エピローグ 「恋人だから」
またこの友人の執務室でお茶を飲める日が来るとは、魔王と対峙したあの日には考えられなかった。
「本当に消えているな」
シェノンが見せた首元を、エトはしげしげと見た。
白い首を囲むようにあった魔王の祝福の印はなくなっていた。
「代わりに違う印がついているが、これが聖王との契約の証か」
エトは、シェノンが魔王を葬るために何をし、そのシェノンを取り戻すためにレナルドが何をしたか、レナルドから聞いているようだ。
あの日から七日経っているのだ。
「ええ……レナルドが、聖王に頼んだんだって」
あの日、魔王の契約と聖王への祈りでこの世から去ろうとしていたシェノンを繋ぎとめたのはレナルドだった。
彼は聖王に、シェノンを魔王の影響から救い出し、死なせないことを望んだ。
シェノンからの聖王への祈りの成就が止まるのはそれが聞き入れられたからだろうが、魔王との契約は普通は聖王でも一方的に上書きすることは難しい。
魔王が聖王の民であるシェノンの全てを無断で自らのものとすることができなかったように。
けれどシェノンは聖王にその身をゆだねていたから、聖王はシェノンを再び自らの民とした。
もっとも、手段は相当強引で、祝福を与えた人間の願いをどうにか叶えたようだけれど。
魔王の民から聖王の民へ。戻った証に首には一つだけ太陽を模した印がついていた。もしかするとラザルの体のどこかにもついていたのかもしれない。
「ということは今後、例の魔術をかけることはもうないか?」
「そうね。瘴気も呪いも引き受けることはできないだろうけど」
「聖教会とレナルドの仕事だ。レナルドに責任をとってもらうとでも思えばいいではないか。──これを機に昇級する気はあるか?」
あまりに縁のなかった問いが突然されたこともあって、シェノンは紫の目を何度も瞬く。
「今回の件で魔王の呪縛から解き放たれた、ということになっている。魔王の祝福の印を見たことがある者はなくなったことで納得し、その他の人間はそれらの人間の言葉で信じていくだろう。どうだ?」
「かん、がえておくけど、静かな職場のままの方が気楽かも……」
他の魔術師も対応に困るだろうが、シェノンも戸惑うに違いない。
「どういう選択でも構わない。──もうおまえに絶対的な重りはついていないのだから」
シェノンが賢者として迎えられてから教育係としてシェノンを見てきた男は、友人としてそして兄のような眼差しでシェノンを見ていた。
今日はエトとの魔術契約を解消しに来たので、魔術城ですることはない。
一緒に帰ると約束したので、レナルドを待つことにした。人気のない庭の木陰のベンチに座って、風に揺れる花を眺める。
今日は周囲の視線がシェノンの様子を窺うもので、これまでとは違ってなんだか疲れた。
今回、レナルドは正真正銘四百年前の再現をし、魔王を討伐した。そして聖王の民でありながら魔王の祝福を受けていたシェノンを救った、とされている。賢者会のシナリオのようだ。ラザルは魔王信仰者に利用され、最後は魔狼に食われたことにされた。
「……現実じゃないみたい」
魔王の祝福の証がこの身から消える日が来るとは思っていなかった。ついこの間まで、魔王の復活に怯えていたのだ。
シェノンはしっとりと湿った雨上がりの風を感じながら、目を閉じた。
そうして本当に少し眠っていたか、単に夢と現実の狭間をうつらうつらとさ迷っていたのか。
「シェノン」
呼ばれて、シェノンの意識は現実に傾いた。
「こんなところで寝たら、風邪引くぞ」
待ち人が来たので立ち上がろうかとシェノンが考える前に、レナルドが隣に座った。
「シェノンは、花が好きか?」
レナルドは目の前の花壇に目を向けていた。
「魔国には咲いていなかったから」
「そうなのか」
少しの間静寂が流れ、不意にレナルドがシェノンの肩を抱き寄せた。
「二度と魔王には渡さない」
外での堂々としたスキンシップに、シェノンは抗議しようとしたが、誓うように真剣な声にその気を削がれた。
「……そうして」
シェノンがレナルドにもたれかかると、レナルドはよりシェノンを引き寄せた。
「俺の魂とつないだからには、もう俺と生きて、俺と死んでもらうことになったけどな。もうこの百年以内にでもあいつが生き返らない限り、シェノンが巡り合うこともない」
