30 「全部知りたい」
帰宅後、レナルドが目にしたのは空のベッドだった。
少しの間目を離しただけだった。
シェノンの目が覚めるまで側にいるつもりで、家に連れ帰った。しかしどうしても後始末に騎士団へ行かなければならず、意地で半日で戻ってきたらこれだ。
部屋を隅々まで確認し、外に出かけたところで視界に何か引っかかった。
机の上の紙だ。
嫌な予感を覚えながらレナルドが見たそれには、シェノンの筆跡で『体調は問題ない。外に出る』と記されていた。
「体調『は』って、他はどうなんだよ」
魔王とシェノンが、まるで知り合いのように言葉を交わしていた。
魔王が親しげに名を呼んだ。聞き捨てならない言葉を魔王の口からいくつも聞いた。
対してシェノンは、恐れ、怒り、諦め、その他複雑な負の感情が全て詰まったかのような雰囲気をしていた。
魔王とシェノンとの間に、どういう関係があるというのか。人間が魔王と知り合いであるはずがない。
だがただの魔王の祝福を受けた魔術師、という見方が崩れざるを得なかった。
シェノン・ウォレスの生き方を八年前に知り、また今回、レナルドは肝心なことをまだ知らないと思わされる。
シェノンのあの顔は、声音は、顔は、知らない。
決して向けられたい類いのものではなかったが、知らない様子を自分ではない存在が知っていただろうことに苛立ちを覚える。
同時に、あのような様子の原因だろう魔王に反射的な怒りを覚えた。
「シェノン」
レナルドは紙を握り潰した。
シェノンは明らかに逃げた。不在の間というタイミング、そして肝心なことには何も触れられていない書き置きが何よりの証だ。
「頼むから、いなくならないでくれ」
もう肝心なことを知らないのはごめんだ。
頼むから、知らないことを教えてくれ。
*
外には未だ雨が降っていた。
シェノンは傘をささず、フードを目深に被って、ぼんやりと一人で歩いていた。
目が覚めるとレインズ家にいて、何があったか思い出した。
吐きそうになって、怒りが湧いて、悔しくて、無力感に苛まれて──過去のあらゆる感覚を思い出した。
レナルドがちょうどいないようだったので、会いたくないと思って出てきた。
何も言わずに出ていくとただの失踪なので、書き置きだけ残してきた。何を書き残していくか迷って、体調が問題ないこと、自分の意思で外に出たことを書いてきた。
自分の家に帰るのも避けて、気がつけば首都の街の人のいない裏通りに来ていた。
どうして、自分は生きているのだろう?
おそらく何かしたとすればレナルドで、シェノンは濡れた壁にもたれ、ぼんやりする。
「……魔王」
この人生で、史上最悪の日になった。
ラザルが魔王の心臓を狙っていても、心臓を取られなければいい。邪竜のときのような失態は起こさないと思っていたのに、魔王がラザルの肉体に受肉していた。
魔王そのものと対峙するはめになり、魔王の契約を受け──駆け付けてきたレナルドにやり取りを聞かれた。
「おまえのいない世界は、ないの?」
魔王エルレッド。夢でさえあの魔王から逃げ続けて、ここまで妙な生き方をしてきた果てにまた会うなんて。
今思えば、五年設計の魔術が三年の誤差を起こしたのは、魔王の魂が数年前から巡ってきていて、その影響だったのかもしれない。
あの魔術は、夢を見ないための人工的な眠りを実現するだけではなく、魔王の祝福に封印を施すものが主だったから。
「もう捕らわれることなく生きさせてよ」
あのとき、これからも捕らわれ続けることを覚悟したが、怖いものは怖いのだ。
雨空の下人通りが少ない通りから、さらに外れた裏通り。屋根もない端で立ち止まる存在に、通行人は誰も目も留めない中。
俯き、フードごと濡れそぼったシェノンの頬に誰かが触れた。
ビクリとシェノンは震え、顔をあげた。
「探した」
大きな手が、シェノンの頬を包むように優しく撫でる。
「ずっとここにいたのか?」
頬が冷たい、と長身を屈めてシェノンを覗き込んだのはレナルドだった。
「……なんで、ここ」
なぜ見つけられたのか。
「駄目だろ、こんな雨の中。もう少し休まないと」
「なんで。無傷なのに」
怪我らしい怪我をした記憶がない。シェノンはおかしなことを言うねと微かに笑ってみせる。
「色々無理をしただろ。──魔王相手に」
魔王、とレナルドがわざと口にしたのが分かった。
