第26話 伊那 21歳 ガルニエ宮

 今秋、ロウはガルニエ宮の舞台に出演することになっていた。つまり、パリにいるということだ。演目はハムレット、フランス語のオペラだ。ロウは珍しく主役のハムレットを演じる予定だった。

 伊那も少しずつわかってきたが、オペラの配役は声質によって決まっている。恋人役をするのは、天を駆けるような高く甘い声を持つ俳優で、ロウのような低く重厚感のある声は、仇役になるか、悲運に巻き込まれる英雄、主人公を見守る長老的存在、そんな風に役割が決まっているようだった。ハムレットは悲運に巻き込まれる英雄の役割のひとつだ。


 声質と役柄のために、ロウが主役を演じることはあまりない。ロウは主役という役回りにそれなりに緊張しているようだったが、ハムレットを演じること自体は初めてではない。伊那には「観にこなくていいよ、みんなに裏切られた上にひとり生きていかなくてはいけない悲惨な役だから」と笑って言っていた。


 今回の舞台では新しい演出をするから、少しリハーサルが長めだよ、とロウは言っていたが、リハーサルが始まって以来、ロウが少しずつ沈んできているのがわかった。伊那がどうしたの、と聞くと、指揮者と監督が喧嘩しているんだよ、意見があわなくてね、と答えた。僕も舞台のことでは喧嘩するしね、と明るく言っていたが、珍しくストレスがあるようだった。


 ハムレットの初日も近づいたある日、伊那は、真夜中にふと目覚めて、そっとロウの様子をうかがった。

 ロウが寝返りを打つ。眉間にシワが寄っている。夢の中にまでストレスが忍び寄っているのだ。

 伊那はしばらくロウの眉間のシワを見ていたが、そっと両手でロウの両のこめかみを優しく後頭部に向かって滑らせた。中央にぐっと向かっていた力が左右に広がる。ロウの息が深くなり、表情が和らいだ。伊那はほっとした。


 何か思考から離れない憂鬱があるとき、人はその思いに囚われる。囚われた思いは眉間の中央に居座り、その思い以外のエネルギーが流れこんで自由にならないように硬直するのだ。物理的にスペースを開ければ離れていくことがある。


 どうしよう。これ以上ひどくなると、この人の身に何か起こるかもしれない。


 かといって、ロウ自身に問いただすのもためらわれる。ロウは指揮者と監督が喧嘩している、と言ったが、どうもそれだけではないような気がした。それに、ロウは伊那を心配させまいとしている。


 オペラの舞台のどこかに問題の根があるのだろう。オペラそのものか、音楽か、出演者か、それとも・・・。ハムレットは、ストーリーそのものが異世界の扉を開けてしまう構成になっている。舞台や映画に幽霊が登場するとき、そこには本当に冥界との通り道ができてしまう。それは舞台というものの持つエナジーのせいなのか、ただでさえパワーの強い俳優たちが集中するから起こるのか、ストーリーが呼び寄せるのか、おそらくそれらが融合して起こることなのだろう。


 物語では、ハムレットの母が義弟と通じた上に夫を殺害し、新王の王妃となる。そして父の亡霊がハムレットの前に現れて真実を告げ、復讐をせまる。母の不義に女性不信となったハムレットは恋人オフェリアを捨て、狂死させる。ハムレットは叔父を刺殺し父の復讐を果たした後、愛する者すべてを失った人生に絶望し自害する。だが、フランスオペラ版では、ハムレットは最後に自害せず、新王に即位し、人々の歓呼の中で虚無感にたちすくみながら幕となる。


 物語そのものが悲劇であり、亡霊も登場するが、ただそれだけではなくて、もっと深い理由があるのかもしれない。複雑な原因が交錯しているのだろうか。そもそも、父の亡霊に復讐を迫られる物語は、ロウの人生と呼応している。

 もしかしたら、最初にロウにハムレットの主役が来たときは、ロウの父親が行方不明になっている、という暗い影を、興行に利用されたような背景があったのかもしれない。だが、そうだとしても、それはもう遠い昔だ。もちろんロウはその痛みを引きずってはいるが、かといって今その問題が噴出する理由が見当たらない。


 伊那はいろいろ思いを巡らせてみたが、答えは出なかった。ピースが足りないのだ。カタチが見えてこない。仕方なく、伊那はそのままもう一度眠った。


 だが一度、意識をあわせてしまったからだろう。夢の中で、伊那はガルニエ宮の中に立っていた。ガルニエ宮そのものが、生命があるかのように脈動している。

 その脈動に、苦痛のゆがみがあることに伊那は気づいた。


 どこかに、何かが刺さっているみたい。なんだろう。探さなきゃ。


 伊那はガルニエ宮の中を走った。目の前に現れる扉を開ける。だが、扉の向こうはまた扉だ。開けても開けても、扉が続く。ガルニエ宮の美しく壮麗な扉。扉は、伊那が触れる前に開いていくが、どこまで走っても目指す場所にたどり着かない。


 迷っているのではない、迷わされているのだ。


 伊那はそう気づいたが、その迷路から抜け出る方法がわからない。全速力で走っているその速度を落とすこともできない。扉がものすごいスピードで開いていく、次から次へと扉の中へ飛び込まされる。


 知っている、この感じ、魔物だ!


