6 「レインズ公爵家としてどうなの」





 なぜこんなことになっているのか。シェノンは暗い部屋で、天井を見上げて遠い目をする。

 どうしてレナルドの横で寝ることになったのか。それは当然自分が折れたからだ。

 効果がなければ魔術をかけ直すと条件をつけ、今に至る。

 悪夢は魔王の象徴と言っても、聖王のお膝元である首都で民が悪夢を見たところで、迷信的に言われるくらいだ。

 シェノンは魔王の祝福という魔王とのつながりがあるため、本当に魔王の影響であると考えられているだけで、実際魔王のせいで見ているのには違いないが夢なんて結局心意的なものだ。

 一晩くらいなら眠気なんて大したことはないから、起きて一夜を明かせばいい。


「……レナルドと寝るより、聖教会で神官と寝た方がまだ信憑性がある気がする」


 聖王の祝福云々は抜きで、完全に最近の日頃の行いからすると、そう思える。

 嫌味半分本音半分で、一人で納得していたら、隣から伸びて来た腕がシェノンを囲った。


「……ちょっと」

「前言撤回する」

「何の前言撤回?」

「何もしないっていうの」


 間近で聞いた言葉にシェノンは軽く絶句する。


「ほん、とうにたちが悪い」

「たち悪いのはシェノンだろ」


 はあ?と、心底そんな顔をして、シェノンは横になったままレナルドを見た。

 暗い中ずっと目を開いていたので、暗い中でもうっすらとレナルドの顔が見える。

 レナルドは大層不服そうな顔をしていた。


「好きな女が他の奴と寝るって言って嫉妬しない奴なんているのか?」


 目が合った瞬間、レナルドの指がするりとシェノンの顔に触れた。


「──やめて」


 シェノンは、レナルドの手を払う。


「一旦そういうの言うのやめて」

「どうして」

「ただでさえ、今日あなたが言うことがことごとく処理しきれてないの」


 今日は処理しきれないことがこれでもかというほど積み重なった。夜にようやく頭を整理する時間ができなければ、いつすればいいのだ。切実にやめてほしい。

 シェノンが明確に拒否すると、レナルドはぱち、ぱち、と大きく瞬く。

 そして、なぜか口が弧を描いた。

 どうしてここで笑うのか。シェノンは戸惑う。


「俺のこと、少しは意識してくれてるってことだな?」


 数秒、シェノンはぽかんとした。

 直後、そんなわけあるか、とあげかけた声は不発に終わる。

 体を引き寄せられて、レナルドの胸に顔が当たったためだ。


「じゃあ今日はこれで我慢する」

「だから無駄にくっつかないでって」

「言うのをやめろしか言われてなかった。追加注文は聞かない」


 違うでしょ、最初の約束が隣で寝てるだけだったでしょ。

 聞く耳を持ちやしない。腕もほどけないのが絶妙に腹が立つ。

 レナルドが寝るのを待って、抜ける他ないのか。何だってそんなことをしなければならないのか。

 悪夢は魔王の象徴だと言われても、ただの迷信だ。聖王の祝福で打ち破れるようなものではなく、精神的な部分から来ているものに過ぎない。

 だからどうせこんなことで改善されるはずがないのだから、レナルドがどんな顔をしようとあしらえば、よか、った…………。

 シェノンのその夜の記憶は、そこまでだった。



 *



 出会った時からその目の色を、綺麗だと思っていた。

 一見彼の父親の目の色と一緒に見えて、陽に当たるともっと澄んだ色をするところは母親から継いだのか、本人が黙っていればいつでも見ていられるなと思ったときもある。


「おはよう」


 目の前にある顔を、シェノンはぼんやりしたまま唐突にがしっと掴んだ。


「シェノン?」


 もごもごと、手のひらの向こう側で何か言っている。


「いたい?」

「若干な」

「じゃあ、ゆめ、じゃ、ない……や、私は元々、こんな平和なゆめなんてみれない……」

「夢? 眠れたか?」

「……うん……」

「嫌な夢は見たか?」

「……ううん」

「本当か?」

「……うん?」


 シェノンは目を閉じて、開く。

 もう一回。閉じて、開く。

 そして、目の前にある顔を明確に認識する。


「レナルド」


 一回離した手の向こう、目の前にレナルドの顔があった。

 何度も瞬くシェノンを見て、レナルドは嬉しそうに笑い手を伸ばし、丁寧にシェノンの顔にかかる黒髪を避けた。そのまま頭を柔く撫でる。


「おはよう、シェノン。眠れたんだな」

「……」

「寝ぼけてるか? なんか、可愛いな」

「……」

「魘されてもなかったみたいだから良かった──シェノン?」