逃げ道はなかった。後ろは壁。レナルドは前に立っているだけなのに、左右に抜ける隙がない。空間移動の魔術も阻まれるだろう。
シェノンは目を閉じ、深く息を吐いた。
「──聞きたいことある?」
言わされた感があるが、シェノンがなんとか尋ねると、
「言いたいことあるか?」
とレナルドは返した。
それは、言いたくないなら聞かないということだろうか。シェノンは微妙な顔をする。
「言いたいことがなかったら、ここで終了していいのね?」
「……いや、駄目だ」
レナルドの手で、シェノンは顔を仰向けさせられた。
上から見下ろす青い目と、シェノンの紫の目がまっすぐに合う。
「全部知りたい」
「──」
一瞬、シェノンは呼吸がし辛くなった。
「五百年前──前世で、シェノンは魔王ととどういう関係があったんだ? 食われたって何だ?」
全部聞いているではないか。率直に全てを問われ、シェノンはすぐには何も言えなかった。
「シェノン、教えてくれ」
レナルドの言い方は柔らかく、しかし逃げ道を与えない声音だった。
「……なんでシェノンは、肝心なことを俺に教えてくれないんだよ」
シェノンが口を開けないでいると、レナルドは呟くように言った。
どうして、そんな言い方をする。シェノンはようやくの思いで口を開いた。
「……あなたに知られるのが、怖い」
「怖い? どうして」
レナルドは「……シェノンも、怖いとか思うんだな」と言った。
「レナルドには縁がないでしょうね」
シェノンがむっとして自嘲する口ぶりで言えば、レナルドは目を細める。
「いや、俺だってシェノンにそう思ってた」
「怖いっていう感情に縁がないって?」
「ああ。俺が見てきたシェノンは、何にも恐れなかった」
「それは、予想を裏切る面を持ってて悪かったね」
「おあいこだろ。俺だって……怖いって思うんだから」
レナルドが? 何に。シェノンは首を傾げる。
「シェノンにいなくなられるのが怖い」
レナルドから、予想外の言葉を聞くのは何度目だろうか。
「シェノンの肝心なことを知らないのが不安だ。俺が知らない内に眠り続けていたみたいに、俺が知らないことが原因でシェノンが手からすり抜けていきそうで怖い」
どれくらいレナルドについて見逃していたのだろうと、いつかも思ったことをシェノンは思った。
「シェノンは、魔王も怖いか?」
目の前のこの男は、逃がす気はなく、避けるつもりもないのだ。
そう悟り、シェノンはレナルドに気がつかれないように、静かに深呼吸した。覚悟して開いた口は重すぎて、ぎこちなさすぎて、自分の口ではないようだった。
「……私にとって、魔王の祝福と呼ばれるものは呪いでしかないけど、それは、はるか昔に私が自分でした選択の自業自得なの」
これは魔王を忘れて生きていくことを許されない呪いだ。
それはたった一度の選択の誤りが起こしたにしては、後悔してもしきれない大きな誤りから始まった。
「五百年以上前、私は、魔王と呼ばれる神の隣で生きてた」
記憶が明確になるのは、火の海が広がる故郷の村での出来事から。
「前世の私は、魔国の近くの貧しい村に生まれた。そこで、魔王に出会った」
今でも思い出せる。ありありと思い出せるからこそ、前世から持ち越した記憶である証なのだろう。
血が辺りの地を染め上げ、においが充満し、死の雰囲気が満ちていた。
目の前に現れた男がその惨状を引き起こしたのだと直感した。
魔王が自らの配下と人間を殺しに来た。次の瞬間には自分も殺されてもおかしくない状況。見えないところで事切れた『家族』。
恐れはなく、怒りも、憎しみもなかった。ただそのとき、生まれて初めて生きたいと思った。死にたくないと。
瞬間、魔力が目覚めた。とはいえ魔力というものを知らず、自覚もなかったような状態で魔王に勝るはずがない。
地に伏せられ、シェノンの命はその男に握られていた。
だが殺されず、笑った男に誘われた。
「好きだったかと言えば、最後まで一度もそうあったことはない。最後は大嫌いだった。でも最初は確かに『嫌いじゃなかった』」
「……魔王のことが?」
なぜ、なんて人間からすれば当然の問いだ。魔王を敵対視する者こそいるが、それ以外はあり得ない。
シェノンは微かに笑ってしまったが、過去の自分への自嘲だ。何度思い返してもそのときのシェノンは愚かだった。
