第22話 伊那 21歳 ロウの舞台

 初めてロウが出演するオペラを見たのはオペラ・バスティーユだ。演目はプッチーニのトスカだった。だが、ロウの声質ではトスカの恋人、カヴァラドッシを演じることはない。演じるのはトスカとカヴァラドッシを引き裂いたうえで、トスカを自分のものにしようとする仇役、スカルピアだ。

 ロウは「最初にスカルピアを見せるのは気がすすまない」とは言っていたが、オペラ・バスティーユでの演目がトスカだったのだ。伊那はトスカのストーリーを読んで、ロウが演じる役どころを理解したが、舞台というのはそういうものだと思い、深く考えずに舞台を観に行った。

 マントを翻して颯爽と登場し、力強い声で歌い始めたロウの立ち姿の美しさに、伊那は胸が高鳴ったが、よかったのはそこまでだった。


 物語と、ロウの歌声と、ロウの演技と、ロウが舞台に広げていく感情の波が、伊那の中のプライベートの感情を容赦なく揺さぶった。これはただの舞台だ、と何度も自分に言い聞かせるのだが、理性でどう言い聞かせても、心が揺れることを止めることはできない。スカルピアの黒い企みは苦しく、スカルピアがトスカに寄せる恋に悲しみ、スカルピアがトスカに冷淡な扱いを受けると傷つき、スカルピアがトスカに刺殺されるところはまるで自分が刺されたように息が止まった。伊那は途中から本当にぐったりして、頭がガンガンし、吐き気までしてきた。スカルピアが死んだ後、舞台がどうなったのかもよく覚えていない。

 舞台が終わればすぐに家に帰り、ロウが帰ってくるまでになんとか気をおちつけようと、お茶を飲んだり、シャワーを浴びたり、お香を焚いたり、読書をしようとしたり、いろいろやってはみたが、自分の中で波立ってしまった感情をどうすることもできない。自分のなかから、喜怒哀楽すべての感情があふれだして、体が震えるのだ。まるで自分が見えないナイフでズタズタにされたかのようだ。でも、どうして自分がそういう状態になってしまったのか、自分でもわからない。ロウが帰ってきたら、どう説明したらいいのだろう。いったい、どんな顔してロウを迎えればいいのだろう。


 数時間遅れて、舞台を終えたロウが帰ってくる。ロウは蒼白な顔をして震えている伊那を見て仰天した。

「イナ、いったい何があったんだ?!」

 ロウは、伊那がただ自分の舞台を観ただけでそうなったとは思いもよらなかった。舞台のあとで、何か伊那に事件が起こったと思ったのだ。

 ところが逆に伊那は、ロウの顔をみた瞬間、さっきまでの苦痛がすべてさーっと立ち消えていき、なくなってしまった。ロウの心配そうな声を聞いただけで、元通りになってしまったのだ。

 伊那は茫然としたが、ロウもわけがわからないながらにほっとしていた。


 結局、何だったんだろう。今まで舞台を観て、そんな状態になったことはない。違うのは、舞台にいる役者が他人なのか、恋人なのか、という違いだけだ。ロウが演じている役柄の感情があまりにもストレートに伝わって、疲弊してしまったのだ。だが、いまロウの顔を見ていると、舞台にいたロウは、ただ演じていただけだということはわかる。ロウが舞台で放出するエネルギーを、プライベートの空間で受け取ったということだろうか。ロウの舞台の感情に巻き込まれてしまったのだ。


 伊那は、本当のことを言っていいのだろうか、ロウはどう感じるだろうと心配しながら、ごまかすこともできず、舞台を観てからの自分の状態をロウに話した。

「なるほど・・・」

 ロウは大きく息をついた。

「私はまた、こんな仇役はイナが嫌がるかな、とそこを心配していたよ。イナはいつも予想がつかない」


 最初に観たものが悪かっただろう、伊那はあまりロウの舞台が観たいとは思わなくなった。仇役は観ているとどっと疲れる、逆に恋人役で他の女性とラブシーンをしているところを観たいわけでもない、英雄の役で運命に負けて死を迎えるのも嫌だ、結局、ほとんど観たい舞台はなかった。家でロウの歌声を聴いているほうがよっぽどいい、と思った。

 ロウは「やっぱりトスカを観せるんじゃなかったな」と苦笑いしていたが、かといって、伊那があまり舞台を観にこないことをそんなに気にしている風でもなかった。俳優の妻や恋人が、決して舞台を観にこないということはあるらしい。自分以外にもそういう女性がいると知って、伊那はちょっとほっとした。


 自己主張が必要なフランスに住んでいるせいか、声を仕事にしているせいか、ロウはともかくおしゃべりだった。夕食のときなどは、料理を一緒にすることもあるが、料理のときから、その料理にまつわる蘊蓄やら、その料理にまつわる過去の思い出話やら、その料理を食べたレストランやシェフの話など、ずっと話している。夕食の最中も、あれこれと音楽の話題、伊那の大学や数学の話題、気になっている時事問題などを伊那に振ってくる。

 伊那はロウのようにあちこちの国へ行っているわけではないし、単純に人生経験としてわからないこともあるのだが、ロウはあくまで対等に伊那を扱っていた。だから、伊那はロウに尋ねられるたび、大急ぎで自分が漠然と感じていたことを言葉としてまとめなくてはならない。

 しかも、ロウの意見には曖昧なところがない。伊那が曖昧な意見を言うと、どこまでも結論が出るまで「それはどういう意味で言っているの?」「それは〇〇っていうこと?」「〇〇と▼▼は違うの?」と延々と質問が続く。まるでディスカッションの練習みたい、と伊那は思った。ロウの日本語は完璧だが、そういうとき、やっぱり外国の人だな、と伊那は感じていた。ロウのおかげか、いつのまにか伊那もフランスの地で主張ができるようになっていた。

