流星の庵 Ryusei no iori 第三部~星の声を聴く者~
Naomippon
第1話 伊那 誕生から13歳
イナは変わった名前だ。
漢字で書けば女の子の名前に見えないこともないが、語感からはあまり女の子らしさは感じられない。名付けたのは会ったこともない祖父らしいが、祖父はイナが生まれてすぐに亡くなってしまった。
祖父はイナが母親の体に宿ったとほぼ同時に、不治の病であることを告げられた。イナは祖父の初孫になる。祖父はイナが生まれてくるのを待てるのか、それだけの命の時間があるか、ずいぶん気にしていたらしい。周囲の人間も、まだ若く元気だった祖父の病に衝撃をうけており、赤ちゃんの話題は、祖父の病の話題とともに、希望と不安が入り混じった中でひっそりと話されるのが常だった。長男であるイナの父は、祖父との親子仲も健全で、祖父を尊敬していた。
祖父は急激に弱っていったが、イナが生まれるまでなんとか生きていることができた。父はイナが生まれるとすぐ、赤ちゃんを祖父の枕元まで連れて行った。祖父は、目を細めながら赤ん坊を抱き、そして「この子をイナと名付けてくれ」と頼んだそうだ。父はイナの意味を知らず、その意味を祖父に問うた。
祖父は
「イナは維持の維に、那由他の那を取って維那と書く。僧侶の役職だ。言ったこともないが、私は昔、真剣に出家を考えたことがあってな。だが、漢字までその字にすることはない。漢字は好きに選んでくれたらよいが、この音の響きが好きなのだ。
つまらない私の思い込みかもしれないが、この子が生まれてくることと、私があの世へ行くことと、なにかのつながりがあるような気がするんだ。私は、まだまだこの世でやりたいことがあったが、思いがけずもあの世へ行くこととなった。孫の行く末を見ることもできないが、この名前をつけることで、あの世から孫を見守りたいのが私の願いだ」
と答えたそうだ。
もともと祖父を尊敬していた父は、母にも相談せずに二つ返事で引き受けたが、母も怒ることはなかったらしい。母はときおり妙に敏感なところがあり、そうなることを予期していたのかもしれない。
日本語には「名は体を表す」という言葉がある。名前がその子の特徴を表している、という意味だ。名前をつけるのはたいていの場合両親だが、名付けの際に、両親がその子に願っていることが反映されるものだ。そう考えると、名が体を表しても不思議ではない。勇、勝、という名前を子供につける親は、体が丈夫で力強い子供であることを希望しているし、優、和、という名前を子供につける親は、性質が温和で人に愛されることを希望しているのだ。
結局、赤ちゃんは維那ではなく、漢字の印象と画数の両方を考えたうえで伊那と名付けられた。
イナという名前は、祖父の死とともに、祖父のこの世への思い残しと仏教への思いを重ね合わせてつけられたように、伊那自身は感じていた。そうした祖父の思いは、伊那の人生に深く影響していた。
伊那は見えない世界に強いつながりを持つ子供だった。生まれてくる前から見えない世界の友達:スピリットフレンドがいて、それは生まれた後も続いていた。本当はすべての子供はスピリットフレンドを持っている。肉体の父母にまだなじめない間は、魂の世界の友達がそばにいて、話し相手になってくれるのだ。
だが、肉体の父母となじんでいくとともに、スピリットフレンドは遠くなり、この世での「物心がつく」頃には、見えない世界の友達のことを忘れてしまうのが普通の成長なのだ。
祖父が亡くなったのは、伊那が生まれてから1か月半後だったが、伊那はその日のことをはっきり覚えている。もちろん一か月半の乳児の肉体の記憶ではない。スピリットフレンドの手助けを受けて、伊那は魂の目で祖父の死を見ていた。
弱々しくやせ細った肉体の中から、祖父のアストラルの体は若々しく力強く立ち上がった。伊那を見つけてにっこりと笑い、それから周囲の家族に目を向け愛情をもってながめていた。伊那以外、祖父とコンタクトがとれる人間はいないようだった。敏感な伊那の母親が、ときおりふと気配を感じたかのように祖父のアストラルの体に視線を投げることがあった。
祖父には、あの世からの迎えがきていた。祖父の若くして亡くなった親友だとスピリットフレンドが教えてくれた。家族でなく親友が迎えに来るというのは特殊なケースなのだが、祖父と親友の間には特別な絆があり認められたのだと話してくれた。
祖父は、親友と連れ立ってすぐにその場から姿を消したが、四十九日が来るまでの期間は、ふと気づくと戻ってきていることがあった。生きている人間にとっての四十九日はあっという間だが、死んだ祖父にとっては、濃密な時間であるようだった。その四十九日の間に、祖父のアストラル体は人間の密度から、魂の世界の密度に近づいていく。まるで肉体のように見えていたアストラル体は、あの世の世界の住人のように透き通る軽やかな体になった。そして四十九日が過ぎると戻ってこなくなったが、スピリットフレンドが「きちんと儀式をして呼べば戻って来られるし、本人が強く望んだときも戻って来られる」と教えてくれた。
スピリットフレンドを持つ子供は、3歳か5歳でスピリットフレンドとの別れがやってくる。見えないものを感じていた昔の人が「七五三」という儀式をしたのは、スピリットフレンドとの別れの儀式でもある。女の子の場合はたいてい3歳、男の子の場合は5歳でスピリットフレンドと別れ、それから人間の子供と友達になるのだ。大人になっても霊感を少し保持している女性は、7歳までスピリットフレンドと一緒にいる。伊那の母親も、7歳までスピリットフレンドと一緒にいた。