 シェノンは目の前の顔を掴み直し、手に力を入れた。


「シェノン、痛い」

「どうせ痛くないでしょ」

「あはは」


 子供のように笑うレナルドをよそに、ようやく覚醒したシェノンは混乱していた。


「……うそでしょ」


 疲労は溜まってない、ということは寝ていたのだ。

 でも、夢を見なかったなんて、初めてだった。

 生まれてからずっと悪夢を見続けた。見たくもない夢は必ずやって来た。


「まさかのレナルド、安眠護符説……?」


 聖教会の護符でも駄目だったのに、まさか、聖王の祝福にそんな効果があると言うのか。

 シェノンは信じられない思いで手をおそるおそる取って、レナルドをまじまじと見た。

 対してレナルドは、勝ち誇った笑みを浮かべた。


「これから俺と寝ること決定な」


 レナルドは心底機嫌良さそうにしている。


「……どうしてよ」

「効果なかったらやめるっていう約束だっただろ」


 その通りなので、ぐうの音も出ない。

 寝起きでろくに頭も回らず、シェノンは寝返りを打って天井を見上げる。


「魔術かけ直さなくて済むならその方がいいよな?」


 確かに、安眠できるのは悪くない。悪くはないが……。

 シェノンはぼそりと本音を溢す。


「いや、あなたと寝なければいけないっていう条件は中々嫌な方なんだけど。そもそも一緒に寝るか、一緒に寝なくて嫌な夢見るか、寝不足になるかって選択肢がまず正気じゃないと思う」


 魔術をかけ直す選択肢を奪われると、選択肢があまりにシェノン寄りではなさすぎないだろうか。

 シェノンは不満を全面に出す。


「素直に俺と寝ればいい」

「……百歩譲ってあなたが単なる安眠護符ならいいけど」

「安眠護符?」

「昨日堂々と最初の約束破ったでしょ」

「あれはシェノンが煽るからだろ」

「私がいつ?」

「他の奴と一緒に寝て試すって」

「それ? どこが煽ってるの。神官って言っても女性もいる」

「言っただろ」


 ぐいっと肩を掴まれ、体を反転させられて、レナルドと向き合う形になる。


「男でも女でも関係ない」


 レナルドの雰囲気が落ち着いて、と言いたくなるものに様変わりした。

 ただ向き合っているだけで、これほど圧を感じる日が来るとは。


「でも公爵家の跡取りと同衾する方が色々問題でしょ」


 シェノンは肩を掴むレナルドの手を掴む。予想より、あっさりレナルドの手は離れてくれたと思ったら、レナルドの方から手を握られる。


「どこが」

「もしも外部に漏れたら、私とレナルドが不適切な関係だとか噂が流れる可能性なんて十分あるんだから」

「それのどこが問題だ?」


 レナルドは、自らの手の中にある白く細い手に指を絡ませる。

 そんな風な触れ合いに疎いシェノンの頬が、さっと赤くなる。


「シェノンが俺と結婚すれば問題も何もないだろ。『不適切な関係』は『適切な関係』でしかないんだから」

「な──」

「好きだっていうのが、一時的な関係を望んでのことだと思ってないよな?」


 いや、一種の気の迷いだと思っているけれど。シェノンがそう言える雰囲気ではなかった。


「受け入れてくれるまで手は出さない。でも、逃がさないから覚悟しろよ」


 絡めた指に、レナルドは口づけを落とした。



 着替えて朝食の席に連れていかれる途中で、昨日はゆったり見る暇もなかった八年ぶりの邸内を眺める。

 大貴族らしく、壁紙から廊下、調度品まで全てが一級品。むやみやたらに主張しない内装は、主の趣味の良さをうかがわせる。

 そんな古くも質のいいもののみかと思いきや、邸内の調度品には、灯りを始め最新の魔術具が混ざっている。

 シェノンの記憶の限りでは邸の防犯にも魔術が使用されており、レインズ邸の使用人の半分は魔術師だ。そういう面からも、魔術大国の大貴族らしい。

 魔術師を本職として雇っている者もいるが、執事やメイドとして魔術師の素養がある者を雇っているところがまるで王宮のようだ。

 シェノンがレナルドの教師として六年頻繁に出入りしていたレインズ邸の雰囲気は変わらずで、知った道順で食堂に行くと、中には昨日は見なかった姿が二つ。

 そのうちの片方、そわそわとしていた男が、レナルドと入ってきたシェノンを見て目を輝かせる。


「シェノン!!」

「ん? ──ああ、ベ」

「おはよう!!」

「うっぐ」


 待ち構えていたらしい男に飛び付かれ、シェノンが踏ん張りきれず後退すると、一緒に入ったレナルドが腕で支えてくれた。今回起きてから初めてレナルドに感謝したかもしれなかった。


