようがない。そもそも、ロウのことも知らなかったのだから。
「えーと・・・知らない」
「伊那が知らないって知っているよ」
ロウはそう言って笑った。
「僕の歌は、最近温かくなったと言われている。昔からの知り合いには、恋愛がうまくいっているんだなとからかわれているよ」
「・・・本当?」
「本当だよ」
「ものすごくうれしい」
伊那は自分の体に回されたロウの腕をぎゅっと抱きしめた。ロウももう一度力を込めて抱きしめてくれた。
「僕が心に浮かべる映像を君は受け取ることができるし、君の想いを僕は感じ取ることができる。君が思い浮かべた映像を受け取ったことはないが、同じ道を通って逆に進むだけのことだ。できないわけがない」
ロウが言っていることを理解はできた。ロウのそばにいると、偶然に同じことを考えていることがある。同じ音楽の同じメロディを思い浮かべていて、ふと口ずさむタイミングが同じだったこともある。呼吸や、心臓の鼓動が同調してしまうこともある。ロウとあまりにも溶け合ってしまい、境目がわからなくなることもあった。
「イナは僕が思い浮かべている映像がわかるが、僕がその映像をどうやって送っているのかもわかるかい?」
「わかるわ」
「そうか。僕はわからないよ。意識して送っているわけではなくて、ただ歌に集中しているだけだからね」
ロウはそう言って笑った。
「僕の送り方がわかるのなら、同じ方法で僕に送ってくれないか」
「やってみる。できるかどうかはわからないけれど」
そうは言ったものの、なかなかうまくいかなかった。そもそも、思い浮かべた情景や感情を他者に送り届けるのはロウの能力であって、伊那の能力ではない。真似してみても同じようにならないのは当然だった。ロウのように歌ってみても歌えないのと同じことだ。でも、なにか道はあるはず・・・伊那はいろいろ試してみたが、伊那からロウに送るには、圧力差のようなものがあってうまくいかなかった。ロウから伊那に流れる方が強いのだ。ロウの圧力が弱くなるときというと、眠っている間くらいだ。伊那はロウに説明した。
「いろいろやってみているけど、うまくいかないの。可能性があるのは、夢の中で受け取る方法かも。夢の中で聴いてしまっても大丈夫?」
「もちろん大丈夫だよ」
ロウはそういって微笑んだ。
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