19 「触らないで」
突然、手応えがなくなった。
だが全てが終わり魔術が役割を終えたのではなく、空間の歪みがなくなり、シェノンは予想外の事象に目を見開く。
何が起こったのか理解できない間に、結界の向こうから邪竜がぬるりと出てきた。
結界を壊したのではなく、半透明の幻をただ通り抜けるように結界の外に出てきた邪竜が、眼前に瞬間移動した。
生まれながらに持って生まれた魔術しか使えないはずで、移動にはその翼をもって移動するはずの竜が。
気がつけば、シェノンの目の前に牙が並んだ口がぱかりと開いて、飲み込まんと迫ってくるところだった。
牙は受け止められる。竜の牙の最も脅威である点は、牙にかかった魔術だ。
その魔術に耐性があるシェノンに魔術を受け流すことなど容易く、あとは牙自体は楽に防げる。
シェノンは牙の魔術を相殺する魔術を放ち、身体強化をかけ直し、牙を物理的に折る体勢に入った。
だが、魔術は効かず、牙が腹に沈んだ。
「──がっ」
体に穴を空けられた衝撃と激痛が襲いかかる。
血が口から溢れ出る。
「何、この力」
シェノンは呼吸荒く、問うた。
魔術が効果を為さず、まるで底無し沼に手を突っ込んでいるようだった。
「陛下のお力だ。それにしても、貴様の血は存外美味いな。我の晩餐にしてもいいかもしれん」
腹に牙を刺したまま、竜が喋った。笑いが響き、それだけで激痛が体に走る。
魔王の力? 祝福か? いや、それにしてはこの感覚は、以前、抵抗の術が何もなかったときに似ている──
「っ」
熱い。深手を負った腹も焼けつくように熱いが、それよりもっと首の辺りが熱い。
錯覚ではなく、魔王の祝福の印が何かに呼応するかのように熱をもっている。
魔力を引き出そうとすると、自らの魔力の底の奥にある力が頭を出そうとする。
抵抗しようと魔術を構築しようとしていたシェノンはとっさにやめ、代わりに血濡れた手で手首につけていた細い腕輪を二つ外す。
それらの腕輪は大きな宝石から腕輪を削り出したように、つるりと繋ぎ目のない翡翠色の石の腕輪だったが、今やシェノンの血で真っ赤に染まっていた。
同じく手首にあるレナルドの銀色の腕輪も例外なく。
シェノンの血濡れた手から翡翠色の腕輪が落ち、砕ける。何もシェノンが取り落としたのではない。故意に落とした。
片方は魔術式を刻んだ魔術石で、もう片方は魔力のみを込めた魔術石だった。血濡れていたのはこの状況では好都合でもあった。
血は供物。より強い魔術を使うための契約材料のようなものだ。
「『発動せよ』!!」
血溜まりに落ちた魔術石の破片一つ一つから光が生じると、赤い宝石のような巨大な石が生え、邪竜を飲み込んだ。
シェノンが他の手立てとして用意していた封印だ。もちろん自分ごと封印するつもりはなかったが、ゼロ距離にいたのだ。巻き込まれた。
しかしこれが効くのかと思って、目を動かして見ると、動かない竜の体から出てきた黒い靄が赤い封印の中をぬるりと動いていて、ぞっとする。
それはシェノンに近づいてくる。
あれに触れてはならないと思った。
だが動くには封印対象から離れなければいけない。腹に刺さる牙を溶かすか砕く時間はない。だからといって封印を解くわけにはいかない。
そんなシェノンの判断も、黒い靄も、それらを閉じ込める封印の赤い石自体を、一筋の光が砕いた。
体の動きを封じていたものがなくなり、急にシェノンは自由になる。
腹に刺さっていた牙が抜け、宙に放り出される。自らの血と、砕けた赤い石がきらきらと舞う様を見ながら、シェノンは背中から地面に落ちた。
「この力──まさか、聖剣か」
たじろいだ邪竜の声が聞こえた。
「聖剣……?」
シェノンは血を吐きながら身を起こしたところで、『それ』を目撃した。
伝説曰く、聖剣は神の雷に例えられる。
ちかりと何かが瞬いて、仰いだ空。
曇った空を切り裂き、天から降る一撃はまさに、神の怒りが落ちたかのような光景だった。
雷は、どんな竜よりも強固な邪竜の鱗を貫いた。背から腹の外へ、光が一直線に伸びる。つまり、その道筋にある心臓を貫いたことも意味していた。
雲を裂かれた空から降り注ぐ太陽の光を浴び、ふわりと地に降り立った姿があった。
白金色の髪と、開いた双眸が金色に輝く。神官がここにいれば、思わず聖王と呟いたかもしれなかった。
そんな雰囲気を纏って、レナルドは現れた。
あっさりと事切れた邪竜が地に伏す轟音で我に返るまで、シェノンはつかの間呆気に取られていた。
竜種の王が倒れたことで、ぎゃあぎゃあと他の竜が逃げはじめるが、レナルドが手を振り下ろしただけで、いくつもの雷が竜に落ちる。