 見てはいけない、見ると繋がってしまう、見てはダメ、でも気配がする、シューシューと息を吐く音がする、すぐそこにいる、触れてしまう!


 伊那は全身にびっしょりと冷や汗をかいて飛び起きた。恐怖のあまり叫んだような気がしたが、ロウは静かに眠っている。

 伊那はほっとして、ベッドから滑りおりた。15歳のときに魔物に出会って以来だ。前は舞妓の魔物だったが、今度はガルニエ宮か。伝統がある場所には、その華やかさに相対する魔があるのかもしれない。前回は不動明王が助けてくれたが、ここはパリだ。神仏界の掟を知っているわけではないが、なんとなく不動明王がここに現れるのは無理だという気がする。もしかすると、伊那が不動明王の仏像でも持っていれば話は違うのかもしれないが。


 さっきは魔物の気配を感じただけで、目を見合わせてはいないが、もしも見てしまえば、また15歳のときの二の舞だ。どうしたらいいんだろう。伊那は両手で自分自身を抱きしめてため息をついた。


「イナ、どうかしたのか」

 目覚めたらしいロウに背後から声をかけられ、伊那はどきっとした。

「ごめんなさい。起こしちゃった」

「それはかまわないよ。どうかしたの?」

「ちょっと怖い夢を見たの」

 ロウはベッドの上に半身を起こして、伊那に手を差し伸べた。伊那がロウの手の中に自分の手を滑り込ませると、ロウは伊那を引き寄せてから言った。

「嘘が下手だね、イナ」

「えっ」

「最初に言っただろう。君が僕のことで苦しんでいるのに、気づかないふりなんてできないって」

 伊那はため息をついた。どうしてこの人はこんなに鋭いんだろう。

「どうしてあなたは気が付くの」

「どうしてだろうな」

 ロウはしばらく黙って何事か考えていた。

「イナを見ていると、ときどきサンジェルマンの物語を思い出すんだよ。サンジェルマンは美しい少女を連れていたが、『彼女の瞳に不安が映るときは前に進んではならない』と言っていた」

「サンジェルマンって誰なの?」

「有名な魔術師だよ」

「魔術師・・・」

 伊那はその人のことはまったく知らない。なぜロウが突然、そんな話をするのかわからなかった。


「そもそも、なぜそこだけがはっきり記憶に残っているのか・・・それも不思議だが、君が鏡のように僕の心を映すのに気づいたから、それで思い出すようになったのかもしれない。僕の状態は、いいものも悪いものも君に流れこんでしまうし、それは僕たちがこうやって愛し合っている限り、止めることは不可能なんだ。君が不安そうに僕を見るときは、僕の状態が悪いときだ。正直、自分の状態が悪いと認めることは勇気がいることだけど・・・とくに今は舞台を控えているからね。でもだからこそ、原因を見つけて早く改善しなくてはいけない。それにどうやら、君の得意な分野の問題のようだ。そういうことだろう?」


 伊那はうなずいた。ロウは伊那を抱いている腕に力を込めた。


 ほんの少し前に、恐怖で飛び起きたことが少しずつ遠ざかっていった。どうしてこの人は、こんなに簡単に私の恐怖を変えてしまえるのだろう。二年前も、今も、まるで魔術師のようだ。


「彪が魔術師みたい」

「そう?」

「怖くなくなった」

「それはよかった。イナに心配をかけたくないからね。あんまり心配をかけたくはないのだが、何かが変だというのは僕も気づいている」

「どんな風に?」

「監督と指揮者が喧嘩をしていると言ったが、どうも喧嘩の仕方が普通じゃない。つまらない言い争いにも見えるし、お互いが自分の主張をしているだけにも思うが、ときどき二人とも目が変なんだよ。二人の状態に引きずられているんだろうが、他にもそんな状態になる人がいてね。僕はできるだけ自分を見失わないように中立を保っているが。これはどうも、見えない力のせいではないのかな、と思い始めた。

 僕は歴史の古い、いわくつきの建物ばかりで仕事しているからね。そういう事件はときどき起こるんだよ。音楽仲間には不思議な力を持っている人も多いし、よくないものが見える、聞こえるということもある。今回はちょっとまずいかな、とは感じている。そもそもガルニエ宮は幽霊の噂がある場所だからね。死者が出たこともあるし」

「知っているわ。シャンデリアの事故でしょう?」

「そう。その暗い噂を利用して、オペラ座の怪人という素晴らしい作品ができたわけでもあるが。つまりイナは、ガルニエ宮にいるモノを見てしまったんだろう?」

「完全に見えたわけではなくて、気配だけよ」


 ロウはしばらく考えてから口を開いた。

「イナ。君が見たものを僕に見せてくれないか」

「えっ?」

 伊那はロウの顔をまじまじと見つめた。

 新芽の歌をロウに聴かせたことはある。だが、体に負担がかかる手法だったようで、ロウに苦痛を与えてしまったことを伊那は後悔していた。


 また同じ方法でロウに送るということか・・・。

 伊那はまったく気がすすまなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る