俺もシェノンも寿命で勝ち逃げだ、とレナルドは言った。
聖王がシェノンを繋ぎとめた手段は相当強引だった。というのもシェノンは魔王の契約と聖王の制約との間で死に片足を突っ込んでいたのだ。
そこで、聖王はその場にいたレナルドの魂とくずれかけのシェノンの魂を繋ぐことで、聖王の民としての存在を安定させたという。
「聖王様もさぞかし呆れたでしょうね。魔王との契約を上書きさせて、私を繋ぎ止めさせて、わがまま放題しすぎ」
「自分が聖王の民として巡らせたラザル・フロストの件と、兄である魔王のことで責任感じてるみたいだからとんとんだろ」
「聖王をそんな扱いできるのあなただけね」
呆れ半分で笑っていると、レナルドがぽつりとつぶやく。
「どうしても、失いたくなかったんだ。聖王に見放されて祝福がなくなったとしても、シェノンは失いたくなかった。……俺は、シェノンがいない世界で生きていくことを想像できない」
この国の民のみならず、周辺国すら救世主と讃える存在。そんな彼がこれほど脆い面を持ち合わせているとは思わないだろう。
シェノンは黙ってレナルドの頭を撫でた。
レナルドは猫のように気持ちよさそうに目を細めた。
「なあ、結婚するか?」
「なによ急に」
「全然急じゃない。シェノンが起きる前からそう思ってたし、契約にも入れたぞ」
レナルドの手がシェノンの手を絡めとり、指の間をなぞるように、深く指を絡める。
「指輪渡したら、ここにつけてくれるか?」
左手薬指を撫で、レナルドがシェノンを覗き込む。
不意を突かれた。結婚という言葉は確かに契約に含まれていたけれど、その条件が満たされることはないと思っていた。
けれどそれが今現実味を帯びてきて、シェノンはそれが意味するところを理解するのに時間を要し、口を開き損ねる。
その間に、レナルドが言葉を重ねる。
「一生愛してる。だから、家族になってくれ」
また、不意を突かれた。いや、さっきよりもっとだった。
──家族。
シェノンの胸が熱くなった。予期せず泣きそうな感覚がして、シェノンはとっさに目の前の顔を他所に向けさせた。
「シェノン?」
黙ってて。シェノンが気がつかれないために言おうとした強気な言葉は、喉から出てくれなかった。
──一生
かつて、一生をある男の側に縛り付けられた。
生きていた間苦しかった。五感全てで感じること全てが不快で、そのまま死んだ。
お前は一生自分の側にいるのだと言われ、最後には殺されたのだ。
呪いのような言葉だった。
それが今、塗り替えられる。
「顔、見せて」
「……嫌だ」
「返事くれるか?」
「……あなたは人を急かしすぎ」
「待ってたらくれるか?」
「……待ってたらね」
じゃあ待ってる、と珍しく素直にレナルドは引き下がった。
レナルドはシェノンを抱き寄せ直し、頭に頬をつけてもたれかかる。
「それと、このまま一緒に暮らすだろ?」
「今すでに一緒に暮らしてるようなものだけど。結局私、そんなに自分の家に帰ってないし」
「明確な言葉があるのとないのとじゃ雲泥の差だ」
「引っ越しとか面倒」
「俺がやるから」
「なんで私の引っ越しをレナルドがやるのよ」
「恋人だから」
レナルドがちらっとシェノンを見下ろす。
「顔赤くなった」
「……放っておいて、慣れないんだから」
「可愛いな」
「可愛いって言うな」
慣れない形容だ。レナルドくらいしか言わないので、シェノンは彼の目がどうかしているのではないかと思う。
「帰るよ」
シェノンは今度こそ立ち上がって、不服そうな顔をするレナルドを促す。
そのまま先に歩き始めかけて、シェノンは先ほどのレナルドの言葉を思い返す。
明確な言葉、か。
「──ねえ」
思い付いたことがあって、シェノンはレナルドを振り返って声をかけた。
「好きだって、言ったかな」
レナルドは、驚いた顔をした。
今までに見たことのないくらいの驚き顔だったので、言ったこと以上に何となく満足して、シェノンは笑って先に歩き始めた。
しかし腕を引かれて、振り向かせられた。
「もう一回言ってくれ」
そう言ったくせに、レナルドはキスをして、シェノンの口を塞いできた。
シェノンの誤算~聖王の祝福を受けし騎士は、魔王の魔術師だけをご所望です~ 久浪 @007abc
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