第30話 伊那 23歳 イチョウとの会話
ふと気が付くと、伊那はベッドの上でぱっちり目を開けていた。帰って来たのか、と伊那は思った。隣でロウが規則正しい寝息をたてている。朝になったらイチョウの木に会いに行ってみよう、そう考えながらもう一度眠りについた。
伊那がイチョウの木に近づいていくと、イチョウがさわさわと枝を揺らして歓迎してくれた。
「どうした?なにか話があるのか?」
「どうしてわかるの?」
「顔に書いてある」
伊那は思わず笑った。
「もっとも私たちは、顔だけを見ているわけではない。君が近寄ってくるとき、君のエナジーの中に、私への依頼と期待が見え隠れした。だから、私に何か聞きたいことがあるのだろうと判断したのだ。ただ散歩のために私のところに来るときとは違うエナジーだからね」
「いつもそうやって、人間のエナジーを読んでいるの?」
「もちろん読んでいるよ。私のことを特別に愛してくれる魂は、私にとっても愛おしいものだ。愛と信頼が双方向なのは、人間同士だけではない。だが、残念ながら人間とは言葉が通じないことが多い。しかし言葉が通じないからといって、私の人間への愛が減るわけではない」
「そうか・・・実は、彪のことなのだけど」
「うん?」
「彼を日本に連れて帰りたいの」
「日本へ、か」
「実は昨日、銀河図書館に行ってきたの。そこで調べたら、あなたから日本へエネルギーラインが繋がれていることがわかったの。前に日本にいる千歳以上のイチョウの木とは話せると言っていたでしょう。そのエネルギーラインを、日本へのエネルギーラインにできないのかな、と思って、相談しようと思ったのよ」
「たしかに私は日本にいるイチョウとは話せるが・・・」
しばらくイチョウは沈黙していた。
「だがもちろん、木同志のエネルギーラインと、人間同士のエネルギーラインは異なるものだ。私たちは地中深くでつながっている。人間は地中に潜って生きられるわけではないから、このラインを通って生きてたどり着くことはできないだろう。
それでも、私がこうやって君と話すように、日本にいるイチョウの木と話せる人間もいる。私は君と彼の役に立ちたいとは思うよ。日本のイチョウの木からいろいろ情報を集めてみるから、少し待っていてくれるかい。方法があるのかどうか考えてみよう」
「ありがとう」
「方法が見つからないわけではないだろう。彼が日本へ行ける可能性はあるだろう、そう私は感じる」
「そうなの?」
「そう、人間のエナジーは木と違って固定されているわけではないが・・・それでも、その人なりのエナジーの広がりがあり、そのエナジーに沿って地上を歩いていくものなのだよ。初めから外国の土地と強く結ばれている魂は何度も外国を訪れるし、それはすべて、その魂にとって縁のある土地なのだ。君も彼も、外国に広がるエナジーを持つ魂だ。外国に広がるエナジーを持ち、その中から縁のある土地を何度も訪れている。彼のエナジーは日本としっかり結ばれているよ。だが、今生の彼の出生において、日本との関係は強烈に捻じれている。強烈に捻じれているのは、深い縁があるともいえる。彼は日本に行きたいと望むだろうし、日本も彼を呼んでいる」
「日本の神が彼を呼んでいると言っていたわ」
「そう、呼んでいるだろうね。神が呼べば道は開くが・・・だが、その道を無事に通過できるかどうかは、個人の能力次第なのだよ。神は人の世の問題を肩代わりできるわけではない。できることは、ただ道を示すことだけだ。信じて行動すれば扉は開いていく」
「行動が大事なのね」
「知るだけ、気づくだけではこの世は動かない。行動が大事なのだよ。もし行動が必要ないのであれば、この星に生まれてくる理由はないからね。気づき、そして行動することで人間は成長していく」
「成長したくないみたいな人もたくさんいるけれど」
「そう見えるのは、まだ君が若いからだな」
イチョウがまた笑ったように見えた。
