第20話 伊那 21歳 可能性の幾何学

 伊那の頭脳が鋭い速さで回転しはじめた。

「イナ、また計算かい?」

 ロウが苦笑しながら言った。伊那がなにかを思いつき、可能性と実現性について思いを巡らしているとき、ロウはそんな風に言うようになっていた。

 たしかにロウの言うように、可能性の糸と、実現性の糸を並べ、それに想定外のラッキーとアンラッキーを加え、すべてを縒り合わせて未来に起こるべきカタチ・・・図形にしていく過程は、幾何学に似ているかもしれない。というより、未来図という幾何学を作り上げていくのだから、計算だということに伊那は思い至った。


「どうして私が計算していると思ったの?」

「数学を解き始めたときと、イメージから答えを導き出そうとしているとき、イナの視線は完全に固定されるからね。試合中のアスリートみたいな目だな」

 ロウはおかしそうにそう言った。

「アスリートなの?」

 伊那は驚いた。そんな風に言われたことはない。

「それだけ一心不乱に集中しているってことじゃないのかな。最初に見たときは結構びっくりしたが、もう慣れたよ」


 ロウは伊那が「計算」を始めたときは、あまり構わずにそっとしておいてくれる。それは、伊那が未来のイメージ計算をしているときだけでなく、実際に数学の問題を解き始めたときも同じだ。逆にロウが新しい曲に取り組み始めたときは、伊那はあまり構わずにそっとしている。

 ロウと出会ってから二年後、ふたりは話し合って、ロウの家で一緒に暮らし始めていた。もっともそれまでも、週末や長い休暇のときは、ほとんどロウの家で過ごしていた。ふたりは少しずつ、ルールを作りながらお互いの生活習慣を縒り合わせる努力をしていた。


 ロウの友人や仲間たちは、ロウの若すぎる新しい恋人のことを、比較的あっさりと受け止めてくれた。それは伊那が日本人だったからだ。ロウが公式には中国人となっているが、本当は日本の血を引いていること、ずっと日本にあこがれていることを親しい人たちは知っていた。ロウの長年の日本への憧憬が、日本人の恋人になって現れたのだとロウの仲間たちは理解した。それに恋に自由な音楽界の中では、年齢差だけではなく、性差でさえあまり気にしない。


 伊那の家族はそうはいかなかった。家族は大学が終われば日本に戻ってくると思っていたが、日本には戻らない、日本で就職するつもりはない、と説明しなくてはならなかった。

 伊那が、こちらで一緒に暮らしたい人がいる、と言うと両親は驚いて夫婦一緒にフランスまで飛んできた。伊那は一応いろいろと説明はしたり、ロウをかばってみたりしたのだが、母親はともかく、父親は自分よりも年上の恋人に怒り心頭だった。ロウは日本語を話すこと自体には問題はないが、日本で育ったわけでもなく、日本的な考え方がわかるわけではない。ロウと父親の話し合いは、どこまでいってもかみあわなかった。

 怒りにまかせて、父は仕送りを止めると言ったのだが、それにロウが「じゃぁ私が出そうか」と返してしまい、さらに父は怒り狂ったのだが、ロウはその怒りの意味がわかっていなかったようだ。いまも父の怒りは溶けていない。母親は途中であきらめたのか、それともなにか思うところがあったのか、「伊那には普通の人生とか無理よね。お父さんのことは気にしなくていいわ。私がなんとかしておくから」と言ってくれた。妹はロウが歌手だということに興味津々だったが、そもそもオペラにあまり興味がなく、ロウの実績はよくわかっていなかった。「まぁいいんじゃない。好きにすれば」とさほど気にも留めていないようだった。


 伊那は最初にロウと出会ったとき、あのドアの向こうから運命が現れる、と感じたのだった。それがどんな運命なのかはわからなかった。ロウに出会った後も、いつかロウと暮らすことになるとは夢にも思わなかった。ただ、あんなに強く、はっきりした波動を感じたことは後にも先にもない。

 ロウはロウで、あの扉の向こうから日本が現れるというイメージを受け取ったと打ち明けてくれた。

「日本への道がそこにあるようなイメージがあった。歌っているとき、そんな不思議なイメージを受け取ることがある。日本とフランスを繋ぐような仕事をしている人物と出会うことを予想していたよ。でも実際には、あのカフェーにいたのは君だった。君が日本人なのはすぐわかったよ。日本人独特の、静けさというか、繊細さがあったから。日本のイメージを受け取った場所で、日本人に出会ったのだから、話しかけてみようと思ったんだ。あのときはいつか未来に、こんな風に君と暮らすことになるとは、夢にも思わなかった」

