20 『お前は、私のものなのだから』
暗い場所にいた。血のにおいと死がこびりついた空気は重かった。
『なぜだシェノン、なぜ陛下の命に背く? なぜ人間を匿っていた? なぜ陛下を欺いた? 貴様は人間を嫌っていたのではないのか!』
赤い瞳に、細い瞳孔。鋭い牙に、頭には角。背には翼、爪は鋭い。
人間からすれば異形を隠しきれない男が、鉄格子の向こうから食って掛かっていた。
人間に平等に自らに近い形を与えた聖王とは異なり、魔族の中では一握りの強い力を持つ者のみが魔王に近い姿を取ることが許されていた。
そんな邪竜の姿を見ようともせず、鉄格子の内側にいる『人間』は、低い声で言う。
『……人間全てが悪であるわけじゃない。それが分かっただけの話』
『陛下と同じ力を操る貴様をようやく見直したというのに、人間共を屠って初めてその力の意味があるのだぞ! そのために陛下は力を──』
『人間を殺して初めて意味を持つ力なら私はいらない。それなら私は一生おまえたちと分かりあえないままの方がいい。人間を遊びのように殺すおまえとはきっと永遠に分かりあえない。二度と来るな、ヴィヴニール』
邪竜は歯噛みし、唸った。
『やはり陛下の祝福を受けようと人間か、この裏切り者が……!』
裏切り者で結構だ。やはり分かり合えないのだと、『人間』もまた低く言い返そうとした。
『黙れ、ヴィヴニール』
びくりと震え、口を閉じたのは名指しされた邪竜のみならず、『人間』の方もだった。
牢の右手から、暗い場をさらに飲み込む雰囲気を纏い、現れた存在がいた。
長い黒紫の髪に、見る者を引きずり込みそうな底の見えない銀色の目。彫刻のごとく美しくも冷たい容貌は、この世のものではないと思わせる人外の美貌だ。
一人の男の様相をしたその存在は、自らの配下である邪竜に冴え冴えとした視線を向けた。
『私の愛し子を貶めるなと言ったはずだ』
『──っ、ですが、陛下。シェノンは最早人間の肩を持つ我々の敵と言え、陛下を欺いた罪は死をもって償うべき──』
『私のものの生死を、なぜお前が決める』
瞳にどろりとした重い感情が宿った瞬間、ずん、と空気が重くなり、その場に圧迫感を与えた。それに耐えきれず、邪竜がその場に崩れ落ちた。
『で、ですが陛下……』
『まだ言うか』
『陛下、失礼ながら』
背後で恭しく礼をする者に、銀色の視線がわずかに移る。それを黙認と捉え、声が慎重に続ける。
『ヴィヴニール殿は陛下に歯向かう者は許さぬという魔族の当然の意識しか持たず、陛下のお気に入りということを考慮できぬだけの忠臣なのです。ここは私がヴィヴニール殿をこの場より退けますので、陛下はどうぞ御用を……』
少しの沈黙のあと、銀色の目が自らの眷属から意識を逸らした。
まるで、空気と化してなくなったかのように。
そして、この場には自らと牢の中の存在しかいないかのように。
視界の端で滑らかな黒衣が揺れるが、牢の中の『人間』は顔を上げようとはしなかった。
牢の中の『人間』は、邪竜を引きずり去っていく者の灰色の瞳と目が合った。灰色の瞳の瞳孔が獣特有のそれで細められ、にやと笑った。
『シェノン、私を見ずに、誰を見ている?』
聞いた者を絶望させかねない低い声に、邪竜を運んでいた男が焦った様子で走り出す。
しかし、牢の中の『人間』は、再び空気が重く、圧迫感の増した場から逃れられない。
糸で操られたように、勝手に体が動き、顔を上げさせられ、明るい色とは裏腹に闇の底のような目と視線が合う。
『少しは頭が冷えたか?』
『……頭なんて、とっくに冷えてる』
『ならば二度と愚かな真似はしないと誓えるな?』
『その愚かな真似が、戦意なんてない人間の国を攻め、怯えるだけの人間を殺す行為に抗うことだとすれば、誓えない』
紫の目で、銀の目を睨み返し、『人間』は死を覚悟しながら続ける。
『私は、もうおまえには従わない。私は人間として生きるために、必ず
『……そのような未来は来ない』
突然、牢を牢足らしめる鉄格子が消え去った。
音もなく、何の痕跡もなく、なくなった。
仕切りのなくなった牢に、先程まで牢の外側にいた男が中に足を踏み入れる。
そして、『人間』の元に至り、首を掴み上げた。
『お前は、私のものなのだから』
囁く声は、甘美なようで、ぞくりとする残酷さを孕んでいた。
『閉じ込めて頭を冷やさせるだけでは、どうにもそれが分からぬようだ。その体の髪の一筋から、爪先まで。血液も一滴残らず、そしてその魂も──私のものであり、私次第だと刻み込んでやる』