「成長というのは、必ずしも光の方向とは限らないのだよ。私たちの葉っぱや枝は、すべて太陽に向かっていると思うだろうが、そうではない。四方八方に伸ばしたエネルギーの中から、ただ光を浴び続けた部分が残るだけなのだ。根も同じだよ。水や栄養分を吸い上げられる場所だけに根を伸ばすわけではない。四方八方に伸ばしたエネルギーの中から、ただ水や栄養分を吸い上げることのできる根だけが太くなっていくのだ。そして、効率的に吸い上げられる場所に根が集まっていく。
人間の成長も同じだ。闇に向かっている魂も、やはり成長したいという望みを抱えている。それは闇の果てまでたどり着いたあとで、跳ね返って光に戻ってくるためのものだ。器の大きな魂ほど、より深い闇を受け入れられる。それは、より大きな光をいつか吸収するためなのだ。この世は光と闇でできている。光り輝いている魂ほど、より深い闇を受け入れており、そしてそのことを決して誇示しない。
この世の悲劇を受け止められるのは、より大きな光と闇を内側に持つ魂だけだ。そして、それは喜劇になりうることもわかっているのだ」
「わかるような気がする」
伊那はそう答えた。ロウのことを考えていた。ロウの空間を揺り動かす波動を持つ声は、ロウの出生からくる困難を乗り越えたからこその波動の強さだ。もしも平和な国で生まれたとしたら、ただ単に歌がうまいだけの人だったかもしれない。
だけど、彼の魂の質からいけば、そういう平和な人生は選ばないだろう。自分の魂の持つ光と影を、もっとも生かせる道を選んだだけのことだ。
「彼が日本に行ってしまえば、私はもう二度と、彼と会うことはないだろう。少し淋しいな」
イチョウはそう付け加えた。
「彪はもうフランスには戻らない、もしくは戻れないのね」
「彼は二度と戻らないよ。彼は眠るため、そして星に還るために日本に行くのだから」
「そうか・・・」
「知っているのだろう?」
「うん、もちろん知っているけれど、改めて言われるとなんだか私も淋しい」
「どんな魂であっても、人にはそれぞれ使命というものがある。人は世の中に役立つ高尚な使命だけを聖なる使命と勘違いすることがあるが、そうではない。ただ、その使命をポジティブに感じるのかネガティブに感じるのかの違いが人生の質を決めているともいえる。君の使命は君にとってはネガティブに感じやすいものだが、他の人からは羨望されるだろう。それは君が羨望を必要としない質の魂だから与えられるものだ。人の世は、人にとっては難解にできている。真に欲するものは、欲しないことで与えられる。
私はいつもここにいて、人の世に慈しみを送っている。君のように私を見上げ、私と交流する魂は、私にとっても特別だ。君が子供の頃、イチョウの木を慈しんでくれたのも知っているし、そのイチョウが死んでしまったときに泣いてくれたのも知っているよ。ありがとう」
思いもかけず、イチョウから遠い昔のことをありがとうと言われて、伊那の瞳に我知らず涙が浮かんできた。イチョウの優しさが心に深く沁みこんだ。イチョウを見上げながら突然涙を流すのはへんだとは思ったが止まらなかった。伊那はそっと涙をぬぐったが、ぬぐってもぬぐっても新しい涙が溢れてきた。子供の頃、ずっと遊んでくれたイチョウが不慮の事故で死んでしまったことは、誰に打ち明けて泣くこともできなかったからこそ、深い悲しみを伊那に植え付けた。ロウが先に死んでしまうこと、そしてその日まで知っていることは、ロウともイチョウとも分かち合っているが、だからといって平気とは言い難かった。
イチョウは涙を流す伊那を慈しみのエナジーで包んでいた。
「彼と別れることが淋しいのか?」
「もちろん・・・でも、年が違いすぎるから仕方ない」
「私から見ると、年が違うとは思わないが」
イチョウはまるで笑ったかのように、枝をさわさわとさざめかした。
