第27話 伊那 21歳 死者のメッセージ

 伊那はまったく気がすすまなかったが、ロウは

「それは僕の問題であって、それにイナを巻き込んでいるだけだ。」

 と主張した。そう言われれば、そうなのだ。隣にいるから代わりに受け取っているにすぎない。

 結局、ロウの主張と懇願に負けた形で、伊那は新芽の歌を送信したのと同じ方法でガルニエ宮で見たものをロウに送信することになった。

 毎晩、ロウが眠りについたあとにやってみたがうまくいかず、送信できたのは四日後だ。新芽の歌を送るときに感じた、ロウのエネルギーの中にある温かさと、その外側の殺伐とした荒野の果てにある美しい星の光。二度目にたどってみても、それは長い苦痛の果てにある、目もくらむような美しい光だった。

 ロウは相変わらず頭痛はあったようだが、二度目だったせいか、前回ほどの負担はなかったようだ。


 ゆっくり深呼吸した後、ロウは言った。


「君が見たものと全く同じものかどうかはわからないが、ガルニエ宮の扉が見えた」

「私も扉を見たわ」

「じゃぁ、ほぼ同じものかな。扉が連なっていて、その向こうに何かがある、という感じだったね」

 伊那はうなずいた。

「これで、僕が受け取るはずだったものは受け取ったから、イナに心配をかけずにすむかな」

「心配しないように努力するわ」

 伊那はかろうじてそう言った。

 心配するということは、相手にとっては悪い結末を想像することだ。つまり、相手が失敗する道へとエネルギーを注いでしまうことだ。愛にみせかけた支配でしかない。そうわかってはいても、心配しないでいることは難しい。

「ありがとう」

 ロウにそう言われて、伊那はほっと安心した。その瞬間、くらっと眩暈がして、今度は伊那が額を抑えて眉をひそめた。

「イナ、大丈夫か?」

 ロウが伊那の肩を抱いた。

「疲れたみたい」

 伊那はそう答えた。毎晩のチャレンジが体に負担だったのだろうか。

「結局、イナに無理をさせたということかな」

 伊那は黙って首を振った。

「無事に彪に映像を送れて安心したわ」

 そう言って伊那はロウの胸に体を寄せた。ロウの心臓の鼓動が聴こえてくる。伊那はロウの心臓の鼓動を聴いているのが好きだ。ロウの命がそばにある感覚。ロウはいつも、僕の心臓の鼓動なんかでいいならいつでも聴かせるけど、と言って笑っていた。ロウは伊那の髪をなでてくれた。その優しい感触に癒されながら、伊那の疲労感は眠りに変わっていった。


「・・・イナ。イナ、起きて」

 ロウの声に伊那ははっと目を覚ました。

「大学に遅れるよ」

 伊那は慌てて起き上がって時計を見る。大変だ。伊那はバタバタと準備を始めた。

「疲れているなら、起こさないほうがいいかと思ったが・・・」

「今日の授業は行かなきゃいけないの。大丈夫、もう疲れていないし」

「そのようだね。コーヒーいれようか?」

「お願い」

 伊那は手早く身支度をすませ、ロウが淹れてくれたコーヒーを飲み、カバンを持った。

「いってきます」

 ロウは身をかがめて伊那の唇に軽いキスをした。

「いってらっしゃい」


 伊那が大学に着くと、ヤドヴィカにおはようと挨拶した。ヤドヴィカは伊那を見ると、

「イナ、今日は幸せそうね」

 と言った。

「そう?」

「最近、ちょっと沈んでいたような気がしたから・・・でも、ロウとうまくいっているのね」

 ヤドヴィカはそう言って微笑んだ。ロウのことを心配していたのがそう映ったのだろう。

「うん」

 伊那の中から、幸福感が溢れていた。ロウの魂の光を見たからだろう。いつも感じる温かい愛と、荒野の果てにある美しい星の光。ロウが生きてきた苦難の人生への優しい労わりの想いと、音楽への情熱を失わなかった真摯さへの感動。伊那は前よりももっとロウを愛しいと感じていた。勝手にいろいろ心配していたけれど、あの人はとても強い人なのだ。