「運命」と「日本」。ふたりが受け取った単語は違うが、まずイメージがあり、そのあとで出会いがあったのだ。


 最初は圧倒的な迫力を持っているように思えたロウも、家の中では完全にエネルギーが切れていることがある。几帳面なときといい加減なときの差が激しい。職業上、舞台が近くなると神経が張り詰めてくるのだが、しばらく舞台がないときは、ゴロゴロしながら楽譜を本のように読んでいることが多かった。世界中の音楽を知るには、一回の人生ではとても足りないよ、そんな風に言っていたが、そんなときに読んでいる楽譜はオペラではないことが多かった。ロウが美しいと思った音楽の楽譜を読んでいるのだろう。一度も公演で聴いたことがない音楽もあるよ、とロウは言っていた。ロウがお気に入りの作曲家の、公式には演奏されたことのない楽譜も読んでいるらしい。楽譜を読み始めると、音楽の世界に遊びに出かけたまま帰ってこない。楽譜を部屋中にまき散らして、部屋がどんなに汚れていても気にならないようだった。

 伊那は、これはロウなりのリラックス方法なのだと思い至った。この人って、音楽とゴロゴロできるんだわ、そう感じた。そのことをロウに告げると、

「音楽とゴロゴロしている、か、いい言葉だ」

 なぜかロウはいたくその言葉が気に入ったようだった。

「僕の中のイナ語録ベストスリーだよ。ひとつめは『細胞が踊っている』ふたつめは『音楽とゴロゴロしている』みっつめは『私は遠い』だな」


 私は遠い、とは、伊那がある日、ロウに問いかけた言葉のことだ。ロウは出会ってからずっと自分のことを「私」と言っていたが、男性に「私」と言われると、丁寧に距離をおかれているような感じを受け取ってしまうことは否めなかった。もちろん、外国育ちであるロウが、その微妙なニュアンスを理解して使っているわけではないことはわかっていたが、付き合い始めてしばらくしてから、伊那はロウに尋ねてみた。

「彪はどうして自分のことを話すときに『私』を使うの?」

 伊那は、ロウに呼びかけるときは本名の『彪』と呼ぶようになっていた。中国語の正確な発音ができるようになるまで時間がかかったが、その時間は恋に落ちた二人にとっては甘い時間だった。

 彪?ちょっと違う、彪だよ。彪?うーん?二人はそんな繰り返しをしながら笑いあった。

 逆にロウが伊那を呼ぶときは、いつまでもフランス語の発音のイナであって、日本語の伊那にはならなかった。ロウは日本に住んだことはなく、伊那という地名を知らないのだ。だが伊那はロウが自分をイナと呼ぶときの音が好きで、そこを変えてほしいとは思わなかった。フランス式に発音すると、イとナの間に不思議な間ができる。それが好きだった。


「どうしてと言われても、昔からずっと『私』と言っていたし、『私』が正しいのだと聞いていたが・・・。なにか問題があるのかい?」

 ロウは尋ねた。

「『私』は遠いの」

「遠い?」

 ロウは言っていることがよくわからない、という顔をした。

「日本語では『私』が正式な言い方で間違っていないのだけど、正式な言い方だから、普段の生活の中で使うことはあまりないの。女性は『私』を使うけれど、男性が『私』と使うときは、その、つまり正式な場だけで、プライベートではあまり使わないわ」

「それはつまり、フランス語のVousとTuみたいなものかい?」

「あ、うん、そうね、それに近いかもしれない」


 フランス語では、初対面の相手や目上の相手に呼びかけるときはVousを使い、親しい相手にはTuを使う。こちらは親しくなったつもりでいても、いつまでもVousと呼びかけられているのは、距離があるということだ。フランス人は、年齢に関係なく親しくなるとすぐに「Tuで話そう」と言ってくる。伊那の大学の教師も、すぐに「Tuでかまわない」と言ってくれた。フランスでは、大学の教師と生徒の間柄であっても、敬語であるVousは最初の頃しか使わない。ただし、Tuで話そう、と提案するのは教師側の役割のようだ。つまり、Tuは親しくなった合図のようなものだ。伊那が外国人だから、気を遣って言ってくれている人もいるのかもしれない。


「つまり、私が『私』と使っていると、イナはプライベートじゃないような感じがするということだね。正式だからこそ、他人のような感じがするということかな?」

 ロウは確認し、伊那はうなずいた。

「わかった、じゃぁこれからは二人のときは『僕』と言うようにするよ」

「ありがとう」

 伊那はほっとしてそう言った。気にしないでおこう、と思いながら、どうしてもロウに『私』と言われるたびにひっかかっていたのだ。伊那には、伊那の中で積み重ねた日本語の記憶があるので、どうにもならなかった。

「私は遠い、か、なるほど」

 ロウは伊那の言葉を反芻していたが、まさかあのときの言葉がロウの「イナ語録」に載っているとは思わなかった。ロウは伊那と話すことを楽しんでいた。

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