「この地上にいる何億の人の魂の中で、本当に結び合える魂と出会えることが、どれほど奇跡的なことなのか、私にはわかる。その奇跡の前では、年齢の違いなどたいしたことではない。生きたまま出会い、ただ相手の瞳の中を覗き込めることがどれほどの幸福なのか。その幸福が、どれほど他の幸福とかけ離れた真実の幸福なのか、そのことが腑に落ちれば、いずれくる別れより、今の幸せへの感謝が湧いてくる」
「そうだね。うん。ありがとう」
ロウのそばで感じる喜びや安らぎ、ささいなことで笑いあったり、つらいときに慰めてくれたり、それが幸福なのだと伊那は感じていた。だが、ときおり未来を考えては悲しみに落ちてしまうことを止めることができなかった。
「私が思う年が違うというのは、魂の片割れなのに違う時代に生きていることだよ。だがそれも意味のあることなのだろう。魂の片割れがいないからこそ学べることもある」
「別の時代に生きている二人が魂の片割れだって気づくことがあるの?」
「もちろん。地上の人間は男と女にわかれていて、自分の片割れを探し求めるようになっているからね。私は君たち二人が出会っていないときから、君たちが恋に落ちることは予想していたよ」
「そうなの?!」
「君たちはよく似ている。私を見上げて千年の時の流れを想うこと、千年の時の流れから、はるかな宇宙を想うこと、人の世のあらゆる移り変わりを想うこと、命の向こう側を感じること、内側にこの地球への情熱と愛おしさを秘めていること、だからこそわかりあえるのだ」
「似ているなんて思ったことなかった・・・」
「君たちは似ているよ。とても、とてもね。私から見れば、年齢の違いや立場の違いなど考えるべきこととも思えない。似つかわしい年齢で、同じ学校や職場で出会って夫婦になったとしても、魂同志は一万光年以上も離れている二人もいるではないか・・・そうした組み合わせの苦痛は、この地上で生きることの苦痛につながるのだよ。しかも、その苦痛のほとんどは、わがままとして片付けられてしまうのだ。気の毒なことだ」
「そうか・・・」
伊那はイチョウを見上げたまま、長い黙想に浸っていた。急に子供たちの笑い声がすぐ近くで聞こえ、伊那は振り返った。可愛らしい子供たちの一団が走りながらイチョウのそばを横切っていった。伊那はもう一度イチョウを見上げ、ありがとう、と心で声をかけた。またおいで、私も考えてみるから、とイチョウは返してくれた。
ロウを日本へ連れて帰る。いろいろな糸を縒り合わせて、伊那の幾何学の未来図はカタチを取り始めた。それは、イチョウが言ったように可能性があることを示している。ただ、しっかりした図形ではなかった。調和が取れているわけではない、もろくて儚い図形。もしかしたら壊れてしまうかもしれないカタチ。そこから伊那の迷いが始まる。この可能性に賭けるべきか、否か。
伊那は何度も宇宙図書館にアクセスしてみたが、その部分はシールドがかかっていて、どうにもならない。結局、この可能性に賭けてみるか、諦めるか、どちらかしかない。銀河図書館では、ロウを連れて帰れるか、という個人の質問には回答はこない。
日本帰国を賭けてみた場合のカタチは、ゆらぎがあれば美しい幾何学に仕上がる。もしも硬直すれば、逆にすべてが霧散する。諦めた場合のカタチは、もっとひどい。そのカタチはまるで腐臭だ。少しずつ少しずつ内側から滅びていくカタチ。それはロウが日本をあきらめて、このままフランスで終生を過ごすということ。それは、人生最後の夢をあきらめるということ。フランスでの暮らしが悪いわけではない。仕事に成功し、友人がいて、恋人もいる。それでも、ロウがどこか今の人生に倦んでしまっていることを、そばにいるからこそ伊那ははっきりわかっていた。このままこの国にいたら、この人はダメになるだろう。この人がそんな腐臭のカタチに進んでいくことに、私は耐えられない。
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