「ごちそうさま」

 ふたりは顔を見合わせて笑った。



 その夜、伊那は夢を見た。いや、夢という名の異次元だ。伊那はその違いがわかるようになっていた。そもそも、人が夢を見る時は、現実の中のもう一つの可能性の世界を旅しているか、パラレルワールド、並行世界と呼ばれるよく似た別世界を訪れているか、時間軸を通り抜けて過去か未来に旅立っているか、そうした別世界の記憶をこの世に持ち帰っているに過ぎない。

 状態の悪いときは現世より下の世界に行き、状態の良いときは現世より上の世界へ行く。よく気を付けてみれば、持ち帰ってきた映像にはメッセージが込められている。

 そうしたメッセージに意識を向けるようになると、少しずつ別世界は近づき、やがては夢、いや、夢と言う名前の異次元の中で、現実と同じ意識を保つことができる。

 伊那は少しずつ、夢の中でも意識を保つことができるようになっていた。


 伊那の目の前に壮年の男性が立っている。東洋人だ。少しロウに似ている、と思った伊那は、はっと気づいた。


 ロウの父親だ!


 ロウの父親は微笑んで伊那を見た。

「いつも息子が世話になって、ありがとう」

 ロウの父親は、まるで日本人であるかのようにそう言った。日本人みたい、と思った伊那の心を読んだかのように続けて言った。

「妻に聞いたよ。日本ではこう挨拶するってね」

 そうか、と伊那は思った。ロウの母は日本人だ。

「息子に伝えてほしいんだ。私はもう大丈夫だってね。辛かったこともあったが、それももう終わった。いまは穏やかに過ごしているよ。心配しなくていいとね」

「わかりました」

「君にはいろいろ迷惑をかけるが、君は・・・・君は君で・・・・道を進めばいいから・・・・」

 突然、電波の悪いテレビのように映像は不鮮明になった。と思った瞬間、伊那はぱっちりと目を覚ました。


 ロウの父親があの世からメッセージを伝えにやってきたのだ。


 どうしよう。どうやって伝えよう。とっくに覚悟しているだろうけれど、ロウの父はあの世の人なのだ。


 伊那は体を起こして、隣で眠っているロウを見下ろした。まるで誰かに揺り起こされたかのように、ロウが身じろぎして顔をしかめる。ロウの父が起こしている、と伊那は直観した。ロウの瞳が何度かまばたきし、目を開いて伊那を見つめる。