「家族を殺してくれたのが魔王だったから。今回の人生もだけど、私はつくづく家族っていうものに恵まれない」
生まれたときから物のように扱われて、幼い頃からろくな人生ではないと思っていた。死ぬのを待っているような日々だった。
魔王の祝福を持って生まれた今世も言うまでもない。
「とは言っても魔王が私のために殺してあげたなんていうことはなくて、もう一度あのときが訪れれば、私も殺されてもおかしくない。だけどそのとき単に私の家族は殺され、私は偶々殺されなかった。そして偶々、魔王が私に興味を持ち、私は愚かにも抵抗しなかった。最初は抵抗する理由なんてなかったの」
地獄から、新たな地獄へ至ることなど想像もしなかった。
シェノンはその日、差し出された手を取ってしまった。
「自由に生きられると思った。この男のように強くなれば、誰に踏みにじられることなく生きられると思ったのよね。──生きるために手を取った奴が想像の倍まずい存在で、逃げるに逃げられずに死ぬまで捕まるなんて知らずにね」
ああ、そうだ。何度も思う。
思い出す度、どこでどうなっておけば一番ましだったのか。
幸せになるためにはどこでどうするべきだったかなんてない。シェノンが前世で幸福になれる道など用意されていなかった。
「私はね、いっそ最初に家族と殺されておくべきだったんでしょうね。聖王の民である人間が珍しくもなついたからか、魔王が私に飽きることはなかった。魔術の使い方、知識は魔王に教わった。気がつけば何年も魔王の側にいた。──いっそそのまま目が曇っていれば良かったかもしれないけど、邪竜も魔狼も、そして魔王も多くの人間を殺して、それをすぐ近くで見ていたら、次第に違和感を抱きはじめた」
自らの周りにいた醜悪な人間が何だったのかと思うほど、明らかに善良な人間を見た。彼らは例外なく殺された。
シェノンは、自らを受け入れてくれた魔王や魔族たちの行いに違和感を抱きはじめた。
そして、自分が側にいる男がどれほどまずい存在なのか自覚した。
「そう気がついたときにはもう遅い。というより、魔王に会って生き残ってしまったときには手遅れだった。逃げようとしても、抵抗しても、無理なの。どれだけ強くなっても、敵わない」
最初に逃亡を図ったときのことだった。逃げようとする獲物を捕まえ、二度と逃げる気など起こさせないように刻むような行為をされた。
思い出して、シェノンの息が乱れた。あのとき逃げようとしなければ良かったか?
いいや、どのみち待っていたのは、地獄だ。
「それからは時間が経つにつれ、ひたすら苦しかった。嫌だった。もう側にいたくなかった。触れられたくなかった。呼ばれたくなかった。息苦しかった。離れられるなら──死んでも良かった」
苦しい、苦しい。もう二度とあんな目には遭いたくない。
「でも離れられない。死ぬことも許されなかった」
知らないふりをして、我慢して無理にでも側にいるだけいれば毎日毎日毎日毎日あんな目には遭わなかったのかもしれない。
「自分の意思なんて生まれる前に消され続けて、気が狂いそうで、壊れそうで。ある日、私は魔王の言うことを聞くことにした。愛せと言われたから、そうした。『そうしようと思った』。そう思えば、いっそ楽になれると信じてたから」
だから、きっと、シェノンはこの先誰も愛せない。これは自分でかけた呪いだ。
「死んだとき、安心した。死ねた、やっと離れられるって思った。死に方は最悪だったけど。どうせ魔王に殺される以外の死に方なんてないとは思っていても、喰われて死ぬとは思ってなかったわけだし」
「喰われてって、そのままの意味で?」
「ええ」
「……喉、関係あるのか」
シェノンは微かに震える手で、無意識に喉をさすっていた。言われて、手を止めて皮肉気に笑う。
「ここを、噛みちぎられたから」
「……へえ」
低い声が聞こえたあと、レナルドが近づいた。
そして──喉に噛みつかれる。
「レナ──」
「だって気にくわない。魔王にそれだけ影響されてることが気にくわない」
「それは、仕方ないでしょ」
「俺はその全てを上書きしたい」
我儘で、傲慢なことを躊躇いなくレナルドは言う。
「好きだ」
「──やめて」
考えるより先に拒否の言葉が出た。
シェノンは顔を逸らす。
「お願いだから、やめて」
「どうして」
シェノンは答えられない。聞き返してくれるなと言いたいくらいだった。