 ロウは、「この国は才能を持って立ち向かえば応えてくれる国だ。ただし、フランス人に口喧嘩で勝てるフランス語が必須条件。語学力だけじゃなく、強さと図太さがいる」そんな風に言っていた。たしかに、どんなに語学力だけを上達させてみても、それだけではフランス人に口喧嘩で勝てない。迫力と強さは必須だった。


 ヤドヴィカはもちろん、ふたりの恋を祝福してくれた。そんなヤドヴィカにも恋人ができた。伊那は最初にヤドヴィカが恋人を紹介してくれたとき、恋人の顔を見てあっと驚いた。伊那がヤドヴィカの隣にいて、ヤドヴィカの「Non!」のあまりの冷酷さに思わずヤドヴィカをたしなめた、その男性だったからだ。たしかあのとき、ヤドヴィカにどこか一緒に行かないか、と声をかけに来ていたはずだ。この人、あんなに冷たくされてもめげなかったんだわ、と妙なところでその男性に感心した。


 その男性、レイモンもそのときのことを覚えていた。レイモンは、学年は伊那とヤドヴィカより二つ上だったが、年齢はヤドヴィカより二つ下だった。

 ヤドヴィカを通じて親しくなってから、レイモンがそのときのことを持ち出した。

「あのとき、僕じゃなくてイナのほうがフラれたみたいに蒼白な顔をしていたよ」

 レイモンはそう言った。たしかにいつも穏やかなヤドヴィカのあまりに手厳しい口調に息を呑んだことは覚えている。

「イナのことはよく知らなかったけど、ヤドヴィカに何か言ってくれていたし、意外に優しいなと思ったんだ」

 あの頃はヤドヴィカ以外に、いろいろおしゃべりする相手もいなかったな、と伊那は思い出した。今では大学の中でも、話し相手に困ることはない。二年前はフランス語がまだ流暢ではなかったとはいえ、ヤドヴィカがいなければ、誰とも口をきかなかった。そんな伊那にまわりも困惑していたのだと今ならわかる。

「あんなに冷たくされてめげなかったの?」

 伊那はずっと気になっていたことを聞いてみた。

「あれくらい平気さ。あの頃のヤドヴィカは勉強優先だっただけで、僕のことをよくわかっているわけではないし、恋愛を拒否していたけど、僕を拒否しているわけじゃなかったからね」

 よくそんなに前向きに捉えられるな、と伊那は半ばあきれ、半ば感心した。でもたしかにヤドヴィカは勉強に集中していて、自分に言い寄る男性たちを迷惑としか思っていなかった。相手が誰であっても同じ対応だった。レイモンの分析はあたっている。

「ポーランドに恋人がいる可能性は考えたけれど、しょっちゅう会う関係のほうが有利だろう?」

 やっぱりこの国の男性ってタフだなぁと伊那は改めて思った。魅力的なフランスの女性たちは、男性から情熱的なアプローチを受けることに慣れている。その気がなければ、おそろしいほどバッサリ切り捨てる。男性たちは、口説きたい相手に多少拒否されたとしても、めげずにアプローチし続けないと、恋の勝者にはなれないらしい。


 どういうわけか、最近の伊那はフランスの男性によくモテる。二年前はヤドヴィカと一緒にいても、口説かれるのはヤドヴィカだけだったのだが、最近は違う。フランスの男性は口説くとき、日本の男性のように距離をもって丁寧に接したりしない。真正面から全身全霊でぶつかってくる。迷惑になってはいけないという自制がなければ、断られるかもしれないという気の弱さもない。伊那はヤドヴィカの真似をして必死でNonと言ってみるのだが、なぜか伊那の「Non!」は一向に通用しない。

 恋人がいる、と言ったところで、そんなことでは一歩も引いてくれないのがフランスの男性たちだ。「魅力的な女性に恋人がいるのは当り前さ」と言われ、まったく同じ情熱をもって口説いてくる。日本の男性だったら引き下がってくれるのに・・・と思うが、ここは日本じゃない。


 困っていると、たいていはヤドヴィカか、最近はレイモンも一緒になって防波堤になってくれている。ふたりとも、伊那の不器用さを笑いながらかばってくれた。

「イナ、フランス男の言うことをいちいち真にうけちゃダメだよ」

 と、レイモンは自分もフランス男性なのにそんなことを言った。

「イナがいちいち動揺するから、相手は脈があると思うんだ」

 伊那は、動揺しているつもりはないけど、と思ったが、やっぱり動揺しているのかもしれない。ロウは豊かに愛情表現をしてくれていたが、東洋人のせいか、それとも年齢のせいか、フランス男性のような熱量はなかった。それでも、伊那はロウを愛していたし、ロウ以外に心が動くことはなかった。


 数学者は、一生かかってひとつの命題を解くことが多いためなのか、一生一人の人を愛する人が多い。有名な数学者の伝記を読んでも、ほとんどは生涯かけて一人の人だけを愛している。そして、最初に愛した人と結ばれなければ、そのまま独身であることが多い。数学科の学生同士で、数学者は粘着質なんだよ、と笑い話にすることもある。一生の間に、多数の異性と浮名を流すことが多い音楽家とは対照的だ。多種多様な美しい音楽たちに囲まれて、どれがもっとも美しい音楽なのだろうと迷う音楽家たちは、自然に多情になるのかもしれない。

 もしも年齢差が逆であったら、そもそも恋は成立しないか、成立したとしても、あっという間に若い歌手は心変わりして、数学者のもとから去っていってしまうだろう・・・。一途な数学者と多情な音楽家、恋人の心変わりを心配しなければいけないのは私のほうだわ、と伊那は思っていた。

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