だが、伊那の場合は7歳になってもスピリットフレンドとの別れは訪れなかった。伊那がスピリットフレンドと別れたのは13歳のときだ。そのときの底なし沼に落ちたような虚無感と喪失感を、伊那ははっきりと覚えている。スピリットフレンドとの別れとともに、伊那は見えない世界の守護者を失ったのだ。ほとんどの人は見えない世界への理解がなく、たとえ伊那を信じてくれたとしても、同じものを見るわけではない。
伊那にとって、スピリットフレンドの代わりになる友達など、見つけようもなかった。同い年の少女たちはちょうど思春期で、伊那にはまったく興味のもてない、おしゃれや恋やウワサ、あるいはTVや映画の魅力的な男の子たちに夢中だった。伊那のように生と死を超えた世界に興味を持つ仲間は見つけられなかった。
伊那は必然的に、本の世界へ逃避した。探せば、そこにはスピリットフレンドと同じ世界のことが書いてあった。あるいは童話やおとぎ話の中に。あるいはファンタジー小説の中に。ときには映画の中に、スピリットフレンドと語り合ったのと同じ世界が広がっていた。
伊那は友達が欲しいとは思わなかった。だが、ひとりぼっちでいる伊那を「可哀想」と言って、仲間に入れようとする少女たちがいた。伊那は、おとなしくひとつのグループに属することにした。そのグループはクラスで一番地味、もしくはおとなしい少女の集まりで、他の少女たちのように恋や美を競うことはほとんどなかった。
そのグループは、アニメが好きな少女の集まりで、ときには、アニメの中に登場する超能力者や、神や天使の話、死後の世界の話が話題になることはあった。だが少女たちはあくまで架空の世界として話していた。伊那の実体験に比べるべくもなく、伊那は黙って面白そうに話を聞いているしかなかった。それでもときおり、アニメの中にも宇宙の叡智に元づく伏線が混じっている。伊那が興味を持てば、少女たちは惜しげもなく持っている漫画やアニメを貸してくれた。そんな風にして、伊那はなんとか学校生活を送っていた。
口数は少なかったが、伊那は頭がよかった。いや、頭がよかった、という表現が正しいのかどうかはわからない。スピリットフレンドのおかげで、宇宙の真理-この世でいえば哲学的思考を持っていた伊那は、小学校高学年にもなると大人の本しか読んでいなかった。つまり、国語能力はすでに中学生離れしていた。数学はというと、伊那は小さい頃から数字と会話することができたため、数学はもっとも得意な科目だった。伊那は石や樹木とも会話し、その同じ流れで数字とも会話していた。仲間の少女たちのアニメには、石や樹木と会話する超能力者は出てくるが、数字と会話する超能力者は出てこない。
なぜなのだろう、と伊那は思っていた。数字はこんなに面白いのに。
数字と会話する伊那の数学の解き方は独特だった。式を瞳の奥に焼き付ける。瞳の奥にある深淵の場所-スピリットフレンドはそこを「静寂の泉」と呼んでいた―に投げかけると、泉の奥から解答の数字が出てくる。それから伊那は、解答までの道筋を頭の中で考える。どの道をいけばこの解にたどり着けるのか? こっちから行くか? それともこっちか? 伊那の頭の中では、解答にたどり着くまでの迷路の抜け道探しが行われていた。
必ずしも試験の時間内に、解答までの道がみつかるわけではないが、それでも伊那の数学の成績は群を抜いていた。
理科の中の物理的・地学的分野には、数学に似ているところがあり優秀な成績を収められた。英語の文法は数学のルールのようで理解しやすかった。違う言語ではあったが、「音を聴く」ことは得意で、ヒアリングは簡単だった。だが伊那はスピーキングは苦手だ。社会は歴史・地理とも前世の情報と絡んでいるのではっきり理解できるところがあった。つまり、全体として、伊那は優秀だったといえる。
イナが数字の中でもっとも好きだったのは円周率だ。
π=3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971 6939937510・・・・・
円周率の数字をたどっていくと、やがて数字はふわりと立ち上がり、道端の花のように風にそよがれ始める。その風は遥か彼方から、うららかな春の風のように優しく吹いており、やがて数字たちはまるく大きな螺旋を描いていく。螺旋がゆっくりと回転を始めると、今度は遥か彼方から天使たちの歌声が響いてくる。伊那はうっとりと数字の螺旋に身をまかせる。スピリットフレンドと別れてしまった伊那の、心和むひとときだった。
あるとき伊那は、うっとりしすぎてスピリットフレンドの警告を忘れてしまった。スピリットフレンドの警告、それは、異次元に触れる前には「戻ってくる」と宣言しなければならない、というものだ。異次元にはいろいろな世界があるが、あまりにも美しく調和に満ちた異次元に触れると、三次元の世界に戻りたくなくなる。スピリットフレンドが一緒にいてくれたときは、どんな異次元からでも手をつなぎ簡単に戻って来られたが、今ではときどき難しくなることがあった。
正直に言えば、スピリットフレンドのいない現実世界にあまり興味がなくなっていたのだろう。伊那の中には「もうこの世界には戻ってきたくない」という思いが芽生えていた。
うっかりなのか、意図的なのか、その日伊那は「戻ってくる」という宣言をしなかった。
うっとりと数字の螺旋に身をまかせ、天使たちの歌声を聴いているうちに、伊那は恍惚の境地に入っていった。このまますべてを忘れていい。スピリットフレンドのいない世界には何の興味もない。私はこの螺旋の渦の中に溶けてしまおう。眠りに落ちるように、伊那の意識は溶けていった。
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