その光景を目の当たりにして、シェノンは聖剣とは剣の形をした聖遺物ではないと知った。
レナルドは剣など持っておらず、指にある白い指輪から聖王の力をひしひしと感じる。聖王最大の聖遺物と言われるそれは、呼称に反してとても小さなものだった。
剣と言われるのは、天から降る一撃を例えたものか。最大の聖遺物と言われる所以もよく分かる。
「レナルド、」
振り向いたレナルドの見慣れぬ金色の双眸が、刃を向けるがごとき鋭い視線でシェノンを射抜く。指輪をした人差し指が向けられる。
「──シェノン」
レナルドの鋭い目付きが、驚いたようにぱちぱちと瞬く。
そして、自分が聖遺物をシェノンに向けていると気づいて、はっとした顔をして手を下ろした。
「悪い」
シェノンも聖剣を向けられたような緊張感に驚き、「別にいい」とよく分からない返事をした。けれど、少し、心臓が痛んだ気がした。
レナルドは聖遺物の影響か、金色の瞳のままシェノンの腹の大怪我に目を留める。
「怪我するなって言っただろ!」
怒鳴り声にシェノンは目を丸くする。その間に、レナルドはすぐそこまでやって来た。
「この血の量、どれだけ怪我してんだよ」
「これだけ」
どこか焦ったようにシェノンの全身を見るレナルドに、シェノンは腹を示す。腹から下半身の血は九割自分のものかもしれないが、上半身の血はほとんど竜の血だ。
「『これだけ』が酷すぎる自覚あるのかよ」
竜の巨大な牙で空いた大穴に、レナルドは怒りを感じる声でシェノンを問いただした。
「私だってするつもりはなかった」
「そんなの言い訳にならねえぞ。さっさと止血──」
その手が血だらけの体に触れようとして、シェノンはとっさに手を払おうとしたが、その手も真っ赤だと気がついて、口が動く。
「触らないで」
その一言に、レナルドの動きがぴたりと止まる。
戸惑ったレナルドの様子を見て、シェノンの方もなぜか戸惑う。意識して言おうとした言葉ではなく、無意識に出たものだった。
「いや、……なんか、触っちゃいけない気がした」
でも、たぶん、レナルドにあまりに清廉な力を感じて、あまりに『穢れ』が似合わない姿に見えたから。
「まあ、その、汚れるでしょ?」
シェノンは自らを見下ろした。竜の血が半分、自分の血が半分だ。どのみち汚れた血には間違いない。
「なんだよそれ」
レナルドは怪訝そうな顔をして、シェノンの動きが鈍っている間にシェノンの顔を捕まえてしまう。血を吐いて真っ赤に染まった顔を拭う。
「そんなつもりがなかったレベルの怪我じゃない。大口だけ叩いて出ていくような性格じゃないだろ、どうしたんだよ」
「……さあ、何だったんだろう」
本当に、ここまでの大怪我をするつもりは一切なかった。
魔術の手応えが失せた感覚を思い出し、シェノンは手のひらを見つめる。魔力は体内を巡っている。魔術が封じられたわけでもない。
魔術は確かに使ったが、無効化された? いや結界を通り抜けたことを思うと……。
そういえば、焼けるように熱かった魔王の祝福の印は、鳴りを潜めていた。
シェノンはごくりと唾を飲み込み、自らに触れているレナルドの手をそっと外した。
「まだ怪我を治してない」
「自分で治せる」
「じゃあさっさと治せよ。シェノンが傷ついてるところなんて俺は見たくない」
「じゃあ見なければいいよ、その内治す。……少し疲れた」
シェノンは、ちらりと事切れた邪竜を盗み見た。
ヴィヴニール。
かつて、山が震えるほどの大声で笑い、人間の身を気遣わず普通であれば背骨が粉々になるほどの力で背を叩いてきた竜。
黒い竜を見るシェノンの目は、そこらを跋扈する魔物たちを見る淡々としたものでもなく、邪魔なものを見る邪険なものでもなく、哀しみを含んでいた。
──確かに自分は、裏切り者だ
──変わったというのもその通りだ
「だから俺が治すって言ってるだろ」
「必要ない」
「今こうしてる間にも血が流れてんだろ、死ぬ気か」
「死なないよ。死ぬ気もない」
しかし放っておくと焦りさえ見えるレナルドが強制的に治しにかかりかねないので、シェノンは治療用に仕込んでいた魔術石を使う。
あっという間に血は止まり、傷も塞がる。
これでいいかと服を捲って穴の塞がった腹を見せると、レナルドは本当に塞がっているのか疑り深い目で見てくる。
変なところで信用がないとその様子を眺めながら、シェノンはぽつりと声をかける。
「……ねえ、レナルド」
──私は、人間だろうか
──私にラザル・フロストに感じたような妙な感覚は抱かない?
──あなたがさっき聖剣を向けたのは、その身で何を感じたから?
「何だよ? 話しかけておいて黙るなよ」
「…………私は、」
──ここで生きるべき『人間』?