「ん?」

 ロウがいぶかしげに自分を見下ろしている伊那を見る。

「どうかした?」

 伊那が黙ってロウの顔を見つめていると、ロウは手を頭にあてて振ってから、半身を起こした。

「彪・・・あの、落ち着いて聞いてね」

「どうしたの?」

「彪のお父さんが来たの」

 ロウの目が大きく見開かれた。そのまま黙って伊那を見つめる。

「それで、彪に伝えてほしいって言われたの。もう大丈夫だ、辛いことは終わった、心配しなくていいって」

 ロウはそのままじっと伊那の目を見つめていた。伊那はロウの目を見つめ返した。ロウがうつむいてため息をついた。

「・・・つまり、幽霊だってことだね」

「あの世の人ではあるけれど・・・」

 幽霊ではない、と伊那は説明したかったが、今のロウにその違いを聞く余裕はないだろうと思った。


 ロウは声にならない声をあげて、両手で顔を覆った。

 伊那は、ロウの苦痛の深さに胸がきりきりと締め付けられた。

 昔のことなんかではない、昨日起こったことのように苦しんでいたんだ。私には気づかれないようにしていただけなのだ。

「そうか」

 ロウはなんとか言葉を振り絞ったが、顔を覆ったままうつむき続けている。

 伊那はロウが震えているのに気づいてはっとした。ロウが泣いている。


 伊那はなぐさめの言葉が見つからなかった。ふさわしいなぐさめの言葉などない。

 伊那はそっとロウの体に触れ、ロウの頭を自分の膝の上に引き寄せた。ロウの体を駆け巡っている悲しみとやるせなさと怒りの感情が伊那の体の中に流れ込んでくる。


 ああ、あの殺伐とした空間だ、まるで戦場のような・・・


 中央にあったロウの温かい愛はどこにもなく、殺伐とした空間の中でロウの荒れ狂った感情が渦巻いていた。

 伊那は呼吸をゆっくりのペースに落とすと、流れ込んできたロウのエネルギーを受け止める。

 ゆっくり呼吸をしていると、ふとイチョウのエネルギーをすぐそばに感じた。あのイチョウだ、齢千年の・・・。イチョウの地中深く伸びてゆく根のエネルギーを感じる。そのエネルギーに沿って、伊那は自分の中に受け止めたロウのエネルギーを、そっと地中の奥深く沈めていく。それは植物が地中深くへと向かう先、地球の中心へと向かうエネルギーだ。


「この地球は光と影でできている」


 イチョウの声がする。


「陰と陽、男と女、善と悪・・・光が強くなれば闇も強くなる。闇を引き受けられない者には光も与えられない、だが命ある脆弱な肉体が受け止められる闇の量は限られている。そのために私たちが存在する。闇が光につながるように、死は命につながっていく。季節は繰り返す、命は繰り返す、私たちはその輪廻を手伝うことができる。人が木のそばでやすらぐ、その感覚を大切にしてほしい。私たちは、人を助けたいと思っているのだ・・・」


 イチョウの手助けを受けながら、伊那は地球の中心に達する導管になる。ロウの激しいエネルギーが地中深くへと流れていく。


 イチョウの声が続く。

「すべてのネガティブなエネルギーは、地球のコアまで達すると、再生される。そして、新しい生命に、新しい春にと転換されていく。どんなネガティブな体験も、ネガティブな感情も、ひとりで抱え込まずに委ねることだ。そうすれば、地球の命に変えることができる」


 私はいつのまに、こんなことができるようになったんだろう。

 私はどれくらい、この人を愛しているんだろう・・・。


 そう感じながら、伊那はロウを抱きしめていた。そしてロウの人生と、ハムレットの人生との不思議な符号に改めて想いを馳せた。


 ガルニエ宮の魔物を引き寄せたのは、他でもないロウ自身かもしれない。



 ハムレットの初日は成功に終わった。伊那は観てはいないが、夜遅く帰ってきたロウの顔を見れば、すべてがうまく行ったことがわかった。

 ロウは舞台の興奮をそのまま引きずって帰ってきた。体全体から躍動感が漂っている。顔は笑顔で輝いており、ただいま、と大きな声で言うなり、迎えに出たイナを高く抱き上げた。きゃっ、と伊那は言ったが、ロウの体中からあふれる高揚感と喜びが伊那の全身に流れ込んできて、伊那の体も同じように喜びで震えた。

「やったよ、イナ、君のおかげだ。ma rose」

 ma rose は星の王子さまの中の、王子さまのセリフだ。ma rose、僕の薔薇。

 二年前に、伊那が、いったいどんな女性がロウのma roseになるのだろうと涙を流した、そのセリフだ。この人はいま、私のそばにいて、私を見つめてくれている。

 伊那の体のすみずみまで、愛と幸福感が駆け巡っていった。


 ロウは伊那を抱き上げたままで言った。

「イナ。この舞台が終わったら旅行に行かないか?君に見せたいものがあるんだ」

「見せたいものってなぁに?」

 伊那はロウの高揚感に包まれて、上気したバラ色の頬で微笑みながらロウを見つめた。

「図書館だよ」

「図書館?」

「地球で一番美しい図書館だ」

「どこにあるの?」

「ヴェネツィアにあるよ」

「行きたいわ」

「じゃぁ、行こう。連れていってあげるよ」

「彪・・・幸せだわ」


 伊那は抱き上げられたまま、ロウの頭に腕をまわして頬を寄せた。

 地球で一番美しい図書館とは、どんな図書館なのだろう。イタリアの明るい色使いの絵画や、生きているような彫刻があるのだろうか。宇宙図書館と似ているのだろうか。美しい水の都、ヴェネツィアも憧れの街だった。それに美しい図書館を見せたいと想ってくれたロウの愛情が嬉しかった。

 二人の唇はどちらともなく近づいて、長く深い口づけを交わした。

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