痛みを感じたのは、生死すら意のままと示さんばかりに締められる首だったか、出会ったときに刻まれた『祝福』の証にだったか、最早覚えていない。
ただ、自らの手により苦しむ様子を見て笑う姿だけは、明確に覚えている。
*
はっと目を開けて見えた鉄格子にぎくりとしたが、続けて見下ろした腕に銀色の腕輪が見えて力が抜けた。
「……はぁ」
ごつんと頭をぶつけた壁は、しっとりと冷たかった。
シェノンは魔術城の地下にある魔術師専用の牢に入れられた。
どこかの部屋に監禁ではなく、地上にある窓がある牢でもなく、地下牢。
いくつもの階に分かれた牢の最下層はシェノンただ一人で、夜のみではなく昼間さえ真っ暗な場所は、収容されている者の時間感覚を狂わせる。
外はこの数日の間に雨季に入ったのかもしれない。ぴちょん、ぴちょんといつからか狭い空間の端っこで、雫が絶え間なく落ちてきていて、牢の中は空気が湿っていた。
「……ちょっと、寝てた……」
魔術封じをつけられているので、魔術かけ直す云々を迷える状況ではない。
夢見は生まれてこのかた変わらず、『昔』の悪夢の日々を見させてくる。これはきっと『賢者』だからではなく、この身で生まれたときからある『祝福』とそれにこびりついた恐れのせいだろう。
「……私は必ず、人として死ぬ。今度は、おまえの手の届かないところで死ぬ。それで終わる。終わってみせる」
一人で生きて、一人で死ぬ。
人の世で生き、死ぬ。
そのために、万が一のために魔術をかけ直さなければならない。
邪竜と戦っていたとき、魔王の祝福の証が反応した。いや、もっと前から、この地にある魔王の心臓が、眷属の声に応えてからか。
首を擦りながら、シェノンはぼんやりと思考に耽る。
竜が目覚めたとしても、遠く離れた聖王の国の首都で封印された魔王の心臓の気配を感じ取ったとは考えにくい。
魔王の祝福を受けた自分でさえ、あのときまで気がついていなかったのだ。
そして魔王の力を今の今まで感じなかった心臓が、竜を呼び寄せたとは考えにくい。竜の声に呼応しただけだ。
それなら誰かが竜を呼び寄せたしかない。誰が?
魔犬と魔狼が首都防壁を突破した跡もなく首都内に侵入したこともそうだ。誰が手引きした?
「ラザル・フロスト……」
魔王の祝福を受けているからと自分が疑われるのなら、そんなことはしていないシェノンからしてみれば同じように証拠もなく真っ先に疑う者がいる。
ラザル・フロスト。
あれは人間ではあるが、人間ではない。
いくらシェノンがラザルを疑っても、ラザル自身は一見ただの『賢者』の魔術師なので、周りが疑う理由が一つもない。
魔王の心臓が無事ならばいいが……。まあ、無事でなければ誰ぞが心臓をどこにやったと拷問でもしに来るだろうから、そうではないということは無事なのだろう。
「やあ、シェノン」
突然聞こえた自分以外の声に、嘘だろうと思いながらシェノンは顔を上げる。
白い魔術灯の光に、暗闇に慣れた目を細めながらも捉えた姿は……
「ベルフェ、なんでここにいるの?」
牢番は基本的に出入口に立っている。見回りもろくに来ず、一日に一回粗末な食事を放り込みに来るか来ないかで、シェノンに声をかけることもない。
だからといって、人が無許可で自由に行き来できるほど仕事を怠けているはずはない。
鉄格子の向こうには、友人の姿があった。
「友に会いに」
「牢番に止められるはずでしょ」
「買収した」
「ちょっと、王弟」
たかが自分に会いに何ということをしている。そんなシェノンの非難の目を気にせず、ベルフェは肩から下げた大きな鞄をごそごそと探っている。
彼はいつも小さな鞄さえ持つ必要がないので、妙に不似合いだ。
「私に会いにって何しに来たの。そんな重要な用事あると思えないんだけど」
「差し入れに来たんだ。思ったより酷いところだよ、こんなところに三日もいるなんて……。はい、どうぞ」
「……ベルフェ、本当にやめておきなさいよ」
ハンカチに包まれたものを鉄格子の隙間からねじ込もうとするベルフェに、シェノンは呆れた目を向ける。
「食べない?」
「食べない」
どうやら食べ物だったらしい。
確かに魔術が封じられている今、食事に毒が盛られていては無害化するということもできず、少なからず影響を受けてしまうので投獄されてからは何も口にしていない。
まあろくなものが提供されない以前に、ろくに提供もされないのだが。餓死でも狙っているのだろうか?