そんなことをレナルドに問うてどうする。シェノンが口をつぐみ、そんな様子にレナルドが再度口を開く。
そのとき、わっと遠くからの歓声が聞こえた。
声は、首都の外壁の方からだ。
シェノンが耳を澄ませると、竜を迎え撃つ前の緊張と恐怖はどこへやら、喜びと称賛の声ばかりが口々に叫ばれていた。
「四百年前の再現だ!」
「邪竜は討伐された! 竜たちは恐れをなして逃げていったぞ!」
「聖王の祝福を受ける聖者が私たちを守ってくださる!」
レナルドを称える声だった。
当の本人はそれが聞こえていないはずもないだろうに、神官からの賛辞のように反応するに及ばないものと聞き流しているのか無反応だ。
血を一滴も被らず、聖遺物の影響か淡い光を纏う姿は、さっきまでより眩しく見えた。
聖王の祝福の力を発揮したレナルドから感じる魔力は清廉で、間違っても彼が幼い頃のように雑に頭を撫でに行くようなことは出来ないような。──否、自分から触れることそのものが躊躇われるような。
「少しは誇らしく思ったらどう?」
「シェノンが褒めてくれるならな」
「私は褒めない」
「そんな大怪我してるところを助けたのに?」
「私が頼んだ?」
血まみれの姿で、いつもと変わらない飄々とした態度のシェノンに、レナルドはぐっと言葉が詰まったようだった。
けれど、子供の頃に教師に言い負かされたときのようではなく、大人になったレナルドは複雑な表情を浮かべる。
「──呼べよ」
一言、吐き出された言葉は苦しみに満ちていた。
「どれだけ焦ったと思ってるんだ。腹に穴が空いた姿を見て、どれだけ腹が立ったと思ってるんだ。その怪我負わせた竜だけじゃねえぞ、シェノンにもだ」
レナルドは、怒っていた。怒って、苦しんでいた。そんな顔と声色だった。
「俺は、いつかそうやってシェノンが知らない間にどうしようもない状況になって、死んでいくんじゃないかと思うと──嫌だ」
嫌だ、と酷く率直な拒否に、シェノンは驚きと大きな戸惑いを覚えた。
拒否されたのは、こうあるべきと辿ってきたシェノン・ウォレスの生き方だ。レナルドが生まれるより前から。この身に生まれてから。
「……なんで」というシェノンの呟きは、レナルドに届くことはなかった。
「いたぞ!!」
敵意の表れた声が降って来た。竜の脅威はもう去ったはずなのに。
空から現れた魔術師たちが、次々と近くに着地する。瞬きを何度かした頃には、シェノンはすぐ近くにいるレナルドごと騎士団の魔術師に囲まれていた。
「シェノン・ウォレスを捕えろ!」
魔術師たちが臨戦態勢でシェノンを見据えるのに対し、レナルドが一気に無表情になって周囲を睨む。
「理由は」
レナルドの問いに後ろから出てきたのは、案の定と言うべきか第二騎士団長だった。
「首都内に突然魔狼と魔犬が現れた。首都外壁の魔術は突破されていないとなれば、内部から誰かが魔狼を外から移動させてきた他ない。竜がここを一直線に目指した件と共に『魔王の魔術師』を調査する」
魔狼とは、その呼ばれ方から当然魔族の一種だ。
手下である魔犬を群れで従え、人を襲う。竜ほど力は強くないが、個々にそれなりの力がありながら群れのボスの指示で集団で襲い掛かるため厄介だ。
シェノンは眉を潜める。
「レナルド」
小声でレナルドの意識を引けば、レナルドがすぐに視線を寄越す。
「この後すぐに封印してる魔王の心臓が『本物』か確認して」
「ああ」
それから、と続けようとしたがやめた。
心臓が無事なら、魔族側の目論見は失敗したことになるはずだ。下手にレナルドに言って、何も証拠が出てこなければレナルドの立場に傷をつけることになるだろう。
なので、シェノンは言おうとした言葉を変えて「どうぞ、従いますよ」と手を挙げた。
その拍子に服に染み込んだ血がぼたぼたと落ちる。
「シェノン、従おうとするなよ」
進み出ようとするシェノンを、レナルドが止める。
「なんで。疑うなら真っ先に私。当然」
「竜に殺されかけて、守ってるんだぞ」
「それでも私は『魔王の祝福を受ける者』よ」
こんな事態にもなれば、疑われて当然だとシェノンも納得できるくらいだ。
そんなことをするはずがないと言えるのは、私的に関わっているからで、その性質や契約をもってこの国にいる状態を考えれば疑われるのは無理もないと、レナルドも考えられるはずだ。
「調べても何も出てきようがない」
「それは知ってる。けど、」
「だから変にごねるよりこれが最善。下手にずっと疑われるより、証拠がないという結果を出すことが私にとって一番なの」
確かにそれはそうだとレナルドも思ったのだろう。葛藤しているのが微かに察せられる。
「話する約束忘れてないから心配しないで。あ、でも職権乱用したらなしね」
「……分かってる。でもシェノンが不利になるようなことは防ぐからな」
そんなこともしなくてもいいのに。シェノンは黙って、周囲を取り囲む魔術師に腕を差し出し、魔術封じの拘束具をつけられた。
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