「ベルフェ、危ないでしょ」

「あっはっは、すまない。昨日聞いてからずっと待っていたものだから」


 体を引き剥がした男は、何を隠そうこの邸の主──つまりレナルドの父ベルフェ・レインズである。

 銀髪に、青い瞳というレナルドとそっくりの色彩。四十半ばという歳相応の皺を刻み始めた顔は、今なお精悍なものだ。

 シェノンは、奇跡的にも友人関係にある一人との再会に、相変わらずだと口元を緩ませる。


「いつまで引っ付いてるんだよ。離れろ、父さん」


 シェノンを支えた手で引き寄せ、父親をぐいぐいと押して遠ざけ、レナルドはどこか不機嫌を漂わせる。


「八年振りの友との再会だぞ、レナルド」

「『そのうち起きるから』と言ってたなら、普通の挨拶だけで十分だろ」

「……我が息子は余裕がないなぁ」


 シェノンより頭一つ以上背の高い二名が、なぜか頭上で言い合いを始めて、シェノンは呆れ顔でそれを見上げた。


「おはようございます、シェノン」

「あ、ソフィーおはよう」


 ベルフェの後ろから、ひょこっと出てきてのんびりと挨拶してきたのは、レナルドの母ソフィーだった。

 栗色の髪は毛先で緩やかにウェーブを描き、水色の瞳は目尻が下がって優しげな彼女もまた、少し歳をとったようだが、社交界随一の華と言われていたらしい美しさは衰えない。

 この父と母から生まれたのだ。それは抜群の容姿をもった息子が生まれてくる。


「家にお邪魔しているのに挨拶が遅くなってしまって……」

「いいえ、良いのです。レナルドに突然連れて来られて驚いているでしょうし、さすがのあなたもどうにも出来ない部分が出てきているでしょう」

「いやまったくその通りなんだけど、ソフィーがそう言うってことは、八年の間にその片鱗があったっていうこと?」

「それはもう。──それよりシェノン」


 ソフィーがこそこそと顔を近づけてきたので、シェノンも顔を寄せる。


「昨日はレナルドの部屋でお眠りになったということは、レナルドの想いを受け取ってくださったという……」

「は?」


 耳を疑うような誤解に出たシェノンの声は大きかった。

 そもそもこの状況で気がつくべきだったのだ。息子がかつての教師の腰に手を回し密着している状況で、いつまでも子どものようにとか茶化すでもなく、何でもないように受け入れている態度。

 そして、昨夜レナルドの部屋から出なかったことを知っている発言。


「二人とも、知っているの」


 ベルフェとソフィーへの問いかけに、レナルドと口喧嘩していたベルフェもシェノンの方を見た。


「何を?」

「何をです?」


 レインズ夫婦は仲良く揃って首を傾げた。


「レナルドが、私のことを好きだとか言ってること」

「うん」

「はい」


 これまた揃って二人は頷いた。躊躇なく、ああそのことかと軽い感じで。


「すまないなぁ、シェノン。大変だろう。というか、君にとっては何というか突然のことで驚いているだろう」


 ベルフェが同情するような言葉をかけてくる。


「知ってるなら話が早いんだけど、ベルフェ、あなたの息子をどうにかして」

「無理」

「即答しないで」


 もう少し考えてよとシェノンは苦情を言う。


「私が魔術をかけ直すっていうのを魔術解いてくるし、これ見て。本来罪人用の魔術具。範囲はこの邸内程度でここに住めって言うんだけど? ──それから」


 ここぞとばかりに告げ口しまくっていたところで、シェノンは一つ絶対的に訂正しなければならない事柄を思い出し、ソフィーを真っ直ぐ見る。


「ソフィー、言っておくけど私は昨日賭けでレナルドと同じベッドで寝てただけで、何もなかった。受け入れてもない」

「まあ、そうなのですか……」


 ソフィーが残念そうな目で見てくるので、シェノンの方が戸惑う。


「……二人共、それを受け入れていいの……?」


 心底疑問で仕方ない、という風なシェノンに、レインズ夫婦は目を見合わせて、それからまたもや揃って頷く。


「レインズ公爵家としてどうなの」

「別にこの家がどうこうなど構わない。レインズの公爵位は私が王弟としてもらったものであり、別に歴史ある家でもないし」

「軽すぎだと思うの私だけ?」


 自分の方がこの場で少数派ということが信じられず、シェノンはどうしようもなく戸惑いながらソフィーの考えはと目で問う。


「好きな人と一緒になれることほど幸せなことはありません。貴族には家の立場によって政略結婚が結ばれることが多いですが、幸い、この家がどう転ぼうとレナルドは自身で唯一無二の立場を築いていますから、レナルドの将来にも何ら影響はないと思います」