「なあ、シェノン」
「……」
「どうして、黙って出ていった」
「レナルドに、会いたくなかった」
「どうして」
だから、聞き返してくれるな。どうしてなのか、どうして答えられないのかがシェノンには自分でも分からなかった。
「じゃあ、別のこと聞くけど。──好きになれないって前に言ったよな。なんであれ、あのとき言ってくれたんだ? それまでは俺が諦めるまで待つつもりだったんだろ?」
「……」
「今、俺との契約期間だよな。三ヶ月、シェノンは俺の言葉を聞いてくれる約束だ」
確かにそんな内容の条件をつけられていた。シェノンは口をつぐむしかない。
「どうして、逃げた?」
「……返せないのに、レナルドの言葉を聞き続けるのが苦しくなってきたから」
だから、以前にそう言った。
「自分と生きてくれって言われたのは、嬉しかった」
三ヶ月の契約を決めたとき「俺と生きてくれ」とレナルドが言った。誰かと生きる懇願に戸惑った。
でも。
「レナルドのことを、好きになれたら良かったとか思ったけど、私には無理だから」
どうして、レナルドは自分を好きになってしまったのか。
八年、側にいなかった。八年の間にレナルドが問題を起こしても、側にいてやり、抱きしめてくれる人を好きになれば良かったのに。
今また好きと言われても、シェノンにはやはりその感情が分からなかった。
レナルドの手が、またシェノンに触れようとする。
「触らないで」
「触られるの嫌か?」
「そういうわけじゃ」
「ないなら、触る」
手はフードを取り、濡れた髪を避けて、シェノンの顔を露にした。
「どうして泣いてる?」
分からない。理解できない。自分でもどうすればいいのか分からない。
考えて出される思考と、勝手に出される思考が噛み合わなくて。ぐちゃぐちゃで。処理しきれなくなったそれらが溢れたように、シェノンの目からは涙が溢れる。
「俺の前でそんな顔して、よく俺が諦めるとか、俺から逃げられるとか思えるな」
なあシェノン、と、レナルドは名前をそっと呼んで、
「返せないのが苦しくて、俺と生きてくれって言われたのが嬉しくて、好きになれたら良かったって。それ、もう俺のこと好きだろ」
驚き瞠目するシェノンを、レナルドは壁との間でより追い詰め、真上から逃がさないように視線を捕らえる。
「認めろよ」
「分からない、私は、」
「シェノンが」
シェノンの戸惑い、力なく溢れる言葉をレナルドが遮る。
「シェノンが分からないって言ってるそれが、『好き』じゃいけないのかよ」
分からない、分からない、分からない。
「俺を好きになるのは嫌か?」
「嫌じゃ、ないけど……」
ただ、戸惑う。反面、ぐちゃぐちゃだった思考がほどけていくようで、シェノンはそれにも戸惑う。
好きになれたらよかったと思ったのは本当で。
魔王と戦ってほしくなくて。
失うのが怖くて。
逃げたのは、どんな反応でも怖くて──。
まるで、それらは単なる知り合いへの反応ではないと気がついてしまった。
動きを止めたシェノンの額に、熱が触れた。雨で冷えた肌ではそれは余計に熱く感じた。
「……前に、俺の顔見つめて無言で十秒経ったらキスするって言ったの覚えてるか?」
今、額にした、とは声にならなかった。固まったシェノンの腰を抱き、レナルドが引き寄せる。
「シェノンの泣き顔でそこそこきてたのが、今、留めを刺された気分なんだよな」
互いの濡れた体が密着させられ、わずかな隙間に雨が降る。
青く澄んだ色とは正反対の熱を宿した目が、シェノンの目の前にあった。
レナルドの手が、唆すようにシェノンの頬を撫でる。
シェノンはどうしよう、と思った。
気がついてしまった。けれどまだ分からない。でもその分からない、がただ知らないだけでこれがそうだと言うのなら。
それを拒む理由は、きっとない。
ぎゅう、とシェノンの手が、濡れたレナルドの服を掴む。
レナルドはそれを敏感に察し、わずかに目を見開き驚いた表情をしたあと、嬉しそうに笑った。
「俺の勝ち、だよな」
後で文句言わせないから絶対覚えてろよ、と言いながら、レナルドはシェノンとの間に少しあった距離を縮める。
「好きだよ、シェノン」
触れる寸前、囁き、レナルドはシェノンにキスを落とした。
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