「じゃあ膝掛けは? 外は雨が降り始めてね、気温はそこまでではないはずだが、地下は寒いな」
「持って帰って」
次は場に似合わぬほのぼのとした柄の膝掛けを牢の中にねじ込もうとし始めていたベルフェは、残念そうに膝掛けを引っこ抜いた。
「じゃあ温かい飲み物でも」
「いらない」
「じゃあ着替え……」
「ベルフェ、約束したでしょ」
シェノンが警告に近い声を発すると、また鞄を探っていたベルフェの手がぴたりと止まる。
「私が魔王の祝福を受ける者として、正式に疑いをかけられ、契約による自由を奪われたとき、あなたはそれに関わらない」
ベルフェは鞄の中からゆっくりと手を引き抜き、顔を上げた。
目が合った青い瞳は、哀しみに染まっていた。
「……君と私が友人になった日に、約束させられたな」
「覚えていたようで何より」
「さすがに覚えているよ。そうして友人になったのはシェノンだけということもある。君は、王弟である私は特に自分と関わるべきではないと、近づく私と親しくすることを避けていた。でも私がそう言われても変わらなかったものだから、もしもの場合の条件を守ることを約束の上に私を避けるのを止めてくれた」
王族が魔王の祝福の受け手と関わることの影響の大きさは、ベルフェ自身にも、その他の人間にもあった。
マリア・リーフォードには自分に関わっても揺るがぬ地位がいると言ったが、それさえあれば何の懸念もなく関わりにいっているわけではない。
魔王の祝福の受け手と関わっているという事実だけで人格否定され、疑われ、立場を危うくする。
今ベルフェやエトはその地位ゆえに、周囲は理解できずとも、普段の行動による功績に非難出来ない心理にさせられ何ともなっていないが、そうなった者たちがいる。
ベルフェのときも、一時の気の迷いで王族としての品格を疑われるぞと避けようとしていた。
「でも、友人になったのは間違いではなかった。君と会うたび、話すたび、嬉しくなるたび、楽しくなるたび、私はそれ見たことかと思った。私は君と友人となって良かった。後悔したことなどなく、これからもするはすがない」
シェノンの忠告も無視し、友人として親しくしてきた男は、青臭い青年の頃を思い出させる表情で笑った。
そして、不意にその表情をくしゃりと歪ませる。
「友よ、私は約束を守れそうにないよ」
「……どうして」
「憤りと、哀しさで堪らないんだ。私の友人が、何の証拠もないのに疑われ続け、──処刑されようとしている」
「処刑?」
たかが牢にぶちこまれたくらいで条件を破ってもらっては困ると思っていたら、予想外の言葉が出てきた。
思わず、シェノンは湿った壁からわずかに背を浮かせる。
「証拠は出なかったでしょ?」
「出ていない。だが魔犬と魔狼が首都内に出たというだけで、君が中に入れたと考える者がいる」
「門は絶対に開けられていなくて、召喚魔術の証拠も出てきていないのに? 横暴ね」
「うん」
その「うん」という短い声が微かに震えたように聞こえたのは、憤りからか、哀しさからか。
ふと見たベルフェの手は固く握られ、改めて見ると色々なものを詰め込んだ鞄を持って立つ彼は心なしか小さく見えた。
ああ、きっと、彼は本当に懸念したところの約束は守っているのだ。
シェノン・ウォレスにかけられた疑いに反論し、その地位をもって働きかける。それを懸念していたが、ここに来た以外は本当に関わっていないのだろう。
「ベルフェ、それでいいんだよ。約束を守ってくれてありがとう」
「礼なんて、何を……私は何も──」
「正確に言えばそこで牢番の買収はしたんだっけ」
「…………」
途端にベルフェが叱られた子犬のような目をするので、シェノンは可笑しくなる。これで他に何かしていたら、どんな表情をするのか。
全く、レナルドのあの気性は誰に似たのやら。いくら顔立ちが似ていても、レナルドはこんな顔はしない。
……いや。
三日前に見た苦しそうな様子を思い出した。
「気が済んだら帰ってね」
シェノンの実質の許可に、ベルフェが一瞬ぱっと表情を明るくしていそいそと座りはじめる。
王弟が地べたに座るなよ。シェノンは、行儀悪く座る友人をやれやれと眺めた。
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