 ソフィーもまた、おっとりと言いきってくる。反対なし、と。

 代えの効かない聖王の祝福を受けし者。ある意味、国の王よりも死んでは困るような存在はまさに唯一無二。レナルドの持つ力の価値は一生暴落することはない。


「だからもっと悪くない? 私が魔王の祝福を受けてるって知ってるよね」


 だから多くの魔術師や聖教会に嫌われている。

 レナルドがその影響を受けてもいいのかと問うと、ベルフェは可笑しそうに笑った。


「それを言うなら、昔レナルドの家庭教師を頼んだときに言わないと」

「いや言ったでしょ。正気?って」

「じゃあどのみちだよ。私たちにとっては。大体レナルド自身の立場はさっきソフィーが言ったように、レナルドの持つ力で絶対揺るがないから問題ない」


 ねえ、と妻に同意を求めて、ベルフェが朗らかに微笑むものだから手に負えない。


「──レナルドもレナルドよ。そもそもどこに私なんかを好きになるときがあったっていうの」


 対等な友人関係を築ける可能性があるとは、前例ができたので分かっている。

 しかし、レナルドのそれは予想を遥かに上回った。雰囲気に飲まれて言えなかったが、気の迷いという可能性を考えたい。聞いて、それは勘違いだと指摘してやる。

 すると、レナルドは少し考える素振りのあとに口を開く。


「初めて会ったときから俺にびびらないし、馬鹿みたいに神聖視しないし、強いし、容赦ないというか俺の扱いが雑でさえあるのが新鮮だったし、純粋に誉めてくれたし、普通に遊びとか付き合ってくれたし、最初そんなに笑わなかったのに、笑わせられるとびっくりして優越感だったのが嬉しくなってきて今じゃ可愛く見えるし、顔も好きだ。その他のところが好きになってから顔も好きだってなったかもしれない。と言うか好みがシェ──」

「一回黙って」


 予想外に羞恥が襲ってきて、聞いていられなくなって反射的に手が出ていた。

 口を物理的に塞いだシェノンの手を、レナルドが容赦なく引き剥がす。


「そっちが聞いてきたんだから、最後まで聞けよ」

「この馬鹿力」


 捕まったが最後、手の自由を奪われる。

 口も塞げず、自らの耳も塞げず、物理的に捕まっていない視線すら逸らすことを青い瞳が許さない。


「全部好きだ。頭から、爪先まで。髪の色も目の色も、唇の形も、声も、全部。いてくれるだけで嬉しいが、目に映されて、名前を呼ばれると震えるほど嬉しい」


 シェノンは警告にレナルドと呼びかけた口を思わず閉じた。迂闊に口も開けない。


「極力、俺以外の奴を目に入れてくれるなよ。八年声も聞けなくて、見てもらえなかったっていうのに、他人に時間を奪われてるだけで許せそうにないんだからな」


 その言葉全てが信じ難く、そこでようやくシェノンは目を逸らすことに成功した。

 見た先は、友にして、八年経って態度が様変わりした男の父。


「あなたの息子、本当にこれでいいの」

「まあ、拗らせるとこうなる」

「ならないでしょ」


 そうだとすれば時間を無駄にしている。息子の行き先を心配して見合いくらい仕込んだらどうなのだ。こんな自分なんかを──


「言った側から誰見てんだよ」

「いや、ベルフェはいいでしょ。あなたの親だし、既婚者」


 ぐいっと強制的に顔の向きを戻されて、不機嫌な顔と顔を合わせてシェノンは呆れる他ない。


「安心しろレナルド、私は友としてシェノンが好きなだけだからな」

「友情めいた感情が恋情に変わり得ることなんて俺自身で証明してる」


 どうして両親の前でこんなことが出来るのか。シェノンには家族の記憶が薄いのだが、甚だ理解できない。


「シェノンの好みじゃないなら見逃してやるが」


 父親を睨んでいた青い瞳が、ちらっと見下ろしてきたので、シェノンは呆れつつ首を横に振る。


「好みなんてない。私は誰も好きにならないんだから」

「俺は好きになってもらう」


 どうすればまともに話し合いできるというのだろう。一度断ったし、誰も好きにならないと言っているのに。シェノンが遠い目をしていると、その先でベルフェと目が合った。


「シェノン、大変だと思うが、相談には乗る」

「……それ、相談に乗るだけね」


 これまでの付き合いからそう指摘してみせると、友はばれたか、と言うような仕草をした。

 彼らが最後の砦だと思っていたのに。シェノンは内心ため息をついた。


 ──ねえレナルド、私はあなたに限らず、誰のことも好きにならないよ










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